陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -9ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●象山と松蔭――互いに尊敬し共鳴し合う師弟関係

『佐久間象山向天記』の著者は、吉田寅次郎(松陰)の目に映った象山像を次のように表現しています。

「広く江戸に学問を教える者はおり、和学、漢学、洋学と師に困ることはない。だが、黒船が来航し、一歩間違えば国難になりかねない事態となった時、実際に動いた者がどれだけいたか。
佐久間象山ただ一人が兵を率い、砲を伴って品川の御殿山まで討って出た。この人にこそ、学問の実が備わっている。
このような人物となって国を変えていかねばならない、と寅次郎は強く信じるに至った」(『我ニ救国ノ策アリ 佐久間象山向天記』 仁木英之著)

象山もまた、その弟子である寅次郎に大きな期待をかけていました。

「「吉田寅次郎こそ、わが志を理解し、継承する人物だ」と大いに期待していた。その吉田寅次郎がある日突然、
「メリケン船に乗り込んで彼地へ密航し、実態をこの目でしっかりと見てきたいと思いますが」と持ち掛けた。
象山は腹の底に疼くような喜びを感じた。それこそまさに、自分のやりたかったことだ。しかし今の立場では到底無理だ。
そこで吉田に、「吉田君、征きたまえ、その志や大いによし」と励ました」(『幕末の明星 佐久間象山』 童門冬二著)

象山はどちらかというと保守的な朱子学の信奉者であり、洋学や西洋的な文化にはむしろ少なからず抵抗感があったでしょう。
当時の政治的な立場でいえば、西洋人を排斥しようとする攘夷派の考えに近かったかもしれません。松蔭もまた同じような立場でした。

しかし西洋の技術力や軍事力を知れば知るほど、単純な精神主義的攘夷論は実現不可能であるということを悟ります。
そして日本を守るためには、まずは西洋に学びながら力をつけることが先決であるという考えに変わっていきます。

西洋の技術を学ぶために、国禁を犯して密航しようとする寅次郎に対して、師である象山は止めるどころか強く激励し、壮行の詩まで贈っています。
ご承知の通り寅次郎の密航は失敗しますが、その時、象山が贈った詩も発覚し、共に捕らえられ獄につながれてしまいます。
その取調べの場において、このお互いに尊敬し合う師弟は、面白いことに全く対照的な対応をしています。
詳しくは、次回に。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『我ニ救国ノ策アリ 佐久間象山向天記』 仁木英之著

□『幕末の明星 佐久間象山』童門冬二著
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●「海防八策」に込められた先進的な政策

幕末の思想家・佐久間象山は、国際情勢を読み解く中で、いずれ外国船が来航することをいち早く予言していました。
そして、その時のために準備しておくべきことを「海防八策」としてまとめ、主君である松城藩主・真田幸貫(ゆきつら)に上申しています。
黒船来航(1853年)の10年以上も前、象山32歳の時のことでした。

その主な内容は次の通り。
1)主要な海岸に砲台を築くこと
2)大砲を作り全国の諸藩に分配すること
3)西洋流の大きな船を作り首都(江戸)への流通網を太くすること
4)海運に強い人材を登用し外国との交渉力を強化
5)海軍の創設
6)全国民への教育の振興
7)賞罰の公平性の徹底
8)身分ではなく能力や意欲による人材の抜擢・活用

いずれも画期的な提案であり、現代においてさえ通用することも少なくありません。
しかしここに書かれた内容は、単に沿岸防衛のことだけではなく、経済から教育、司法制度まで幕府の政策全体に対して変革を要求するものでした。

象山の力を認めていた藩主・幸貫は「海防八策」を高く評価し、幕府老中の水野忠邦に提出しますが、それが国の制作として採用されることはありませんでした。
しかしその約10年後、黒船の威容を目の当たりにすることで、さすがの幕府も事の重大さを悟り、ようやく真剣に対応策を考えるようになっていきます。

