ル=グウィンの苦言/『ふたり』を見て思う〈その3〉 | アディクトリポート

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これの続きで、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-ふたり
NHKの番組『ふたり コクリコ坂・父と子の300日戦争~宮崎駿×宮崎吾朗~』について。

ですが今回も、番組自体の話は、ほとんどありません。

とはいえ、なにしろ番組を見てて感じたのは、「こんなに内情をさらけだしちゃっていいの?」ってこと。

いくら作品の完成こそが第一義とは言え、社内事情に関して、無防備であからさまに過ぎないかと感じずにはいられなかった。

見る人が見ると、内情が見透かせちゃうんだしさ。

いや、どうもジブリ社内では事態を完全に把握し切れてなくて、情報がダダ漏れになったずっと後になって、あわてて取り繕(つくろ)っている、というのが実情なのかも。

そこで今回は、こういう、対応が後手後手になった事例の代表をご紹介。

それは(またしても)2006年のこと。

まだ当時の私はもっぱらmixi住人で、そこであるニュースに接する。

映画『ゲド戦記』について、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-sennki
原作者のル=グウィンが文句を言っている!

$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-さっさき
アーシュラ・K・ル=グウィン(Ursula K. Le Guin)

さっそくのぞいてみた。
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-a-susi-
今でも残っていて、閲覧可能です。(ただし英文)

本音炸裂で面白かった!

訳文はWikiにあるけど、後述する理由でオススメできないので、以下に要約。
※5年で私の翻訳スキルも上がっているので、今回新たに訳し直しました。

*日本のファンから問い合わせがあったから、映画『ゲド戦記』についての感想をば。
*いったん契約を交わしてしまえば、原作者は無力も同然。
「クリエイティブコンサルタント」という肩書きも同様。
*だから「なんで(原作者の)あんたがいながら、こんな(映画の)出来?」という批判や文句は、お門違い。
*20数年前(2006年当時=1980年代)、宮崎駿から、当時はまだ3巻しかなかった私の『ゲド戦記』(アースシー物語)をアニメ化したいと打診があったが、アニメなんてディズニーみたいな子供向けだろうと思って断った。
*6~7年前(2006年当時=1999年頃)に、友人のヴォンダ・マッキンタイヤから、
$オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-vonnda
『となりのトトロ』(1988)をすすめられ、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-ととろ
見るやたちまち、宮崎アニメの虜(とりこ)になった。
*彼は黒澤明やフェリーニに匹敵する天才映画監督だと思う。
*また数年後、日本の『ゲド戦記』の翻訳者である清水真砂子さんが、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-まさこ
宮崎監督と知り合いだと知って、
もし監督がまだ『ゲド戦記』の映画化に興味があるなら相談に乗りたいと、わざわざこちらから持ちかけた。
*ジブリのプロデューサー、鈴木敏夫氏からは色よい返事をもらったので、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-とうじのすずき
二人で相談した際に、
*ストーリーやキャラクターの大幅な改変は得策ではない旨を伝えた。
*理由は、世界中に原作のファンがたくさんいる(だけに、それをないがしろにすれば反発は必至な)ため。
*宮崎監督が自由に映画を創れるように、原作に縛られない、1巻と2巻の間の10年や15年を舞台にしてはどうかとまで提案した。
*こんな提案を自分から持ちかけたのは、相手がほかならぬ宮崎駿監督だったからこそである。
*2005年の8月に、鈴木プロデューサーと宮崎氏が直接こちら(アメリカのオレゴン州ポートランド)まで出向いてくれて、私と、『ゲド』の版権管理をしている息子で、自宅で接待した。
*駿監督自身は引退したがっており、息子の吾朗を『ゲド』の監督に起用したいのが、ジブリと駿氏そろっての意向ということだったが、
*その吾朗というのは、アニメ製作の経験がまったくない初心者だとも知らされた。
*これには私も息子もガッカリだったし、先行きが不安にもなったが、
*どのジブリ作品だって、父の駿の目にかなわないまま公開された前例などないわけだから、
*今回だって同様だろうと見込んで、だからこそ映画化を承認した。
*ところが同意する前に、映画の製作はとっくに始まっていて、竜と少年のポスターと、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-げろ
駿の描いたホートタウンのスケッチと、アニメのスタッフが仕上げた完成版も手渡された。
訳注:このスケッチも、駿ではなく吾朗が描いた可能性が高い
*その後、映画『ゲド戦記』は、かなりの急ピッチで仕上げられ、駿氏は全くノータッチだったことを知った。
*駿氏からは心のこもった手紙をもらい、後日、息子の吾朗からも受け取り、こちらからもそれぞれに返事を返したが、
*アメリカと日本の双方で、この映画の製作にまつわる怒りと失望が渦巻いたことは残念だ。
*駿氏は引退する気がなく、別の新作に取り組んでいるというのも、
$作家集団Addictoe オフィシャルブログ-ぽにょ
さらに私をがっかりさせた。知りたくなかった。

