「人間失格」
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これは同じ太宰治原作の「ヴィヨンの妻 ~桜桃とタンポポ~」の時にも感じたが、
![オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-たかこただのぶ](https://stat.ameba.jp/user_images/20091018/00/addicto/4d/48/j/t02200124_0515029010279302479.jpg?caw=800)
![オレたちがやる! 作家集団Addictoeデビュープロジェクト-たかこりょうこ](https://stat.ameba.jp/user_images/20091018/00/addicto/4b/4e/j/t02200161_0450033010279302477.jpg?caw=800)
途中までは正体がつかめず、中盤から面白くなって、最後の方はニヤニヤ笑いが止まらない。
いや、太宰治の小説だって(読んでないけど)、その映画化だって、いたってまじめに、主人公の堕ちていく様子や、死の誘惑にとらわれていく様子を淡々と描いていて、「笑うなんて不謹慎」と思われるだろうけど、ニタニタしてたのがホントなんだからしょうがない。
で、主人公の葛藤だとか転落の構図には、物語の最後まで抜け道が見いだされない点も、こうした過去の著作の共通点だし、実際の作家とか芸術家の多くも創作に行き詰まって、破滅の道に歩み出すというのが典型的なパターン。
ということは、転落あってこその逆転、という意識に至らないところで、終わってしまってるわけです。
まあ、それがこの頃の共通意識だからしかたないけど、現代のメンタリティとしては受け入れづらい人が増えてるんじゃなかろうか。
このサイトで、
太宰治の本質は文体にあると思っている。
「何が書かれているか」よりも、「どう書かれているか」の方に魅力があるのではないか。
とあって、別にそれはその通りだけど(だからプロットは「ヴィヨンの妻」と一部重複していたりする)、「何が書かれているか」の方が「どう書かれているか」よりも優先した小説でないと、まともな映画の原作としては機能しなくて、あっちこっちを追加したり補強しなくちゃならなくなる。
っていうことに、ほとんどの小説家は気づいてないからね。
ところが文体いじりとかテクはほとんど出尽くしちゃってるし、そこに戦いを挑んだって、いわゆる文豪に太刀打ちなんてできっこないんだから、だったら「何が書かれているか」に注力すべきなんだけど、これまたほとんどの作家も読者も出版に携わる人たちも気づいてない。
だから同じ過ちを延々と繰り返してしまう。
そんなこんなで、いろんなことが「見切れる」ようになったなあと感じながら見終えました。
ああそれから、この前、ある方のご厚意で取り壊される直前の歌舞伎座で演目を見る機会をありがたくも頂戴しましたが、そこだけタイムトラベルみたいに、かたくなな型を継承する異空間に驚いた。
演じている方(ほう)ももちろん、観客にも作法を強いるんだけど、作劇の手法もテンポも、もう全然現代にそぐわないの。
だから見ていて居心地が悪いっていうか、苦行に近いんだよね。
芸術保護の観点からは意義はあると思うけど、まあこの道を目指すのは一族だけにしていおいた方がいいでしょうね。
というわけで、久々の映画レビューでした。
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