象山は、黒船視察のために実際に浦賀まで足を運び、そこでより一層国防意識を高めます。
その後、自ら砲術を学び、やがて指導できるまでになり、さらには大砲製造技術も研究し、これもまた自分で作れるようになっていきます。
藩や幕府がやらないのであれば、自分がやるしかないというのが象山の考えでした。

ちなみに坂本龍馬が書いた有名な「船中八策」という題名は、師であった象山の「海防八策」を意識したものと考えられています。
勝海舟もまた黒船来航時に「海防八策」を土台にした国防意見書を提出しています。

もし象山の提案に基づいて沿岸防衛が確立されていたら、黒船騒動や、それに続く幕末史の流れは大きく変わっていたでしょう。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『幕末の明星 佐久間象山』童門冬二著
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●理を尽くせば必ず答えが見つかるという確信

吉田松陰や勝海舟など、幕末の志士たちに大きな影響を与えた佐久間象山。
彼は幕府直轄の昌平坂学問所において筆頭教授であった儒学者・佐藤一斎に学んでいます。
一斎は本メルマガでも紹介した「陽転思考の達人」の一人。彼の著書『言志四録』は、幕末はもちろん、現代の指導者たちにも読み継がれています。
幕府が奨励していたのは、儒学の中でも朱子学でした。理と秩序を重んじる朱子学は、幕府の支配体制を強化するのにとても有効であると考えられていたからです。

しかし日本を取り囲む国際情勢が騒がしくなる中、それまでのように国内だけをまとめられればいいという考えにはほころびが見えつつありました。
新しい時代に対応し変革を求める人たちの間で指示される傾向があったのが、儒学のもう一つの柱であった陽明学です。

陽明学を特徴づける言葉は「知行合一」。学んだことは必ず実践すること、行動しなければ学んでも意味はない、というような考え方です。
一方、朱子学は、理によって物事の道理や本質を追究し真理に至ることを旨とする「格物致知」。
陽明学が実践論・行動理論であるのに対して、朱子学は、どちらかというと思弁哲学的、観念論的であるということができるかもしれません。

昌平坂学問所の筆頭教授として一斎は、表向きは朱子学を教える立場にありましたが、彼の思想の中には陽明学的な考えが多く見られます。
幕末の志士たちの行動力の背景になっていたのも陽明学です。

もちろん象山も、過激なまでに行動の人でした。しかし彼自身は朱子学を信奉し、陽明学には否定的であったと考えられています。
儒学の最高権威であり、師である一斎に対してさえ、その思想の中に陽明学的なトーンが見えると、真っ向から批判していたようです。

「一斎から「言志後録の批評をせよ」といわれた象山は、「待っていました」とばかりに、各頁について、すべて朱を入れた。大変な勢いである」(『幕末の明星 佐久間象山』 童門冬二 著)

物事の背景には「理」があるということを確信し、深く思索研究することで、必ずそれを解明できる、自分にはその能力が与えられているという徹底的に楽観的な考えを象山はもっていました。
それは宇宙や物質を貫く究極的な真理が必ずあるということを信じて、どんな難問にも臆することなく立ち向かおうとする現代の科学者にも通じる考え方です。

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□『幕末の明星 佐久間象山』童門冬二著
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●幕末の志士たちを育てた大天才

いま大河ドラマでは、幕末の大思想家・吉田松陰の活躍が取り上げられています。
松蔭は松下村塾において、高杉晋作や久坂玄瑞、山縣有朋、伊藤俊介(博文)など、幕末の志士たちを多数輩出した偉大な教育者としても有名です。
本メルマガでも取り上げた「陽転思考の達人」の一人でもあります。
その松蔭が深く尊敬し、弟子入りしていたのが佐久間象山でした。
象山は、松蔭より二回りほど上の世代で、信濃松代藩(現在の長野市)の思想家・兵学者でした。

松蔭やその弟子たちに比べると、その名はあまり知られていないかもしれませんが、実際の象山は、名実共に(そして身体的にも)とても大きな存在でした。
具体的な思想や業績については、これから回を重ねる中で紹介していきますが、まずはその教え子たちの名を連ねただけでも、彼の偉大さが分かるかもしれません。