映画について

*私も息子も東京のプレミア上映に足を運べず、ジブリはわざわざフィルムを持参して、2006年8月6日に、ポートランド市街中心部の映画館で、私のために試写会を開いてくれた。
*上映後に、息子の家で夕食会となり、
*コーギー犬のエリノアちゃんが、お行儀よく振る舞っているかたわらで、
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-おrぎ
※画像はイメージです。
*鈴木敏夫プロデューサーは、芝生で逆立ちという傍若無人ぶり。
作家集団Addictoe オフィシャルブログ-さかだち
※画像はイメージです。
*私の帰り際に、吾朗がこう訊いてきた。
「映画は気に入っていただけましたか?」
"Did you like the movie?"
*状況的にも、なんとも答えにくい質問だった。
*一応、こう答えておいた。
「ええ。もはや私の小説を完全に逸脱し、別物の映画になっちゃいましたが、まあ映画としては並の出来じゃないんでしょうかね」
"Yes. It is not my book. It is your movie. It is a good movie."
*吾朗本人に答えたつもりで、周りに取り巻きがいることには気づかなかった。
*個人的な質問には、訊かれた本人にだけ答えたい。
*それでもこうして公にしているのは、吾朗が自分のブログで、このくだりを公開してしまったからに他ならない。
*ではもう少し時間をじっくり取れて、多くの聴衆に向けて本音で打ち明けるつもりで、映画『ゲド』の詳しい感想をば。
*にわかづくりな作品だけに、『トトロ』や『千と千尋』のきめ細かさは望むべくもない。
*ビジュアル的には凡庸。アクションは目を引くが、原作の精神には背くものだ。
*ストーリーはしっちゃかめっちゃかで、一本筋が通ったところもない。
*そう感じたのは、まるで原作と無関係の筋立てなのに、懸命に共通性を探り続けたためなのかも。
*原作と同名のキャラが、まるで異なる境遇で別の行動を取り、当然別の運命を歩んでしまう。
*もちろん映画と小説は異なる表現媒体だから、なにもかもをべったり引き写しとはいかないにせよ、
*仮にも40年も刊行が続く成功作の小説を原作に冠しているなら、相応の忠実性があってしかるべきではないか。
(編注*アニメに先駆け、アメリカで実写のテレビドラマ版も発表されたが、これまたひどかった
*実写もアニメもどちらとも、私の原作をキャラの名前やコンセプトのネタ帳程度にしか考えておらず、バラバラに解体した部品を無秩序に組み直すから、当然つじつまの合わない欠陥不良品ができあがってしまう。
*こういう原作軽視の姿勢は、原作小説に不忠実なのは言わずもがな、原作の愛読者にとっても失礼じゃないのか?
*原作の倫理観も、アニメ版では歪められている。
*アレンの父殺しの動機はわからずじまいで、アレン自身の分身の影が仕向けたことが後半で語られたところで、なんの説得力もない。原作の似たような要素を形だけなぞるから、こういうことになる。
*人間の心の闇は、魔法の剣を一振りすれば消え去るわけではない。
*それなのに映画では、わかりやすい悪者が出てきて、そいつを倒せば事態は全部解決してしまう。
*誰かを殺せば問題解決という物語なら、それこそ腐るほど氾濫しているが、私の小説はそんな安直な問題解決を選び取ったことはない。


等々々……。

これは面白い!

というところで、次回に続く。

なぜ、Wikiの訳文にあたらないほうがいいのかも、この次に説明します。