ファミリアー 歌姫の死と再生〈その11〉 | アディクトリポート

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ハッピーバースデー

 事務所の社長や母親にだけは本音の素顔を見せたものの、美奈子の病気を見舞って、励まし、元気づけるはずの訪問者たちの方が、反対に美奈子から力づけられることもしばしばだった。
 美奈子を心配する身内は、入院当初からそれこそ毎日のように見舞いに来てくれたが、直接は話せず、備え付けの電話型の通話機でのやり取りになった。それでも美奈子は勇気づけられ、見舞客には笑顔を絶やさず、訪問の様子をガラス越しにケータイで撮影した。
 入院から3週間が経った2月4日。その日も美奈子の熱は39度を超えていた。短く切った髪も抗ガン剤の影響で、すでにすっかり抜け落ちてしまい、頭にバンダナを巻いて、これを隠していた。
 しかしその夜、美奈子はつらい体をおして、あるものを準備していた。無菌室にある、あり合わせの材料で、看護師にもあれこれと助けられながら、彼女は翌日に備えた。
 翌2月5日。妹の律子が姉を見舞いに訪れて、なにげなく無菌室のガラスをのぞくと、そこには「律子 ハッピーバースデー」と書いた大きな張り紙があり、その周りには花の形に色紙があしらわれていた。買い物に外出できないため、手元の便せんや封筒をちぎって、美奈子なりに工夫した、妹への精一杯の誕生プレゼントだった。
 これを一目見るなり、律子は感謝と感激の涙があふれ出すのを止めることができなかった。
 地元の幼なじみの大親友で、美奈子が芸能界にデビューしてからもずっと友達づきあいをしてきた勝瀬友美子(かつせゆみこ)は、3月23日に美奈子から以下のケータイメールをもらった。(★/ ☆は絵文字)

 待ってろよー★白血病なんて吹っ飛ばして元気になるからね★元気になったら、パンツでも何でも洗うからねー★☆(=家)で、美味しい★(=食事)もいっぱい食べようね★友美無理だけはしちゃダメだぞー★ 美奈子★(=四つ葉のクローバー)

 当時の勝瀬は、自分の母や子供が相次いで体調を崩して、たしかに大変な時期だったが、どう考えてもそれよりずっと大変なはずの美奈子から、わざわざ電話やメールで気遣いの言葉をかけられて、大親友の相手を思いやる心に深く感じ入ってしまった。

* * * * *

 免疫力が低下し、口の中にできた口内炎が喉にまで広がり、水も飲めなくなった美奈子は、砕いた氷を口に含んで水分を摂るようになった。
 こうしたつらい闘病中の美奈子の元へ、1枚のMDが届けられた。
 送り主は、美奈子のアルバムプロデュースやサウンドプロデュースも手がけた、キーボード奏者であり作詞家、作曲家、編曲家でもある井上鑑(いのうえあきら)だった。
 互いに頼もしき仲間だと認め合っていた美奈子と井上だったが、今の井上は多忙を極め、美奈子の見舞に訪れる時間の余裕がまるでなかった。
 だが、自分にとって、美奈子の病室を訪れることが、本当に美奈子を励ますことになるのだろうか。それよりももっと有意義で、自分にしかできない激励の仕方があるのではないか。そう考えた井上は、美奈子が復帰した時に歌う新曲のメロディを演奏したものをMDに収録し、歌詞は美奈子に託した。
 これは美奈子の心を打った。
 美奈子は自分の病気が重いものだと承知していただけに、これを見事に克服すれば、同じ辛い境遇にある病気の人達や、人生の困難な局面にある人を勇気づけられ、共に生きていく、つながっているという感覚も育(はぐく)まれるだろうと考え、その精神をこの一曲に込めようと考えた。
 こうして井上の厚意に応えるべく、美奈子は3月5日づけで、ノートに「笑顔」と題された詞を書き留めている。どちらかといえば歌の歌詞というよりも、美奈子が病気を通して感じた人生の信条のようなものが、ふだん通りの彼女の、気張らず、飾らない文体で、さらりと書きつづられている。

