タコノキはうまく踊れない -77ページ目

棘梨の村の李梨-6

 医者が僕の家に来た時に、窓の外からそっと話を聞いていたのは、またなにか「どきどき」するようなことがあるんじゃないか、という、漠然とした予感があったのだろう。
 父は厳しい表情で医者を迎えた。祖母もいた。僕が窓から覗きこんでいることには、誰も気づかなかった。
 医者が勧められた椅子にかけたときに、茶を盆にのせて、李梨が入ってきた。
「今日はこれを診療所にお譲りいただきたくて、参りました」
 李梨のことを物のように「これ」と言われて体がこわばり、僕はただじっと盗み聞きを続けていた。
「李梨は当家の資産、いかほどの代価かによります」
 祖母もまた、李梨を人間とは思っていない言い方をした。
「月々にお払いするものは後からご相談するとして。手付けとして、予防ワクチン三人分でいかがでしょう」
 と医者は言った。
「現在、この村では、ワクチンはかなり高価です。三人分は、一財産かと思いますが」
「はん、その価格を釣り上げて歩いている方が、よくもまあ、そんなセリフをお吐きになる。ワクチンを売った金、いったいどうするおつもりやら」
 面と向かった祖母の非難に、医者は仮面のように冷静な顔を向けた。
「ワクチンを、買います」
 祖母は毒気を抜かれて黙った。
「いま、一番高価に買ってくださる方にワクチンをお売りしています。つぎのワクチンは五日後には着きますから、次に高く買ってくださる方にワクチンを売ります。最初の方たちより少し安い値段でワクチンが手に入れられるかわり、その方たちは五日間だけ、感染の危険に長くさらされるわけです。その金でまたワクチンを買います」
「村中に行き渡るまでそれを繰り返す、と?」
と父が言った。
「できれば。…いま、雲南熱は世界中で流行しています。本当は、この村で患者が出始める前に、薬を揃えたかった。けれど、いま、治療薬も予防ワクチンも不足で、患者が出た村にしか与えられない。とくにワクチンの供給は限られている。一時にたくさんは手に入らないし、値段も高騰しています」
というのが医者の答えだった。
「李梨は、どうなさります」
 祖母が言った。
「患者の看護を。本当は患者が出た日に、こちらへ伺ってお願いすべきだったのでしょうね。最初は私でなんとかなりそうな気がしたのですが。私一人ではダメだということに私自身が納得する前に、患者の家族が隔離病室へ入り込んで来たりもして…」
 そのとき、ようやく僕は外から窓をひきあけ、窓枠によじのぼった。
「先生もお祖母ちゃんも李梨は病気になってもいいんだ! 李梨は村の人じゃないから。ほんとの人間じゃないから。死んじゃってもいいと思っているんだ」
 父の顔がゆがんだ。
 李梨が問うように父を見た。
「入れてやれ」
 李梨が窓のところへ来て、僕を抱き上げ、部屋に入れてくれた。
「燦輝。李梨は人間じゃない、って、知っていたのか」
 父の声にとがめる調子はなかった。僕がうなずくと、李梨が言った。
「燦輝。心配しないで。人間じゃないというのは、病気にはかからないということ。病気で死んだりはしないの」
「じゃ、みんなの病気が直ったら帰ってくるんだね?」
 尋ね返した僕に、答えたのは医者だった。
「いや。それはできない」
「どうしてさ」
「李梨さんは(という言い方を、医者はした)病気にならない。でも、李梨さんの体には、
病原体がついてしまう。李梨さんがこの家に戻ってきたら、その病原体が燦輝やお父さんやお祖母さんにくっついて病気にしてしまうかもしれない。隣の家の人も病気になってしまうかもしれない。それに。その頃には、李梨さんは燦輝のことは憶えていない」
 その一言が父を決意させたことが、僕には長い間、不思議だった。
「燦輝。燦輝が悲しいのはわかる。父さんだって、ずっと一緒に暮らしていた李梨がいなくなってしまうのは淋しいよ」
 父に抱きしめられて、僕は、李梨を失ったことを悟った。