松蔭のほか勝海舟も側近の弟子の一人でした。海舟の元の名は麟太郎。海舟は、象山が塾の名前として掲げた「海舟書屋」から取ったものです。
また海舟は実の妹を象山の妻として嫁がせていたので、二人は義兄弟の関係にありました。(年齢は象山の方が一回りほど上です)

他にも河合継之助(戊辰戦争において長岡藩を武装中立に保とうと奮闘した人物)、小林虎三郎(かつて小泉首相が取り上げた「米百俵」の話の主人公)、そして坂本龍馬も弟子としてその名を連ねています。
また、高杉晋作や西郷隆盛も象山に会ってその思想に触れ、強い影響を受けたこと公言しています。

その思想や視野、先見性、行動力において、象山は群を抜くものがありました。それはあの吉田松蔭や勝海舟さえも心酔させてしまったほどです。
専門の儒学はもちろん、西洋砲術から戦術論、剣術、外交交渉、詩歌まで、まさに文武両道の人でした。

その「文」のほうも、文学(文系)だけではなく科学技術の分野まで手を広げています。
大砲の設計、製造はもちろん、当時日本では難しかったガラスの製造から、望遠鏡、写真機、電気通信機、果ては空を飛ぶ方法まで真剣に研究していました。
堪能なオランダ語を駆使して医学も学び、電気医療器まで作っています。

陽転思考的観点からも象山には学ぶべきところがたくさんあります。
次回からは、具体的なエピソードをもとにその生き様を考えていきましょう。

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□『幕末の明星 佐久間象山』童門冬二著
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●厳しさを楽しみに変えるイメージ力

上杉鷹山がいかにして米沢藩を崩壊の窮地から救ったのか。
その具体的な方法論については、解説書がたくさん出ているので、そちらをご一読いただくとして、本メルマガで最も注目したいのは、彼の陽転思考的な発想法です。

財政再建のためには、どうしても財政を縮小する必要があります。
しかし、そうすると領民の心は一層萎縮して、さらに経済は悪化の一途を辿るという悪循環に陥ってしまいます。
そこで鷹山は、心まで冷え込まないように、むしろその改革を自ら楽しむことで乗り越えようとします。

「彼は、自分の経営改革は、決して藩政府を富ませるためにおこなうのではなく、むしろ、藩民を富ませるためにおこなうものでなければならない、と思うようになった。そう思うと、彼の胸は膨らんだ。
つまり、経営改革が、陰気で勤倹節約だけを主目標にした、じめじめした暗いものではない、
むしろ全藩民が藩主と一緒になって、厳しいけれども前途に希望をもっておこなう楽しい事業である、とさえ思うようになったのである」(『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著)

鷹山の藩政改革の最終目的は、藩が富むことよりもまず領民が富むこと、領民に笑顔が戻ることにありました。
それはリーダーとして倫理的にも高く評価されることではありますが、それ以上に「そのほうが楽しい」という感覚を共有し、持続するためにも有効に機能したと考えられます。

「財政再建」をイメージするのはとても難しいけれど、領民が笑顔で明るく暮らしている姿であれば、容易にイメージし共有することができたでしょう。
目標を具体的にイメージすることは、夢実現に向かう強力な推進力となるということは、アクティブ・ブレイン・セミナーの中でも繰り返し語られる成功の秘訣です。

「木によく肥料をほどこすならば、労せずして確実に結果は実ります。
「民を愛する」ならば、富は当然もたらされるでしょう。
「ゆえに賢者は木を考えて実をえる。小人は実を考えて実をえない」。
このような儒教の教えを、鷹山は、尊師細井から授かりました。」
(『代表的日本人』内村鑑三 著)

結果を出そうとするならば、結果よりも原因を、実績よりも人材を大切にする。財政を豊かにするためには、まず領民の心を豊かにすることが先決――鷹山の念頭には常にそうした本質を志向する考えがありました。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『代表的日本人』 内村鑑三著
□『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著
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