* * * * *

 4月20日。本田美奈子の芸能生活20周年のこの日、『クラウディア』の仲間、岸谷五朗、寺脇康文、YU-KIの3人が、舞台仲間の寄せ書き持参で、美奈子の元を訪れてくれた。
 今はとにかく、直面している白血病との闘いに専念するべきだとわかってはいても、それ以前から決まっていた仕事の期日が迫ってくると、美奈子は心の焦りをどうにもできない。
 3月8日の『レ・ミゼラブル』の初日にも同じような思いに駆られたが、一方で彼女不在で始まった舞台の帝国劇場には、本田美奈子への応援ポスターが貼られていた。別所哲也、知念里奈、岩谷時子……そして急遽、美奈子の代役をつとめることになったマルシア。さらには美奈子の一日も早い回復を願うスタッフ、キャストに混じって、会場を訪れたファンたちの言葉も書き連ねられていた。
 前年に大成功を収めた『クラウディア』は、この2005年にも5月からの再演が決まっていて、これは『レ・ミゼラブル』よりも先にスケジュールが確定していた。
 美奈子はこれもまた悔しかったが、その仲間たちが忘れずに自分を訪れ、メッセージをくれたことを素直に喜び、返事のできる相手には個別にメールで礼を述べるのに併せて、相手を反対に激励することも忘れなかった。

 当時の彼女の心境は、この頃に書かれた、「ありがとう」と題された詩にも表れている。

「ありがとう」

今まで いっぱいの “ありがとう”を
言ってきた。色々な気持ちの
“ありがとう”を
ふと、 “ありがとう”を言っている時は
どんな時だろうと考えてみた。
お誕生日プレゼントをもらった時…
突然の雨で 雨宿りをしていたら
見知らぬ人が傘を借して(原文ママ)くれた時…
お母さんが ご飯のおかわりを
よそってくれた時。
誰かに何かを教わった時…
誰かに助けてもらった時。
誰かに 命を救ってもらった時。
誰かに…  誰かに…
お嫁に行くときだって
私を産んでくれて  “ありがとう”
私を育ててくれて  “ありがとう”
今までお世話になりましたと 両親に
“ありがとう”と 感謝の気持ちをのべる。
そうだ。誰かや 何かに 感謝を
している時なんだ。感謝、 感謝。
当たり前の事の様に思えるけど
(中略)
大切に 心から感謝しながら
人生を歩んで行きたいな♡
ありがとうよ ありがとう。

臍帯血移植

 美奈子への抗ガン剤治療は、1月から4月までに間を空けて計4回行われた。しかしそろそろ、それ以外の方策も考えなければいけなくなっていた。
 当初は骨髄移植の道を探ったが、たとえ肉親の母美枝子や妹律子でも、あいにく不適合だった。そこで、もう一つの方法を選択することになる。
 その方法とは、臍帯血移植(さいたいけついしょく)である。
 臍帯血とは、母親と胎児を結ぶ臍(へそ)の緒(お)や、胎盤に含まれる血液のことで、骨髄と同様の血液細胞を造り出す造血幹細胞が多く含まれている。妊婦の臍の緒や胎盤から採った血液の移植に成功すれば、白血病患者のガンに冒された骨髄細胞を再生させられる。
 5月12日に行われたこの移植手術もまた新聞等で報じられ、美奈子の直筆の報告が添えられた。

応援してくださっている皆様へ
 早いもので、入院してから もうすぐ4カ月になろうと
 しています。皆様にご心配、そして、ご迷惑を
おかけして 申し訳ありません。
自分自身 未だに夢を見ている様で 信じられません。
でも、これは現実!! 現実を受け入れて、
病気と戦わなくてはいけない! と思っていても
涙が止まらないのです。
 そんな私を、いつも優しい笑顔で、病気、
 そして、心まで治して下さる、病院の先生方、
 ナースの方々がいます。
今は、全てを お任せして、移植をする事に
 なりました。怖くないと言ったらウソに
 なりますが、デビューして20年!! 色々な
 チャレンジをしてきて 全力で頑張って
チャレンジをした後には、新しい自分が 輝いている自分が 待っていてくれました。
そう考えれば、移植もチャレンジすれば
輝く健康な自分が 待っていてくれる。そう信じています。
1日も早く治して元気な姿で
ステージに立てる様  頑張ります。
皆様からの 暖かい 心の込もったメッセージ
私にとって、何よりも 支えです。
心を込めて…
本田美奈子.