棘梨の村の李梨-5


 村には、診療所と役所にコンピュータがあって、村の外の情報を、村に伝達していた。父は役所で見るみたいで、外国の話なんかも詳しかったよ。
 恐ろしい病気が他の村で流行していること、その病気が雲南熱と呼ばれていることは、村に患者が出始める前から誰もが知っていた。僕は七歳だったが、それでも、何か恐ろしいものが村に来ようとしていることは、わかった。
 雲南熱は、死亡率の高い病気だった。高熱が出てひどい下痢をする。当時の薬はひどいもので、副作用が強く、心臓に負担をかける。弱った体力ではそれに耐えきれずに、死ぬ者も多かった。大人たちは村中に消毒薬を撒き、家に閉じこもりがちになった。余所者を村に入れることは禁じられた。
 それでも患者は出始めた。上空を飛ぶ鳥が村に落とす糞に、病原体が入っていたのだという説もあった。
 琥珀は、ごく初めの頃に感染した一人だった。
 患者は隔離しなければならなかったが、村の診療所は小さく、集会所に布団を敷いて寝かされた。村の医者は、雲南熱の薬を持っていなかった。患者が出てから、治療薬と予防ワクチンを注文したらしい、というので、非難する人も多かった。しかも医者は、薬が届くまでの間に、村の有力者や豊かな者に電話をかけまくり、予防ワクチンの接種を受ける権利を高く売りつけたという噂だった。
 下痢のひどい患者は水分をたくさん与えなければいけない。下の世話だって大変だ。医者一人では手が足りないのは明らかだった。何人かの患者の家族が見かねて、看護のために集会所へ泊まりこんだ。琥珀の母親もそのなかにいた。
 いったんそこに入れば、感染してないことが証明できるまで帰宅は許されない。マスクをつけ、消毒薬で手を洗って、なんとか防ごうと努力したらしいが、感染せずに集会所から戻る者のほうが少ないくらいだった。
 薬が届くのに、三日かかった。その間に、琥珀は死んだ。琥珀の母親も発病した。
 琥珀の祖母が所在なげに僕の家に立ち寄り、祖母に、
「大事な大事な息子が、金で買ったはずの嫁を看病しに行ってしまった」
と言いながら泣くのを、僕はたまたま聞いた。聞いてしまって、どきどきしていた。

棘梨の村の李梨-4

 僕の故郷は、ある時期、棘梨で有名だった村だ。棘梨は、山の木になる。収穫の季節にはみな、篭を背負って山道を登っていく。実の形は、少し茘枝(ライチ) に似てるかな。茘枝って鎧みたいな皮があるだろう。あれにさらに棘が生えたような、可愛いげのない格好。味は茘枝みたいにおいしくない。ひどくすっぱくて、えぐみがある。だけど、栄養が豊富で健康によいそうで、「神秘の果実」なんて言われて、一時、高い値段で売れた。
 父は役所勤めだったけど、その頃には農民に混じって棘梨とりに出たらしいよ。
 棘梨のおかげで、村は急に豊かになった。
 ちょうどその時期、「女性の少ない世代」が結婚を焦る年齢だった。僕の村では、同じ村や近隣の村の範囲では花嫁を見つけられず、たとえば琥珀の母親のように遠い国から花嫁を迎えた男性が何人もいた。かなりの婚資と引き換えだったみたいだ。
 父は物静かな「村の秀才」で、村のなかでは「将来の有力者」だったんだけど。わりととっつきにくい人だから、村の女達には、もてなかったのかもしれない。
 李梨も、ほかの国ではないけれど、遠くから来たのだと父は言った。この村で育ったわけではないから知らないこともある、僕が村の人から教えてもらったことで李梨の知らないことがあったら、教えてあげなければいけないよ、と、僕に言いつけた。
 棘梨の木はほとんど山にあって、村の中には少なかったから、慌てて村の近くの実をとりやすい場所に植えたけど、それがまっとうに実をつける前に、棘梨のブームは去ってしまった。村には、高価な農業機械とか、ちょっとお洒落っぽく改築した家とか、遠いところから来た花嫁とかが残ったけれど、意外に現金は残らなかった。
 雲南熱が村にやってきたとき、村には小さな診療所が一つ、医者が一人しかいなかった。