回復の兆し

 移植から数日後、美奈子の体に変化が訪れ、全ての爪がはがれ落ちた。これは新陳代謝が活発になり、新しい細胞に生まれ変わっているからで、つまりは臍帯血移植が功を奏していることの証であった。
 快方に向かう美奈子を祝すように、井上鑑からは、以前のMDに続いて今度はビデオカセットが送られてきた。
 そういえばまだ美奈子は、あの曲にふさわしい歌詞を完成させられないままでいた。もしかしたらビデオには井上が登場して、歌詞の完成をせっつかれるのではないか。そんな軽い気持ちでビデオを再生した美奈子は、そこに映っているものが一瞬信じられなかった。
 なんとそこには、あの福山雅治がマイクを握り、まだ歌詞のないあの曲の、メロディだけを朗々と口ずさんでいる姿が写っているではないか!
 これは何も、美奈子が福山に熱を上げていることを井上鑑が知っていて、彼女のために気を利かせて粋な計らいをしてくれたというわけではなく、全くの偶然だった。
 井上はこの頃、福山雅治のコンサートツアーに同行しており、とても美奈子の見舞いに病院を訪ねられないことが、ずっと気がかりだった。
 そこでまずは福山のツアーメンバーに声をかけ、歌で美奈子を励ましたいから協力してくれないかと頼んでみた。自然と人の輪ができているのを福山が見つけ、内容を聞くやたちまちその主旨に賛同して、彼も同じ輪に加わってくれた。こうした偶然が重なって、急遽編成されたバンドの演奏と、福山の歌が映像に収められることになったのである。
 このビデオでの福山以外の演奏参加者は、キーボードが井上鑑当人、ドラムが山木秀夫(やまきひでお)、バスが美久月千晴(みくづきちはる)、ギターが小倉博和と鎌田ジョージ、パーカッションが三沢またろう、サックスが山本拓夫、トランペットが西村浩二、トロンボーンが村田陽一、ヴァイオリンが金原千恵子(きんばらちえこ)、そして福山のメインボーカルに加えて、坪倉唯子(つぼくらゆいこ)と高尾直樹(たかおなおき)がサブボーカルを務めていたが、美奈子がビデオを見て顔を知っているのは、井上鑑と福山雅治だけだった。
 美奈子の方でも、井上と福山雅治に接点があることなど、まるで知らなかった。
 2004年5月14日に、「たけしの誰でもピカソ」で、美奈子がポップス風、ミュージカル風、クラシック風と次第に音域を高め、更に最高域までも達する堂々たる歌いっぷりを披露した時に、井上にピアノ演奏をしてもらったのだって、あくまでも井上の才能を信頼しているからであり、福山と井上に接点があるなどとは思いも寄らなかった。
 そしてこれは、井上と福山の二人の方でも同様だった。
 井上鑑が、本田美奈子が福山雅治の大ファンだったことを知るのは、これよりずっと後だったし、福山は福山で、井上から持ちかけられた相談に二つ返事で賛同したのは、あくまでも現在美奈子が置かれている境遇と曲作りの趣旨に賛同しただけで、もしもこれが本田美奈子以外の人に関わることであっても、快諾していたに違いない。
 もちろん福山が本田美奈子の名を聞けば、デビュー当時に偶然出会ったことを思い出しはしたものの、わざわざそれを井上に伝えることもなかった。
 とにかく美奈子は、ビデオの画面でメインボーカルを務めているのが福山雅治だと気づいた瞬間から、驚きと戸惑いを感じた。
「えっ? まさか……もしかして、でも……やっぱり! 福山クンだ!」
 先に井上から渡されていたMDを何度も聴いていたから、すでにすっかりなじみ深くなっていた曲を、福山クンが魅力ある独特の低音で、いかにも彼らしく気張らず飾らないスタイルで、しかし真剣に、心を込めて歌い上げていく。
 美奈子は当初は驚きと興奮を感じ、やがてそれが感激と感謝の気持ちへと移り変わっていき、最後にはとうとう泣き崩れてしまった。
 美奈子はここで、二つの相反する感情に襲われた。一つは何が何でも白血病を克服して、必ず自分で再びステージに立ち、この歌を自分で歌おうというものだった。だがもう一方で、自然に感じていた素直な気持ちは、それとは全く正反対のものだった。
 まさに奇跡が起きた。一番好きで、一番会いたい男性(ひと)が、自分のためだけに歌を歌ってくれている。
 こんな偶然なんて、あるんだろうか?
 私は本当に幸せ者だ。
 これ以上に嬉しいこととか、幸せなことなんか、望む方がわがまま過ぎやしないだろうか。
 たとえ今晩眠りについて、そのまま目が覚めなかったにしても、もはや私の人生には、何の悔いもない。
 ありがとう、井上さん!
 ありがとう、私のために歌ってくださった、演奏してくださった皆さん!
 そして誰よりも、本当にどうもありがとう。私の一番大好きな男性(ひと)、福山雅治さん。
 あなたは約束通り、私が困った時には、こうして助けに来てくれたわね!

* * * * *

 6月になると、美奈子は無菌室から出られるようになった。
 面会に訪れても、ガラス越しに通話機の受話器を通してしか面会できないと聞いていた南野陽子が、やっと時間を見つけて病院を訪れると、美奈子は無菌室から出て、直接手に手を取って話せるようになっていた。
 南野はそもそも大親友の白血病という発病さえ信じられなかったから、この姿に接して、やっぱり美奈子は元気になったと安心した。
 そうこうしているうちに、福山雅治に続くかのように、美奈子にとってはまたしても運命の偶然が起きた。同じ病院に、美奈子が芸能界のお母さんと慕っている岩谷時子が、転んで大怪我をして入院してきたのだ。
 だが見舞いに行きたくても、美奈子は病室から出ることができない。知恵を絞った美奈子は、ボイスレコーダーに自分の声を吹き込んで届けることにした。
 岩谷の方も自分の声を吹き込んだレコーダーを返し、二人の声だけのやり取りは続いた。
 美奈子はいつも、メッセージの最後に、岩谷に向けてアカペラの歌を吹き込んでおり、またメッセージには本音を込めることが多かった。
「最初のうちは私は、ちょっと芸能人ぶっちゃったりして、人と会わないようにしてもらったりとかしてたんですけど、途中から廊下とか出るようになって、患者さんたちとお話しをするようになって、そしたら心がとっても安らいで、おんなじ心の痛みとか、体の痛みを知っている人達と、仲良くなれて、お話しできると、ほんとに、なんか分かち合えたような気がして、ほんとに、嬉しいなと、思っています」
「今日は……あの、なんかブルーなんです。気持ちが……なんかちょっと……立ちくらみとか、それとか動悸とか、なんか貧血っぽいのが、実は2、3日続いてまして、だけど、原因が分からなくて、リハビリも出来てないんです」
「大丈夫ですか? 今日は元気ですか? 昨日よりもちょっとは元気ですか? 私はまた昨日よりもいっぱい元気で、えっと、来週の月曜日になったら、点滴の、お薬が、飲み薬に変わったり、今日の朝ご飯は、移植してから初めて、パンが出ました。パンを初めて食べました。どんどん、どんどん、治っていく方向に進んでいまぁす」
 美奈子の体の中では不思議な変化が起きていた。臍帯血移植によって、新しく健康な血液が造り出されて、元来はOだった血液型が、やがてはA型になる途中過程で、その比率はA型が一割、O型が九割に変わっていた。
 新しい体に変わりつつある美奈子の体調は最高潮で、食事も普通食になり、リハビリの回数も急速に増していった。まさに奇跡の回復だった。その実感も美奈子は岩谷に伝えた。
「私はますます元気になりまして、この病棟の廊下を、21往復、今日はしました」
 一往復が70メートルなので、全部で1470メートル。なんと約1.5キロもの距離を歩き、その快調な歩きっぷりは、母の美枝子ですら途中でついて行けなくなって、美奈子が後を追う母を待ち受けるほどだった。限られた区画とはいえ、階段を見つけては、上り下りまで行って体をならした。
 やがてガン細胞が消え、美奈子は退院を許される。7月30日。母は退院の祝いのメッセージを娘に捧げた。
「美奈子へ 退院おめでとう。苦しい時でも、いつでも前向きで頑張ったね。これからも二人三脚でやっていこうね 母より」
 病院を出る前に、美奈子はナースステーションを訪れ、お世話になった主治医や看護師たちに、『アメイジング・グレース』をお礼代わりに歌った。心を込めたその歌声に、ナースたちは美奈子の長かった入院生活を思い出して涙した。

* * * * *

 久しぶりの自宅に戻ると、美奈子は母と共に入浴し、背中を洗いあい、向き合って指と指をからませて、生還と生きている喜びを分かち合った。
 自分が退院してからも、まだ病院から出られない岩谷時子への声のメッセージは送り続けた。
「今日は、わたし……私(わたくし)、工藤美奈子と、わたしの母、工藤美枝子と一緒に、初めて歌わさせていただきたいと思います」
 このメッセージに続く歌は、岩谷の作詞した『夜明けの歌』だった。
 翌7月31日は、美奈子の38歳の誕生日だった。親友の勝瀬友美子には、「百歳になっても一緒だよ」と言う件名のメールを送り、岩谷からの声のお祝いには、「美奈チャンが80歳になった頃に、懐かしく思ってくれるような歌を書きたいと思います」とあった。
 これに対して美奈子も、「私が80歳になっても歌える歌、もうホント、夢みたいな話です! 足腰を鍛えて、転ばないように気をつけたいと思います」と答え、その後に『君といつまでも』を歌い添えた。
 美奈子は、退院してからも毎週水曜日は病院に定期検診に通ったが、それ以外は、大好きな家族と、大好きな自宅で過ごすことができた。
 自宅での美奈子は、幼い頃から座り続けた場所から、お気に入りの座椅子に腰かけながら見上げる、外の欅(けやき)の木を眺めるのが好きだった。このことも美奈子は岩谷に伝えている。
「この欅の木を見ながら、私はずっと育って来たんですけども、この欅の木で、春、夏、秋、冬、この四季を感じることが出来ています。ほんとに、すごい命を感じたり、パワーを感じたりする、この木なんで、お家(うち)から見ていると、ほんとに元気をもらいます。この元気が少しでも、お母さん(岩谷のこと)のところに届きますように。早く元気になって下さいね。またお顔を見に行かせていただきたいと思います」

* * * * *

 美奈子と母美枝子は、昔から互いに伝えたいことがあると、自宅のトイレに掲げたカレンダーに書き込むようにしていた。退院した翌日の誕生日には、美奈子はこう書いている。

7/31 お母さん
私を産んでくれた日です。
生きている喜びを感じながら “ありがとう”を言える事を 幸せに思います。
お母さん ありがとう♡
美奈子より

 この頃の美奈子の声のメッセージが残されている。
「私は太陽が大好きです。自分が太陽になりたいなって、思ってるくらいなんですよ。もう太陽に……太陽というのは、うんとみんなに、光を与えて、そして命を与えて、そして育てて……うん。みんなにとって、なんて言うんでしょうね……生きていく上で、絶対必要なもので、永遠に夜以外は、光を与え続けているという、素晴らしいものですよね。ええ……そんな……風に、私も歌を通して、ええ……人々に、光を与えることが、できるようになれたら、うれしいなと、思って、います」

 退院して戻ってきた自宅では、母美枝子は空気清浄機を3台も買い込んで、娘の体調に心を砕いた。笑いが免疫力を高めるという話を聞いて、つとめて大きな声で、おかしいことなどなくても、半ば強引にでも笑いあった。最初はぎこちなくても、次第に家人同士は本気になって涙を流すほどに笑い合った。

 快方に向かう美奈子は、8月にはこれまで自分を気遣ってくれた方々に、公式な声のメッセージを伝える事も出来た。
 8月19日放送の「誰でもピカソ」では、以下のように。
「たけしさん、そして、皆さん。お元気ですか? 本田美奈子.です。おかげさまで、皆さんの愛情をたくさんいただいて、元気に、なってきました。この病気になって、すごく思ったことが……原因のわからない病気じゃないですか。だけど、ちゃんと、最初のうちに、先生が、告知を、患者さんにして、で、その告知を受けた患者さんが、ほんとに、前向きに、皆さん、頑張って、命ある限り生きたいとか、何か、他の困っている人達のために自分ができないかって気持ちになったりとか。でもやっぱりそういう前向きな気持ちばかりでなく、夜、涙で枕を濡らしたりとか、そういうことを皆さんが……経験なさってることなんですね。この病気になって、ヘンな話、自分のために、人として勉強になったことが、たくさん、あります。新しい命を私もいただけたので、私に出来ることと言ったら微力なんですけども、歌を通して、舞台を通して、そしてもっと違うことを通して、元気な身体になったら、チャレンジしていきたいと、思って、おります。もし、あの……何か助けがいるときは、たけしさん、助けてくださいね。自分なりに、一生懸命、がんばりたいと思っています。そして、えー、スタジオに忙しいのに来てくれた、モーニン(岸田智史のこと)、そして、ヨーコ(南野陽子のこと)、どうもありがとう。そして、この番組を、ご覧の皆様、本当に今日は、ありがとうございました。このことを励みにして、頑張って病気を治して元気になって、早く、ステージに立ちたいと、思います。どうもありがとうございました。本田美奈子.でした」
 翌20日放送のテレビ朝日の別番組では、このようなテープも公表された。
「徳光(和夫)さん、そしてアッコさん(和田アキ子のこと)、ご無沙汰しています。そしてご心配おかけしてます。ええ……本田美奈子.です。ええ、私は……1月に、ええ……白血病という病気になってから、ええ……もうだいぶ経ちますけども、ほんとに、元気になってます。どんどんどんどん、元気になってます! ええ……この病気になって、今まで振り返ることのなかった、私の人生を……ええ……たくさん振り返ってみました。でその時に、いろんな方に、方たちに、親切にしていただいたり、優しくしていただいたり、愛情たくさんいただいたりしてることが、うん、色々……浮かんで来たんですけども。その中で……あのお、徳光さんは、ある番組で、来てくださっていたお客様たちの前で、あの……突然、『本田美奈子.はアイドルからデビューして、そしてミュージカルに挑戦して、今一生懸命頑張っているので、本田美奈子.をどうか応援してあげてください』って言ってくださったのが、すごく……あのお、思い出して……あの……病院のベッドで涙してしまったりとか、してホントに、あの……ありがたいなって、思いました」
 美奈子の感謝の言葉は、昔から尊敬していて、目標に掲げてきた和田アキ子へと移る。
「そして、アッコさん。アッコさん、もう……お手紙を…はぁ……下さって、ほんとに あの……ごめんなさい。お手紙下さってホントに、あの……嬉しかったです。ほんとにほんとに……うん、今もちょっと……ちょっと声が、声というか、言葉がちょっと詰まっちゃいますけど、ほんとに嬉しかったです! 絶対……で、ウウッ、ごめんなさい」あふれる思いで感極まり、美奈子は満足に言葉をつなぐことが出来ない。「……すいません。ええ……絶対に、あの……ステージに、立って、そしてこの……愛情を無駄にしないように、新しい、命で、たくさんの……方々!に、あの……希望や、勇気の与えられることのできる歌を歌えたりとか、出来るようになったらと、思って、おります。ほんとに、どうもありがとうございました。愛情いっぱい、感謝感謝です! 本田美奈子.でした」

つづく(毎日正午更新予定)

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