陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -10ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●絶望や困難の中にも希望や可能性を見出す思考

先回紹介したように上杉鷹山は、消えかかったかすかな残り火に希望を見出し、それを種火として藩士たちと夢を分かち合い、大きく広げていこうとしています。

「お前たちこそ、この火種ではないかと思ったのだ。お前たちは火種になる。そして、多くの新しい炭に火をつける。新しい炭というのは、藩士であり藩民のことである。
中には濡れている炭もあろう。湿っている炭もあろう。火のつくのを待ちかねている炭もあろう。一様ではあるまい。
ましてや、私の改革に反対する炭もたくさんあろう。そういう炭たちは、いくら火吹竹で吹いても、恐らく火はつくまい。」(『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著)

これは本メルマガの稲盛和夫編で取り上げた、
【可燃性】火を近づけると燃えるもの
【不燃性】火を近づけても燃えないもの
【自然性】自分で勝手に燃え上がるもの
ーーという3種類の人材を彷彿とさせます。
稲盛は、「不燃性は組織にいらない。せめて可燃性であれ」と述べています。
しかし自分の会社ではなく、藩士や領民が相手である鷹山にとっては、不燃性であるからといって切り捨てるわけにはいきません。より厳しい状況にあったでしょう。

「しかし、その中には、きっと一つや二つ、火をつけてくれる炭があろう。私は今、それを信ずる以外にないのだ。
そのためには、まず、お前たちが火種になってくれ。そしてお前たちの胸に燃えているその火を、どうか心ある藩士の胸に移してほしい。」(同)

ここで重要なことは、灰の中に火が残っていたから鷹山の心に希望が芽生えたのではないということです。
むしろ、心の中に希望を探す強い信念があったからこそ、残り火を希望の象徴とすることができたと考えるべきでしょう。
夢や理想と、厳しい現実との間に橋を架けるためには、絶望や困難の中にも希望や可能性を見出すことができる心の余裕と、強い信念、そして陽転思考的発想転換が大切です。

『上杉鷹山の経営学』の著者・童門冬二氏は、この鷹山のエピソードを現代組織論として次のように解説しています。

「絶望的な職場は譬えてみれば冷えた灰だ。しかし、その灰の中をよく探して見れば、必ずまだ消えていない小さな火ダネがあるはずだ。その火ダネはあなた自身だ。その火を他に移そう。
つまり灰のような職場でも、火ダネ運動を起こせば必ずその職場は活性化する。そしてその組織は生き返る。」(同)

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著
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●冷えた灰の中に希望の火種を見つけ出す

福島と米沢の国境の宿場町。凍てつく雪の中での野宿。上杉鷹山と藩士たちは、共に酒を酌み交わし藩政改革の決意を新たにしました。

しかし山を下り、町に入り、居城となる米沢城に近づいても、その荒廃ぶりは変わることなく、一行の心をより重苦しくするばかりでした。

「山も死に、川も死に、土地も死んでいた。そして、何よりも死んでいたのはそこに住む人々の表情であった。表情だけが死んでいたのではない。心が死んでいるのだ。
米沢藩内に住む領民は、誰一人として希望を持っていなかった。希望がないから心が死んでいるのである。」(『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著)

鷹山は駕籠の中からその光景を見ながら、どこかに希望の種がないだろうかと探していたでしょう。しかし彼の目に映るものは、絶望的な状況ばかりでした。
手元の煙草盆に冷たく残る灰を見て、そこに米沢藩と同じようなものを感じていました。

しかしその灰を煙管で掻き混ぜてみると、その中に、消えかかりながらも、ほんのわずか残り火を宿す炭が見つかりました。
鷹山はそれを取り上げ、新しい空気を送りながら、なんとかその火を他の炭に移そうとします。

「この目で、わが民の悲惨を目撃して絶望におそわれていたとき、目の前の小さな炭火が、今にも消えようとしているのに気づいた。
大事にしてそれを取り上げ、そっと辛抱強く息を吹きかけると、実に嬉しいことには、よみがえらすことに成功した。
“同じ方法で、わが治める土地と民とをよみがえらせるのは不可能だろうか”そう思うと希望が湧き上がってきたのである。」(『代表的日本人』内村鑑三 著)

絶望的な状況の中にあっても、決して絶望せずに、とにかくどこかに希望への糸口を見つけようという、鷹山の心そのものが希望の種であるということを、このエピソードは教えてくれます。
その心や目がなければ、灰の中に埋もれた残り火を探そうとはしなかったかもしれません。仮に見つけたとしても、「わずかな希望ももう消えかかっている…」とマイナスに受け止めてしまう可能性もあります。

逆に、たとえ残り火が見つからなくても、陽転思考的な視点があれば「この死んだような灰でも、そこに新しく炭火を入れれば、きっとよみがえらせることができる」と考えたでしょう。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著
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●現実の厳しさを逆利用

江戸藩邸で藩財政改革プランを練り上げた上杉鷹山は、いよいよ領地・米沢に入ってそれを実行することになります。明和6年(1769年)の冬、鷹山19歳の時でした。

落ちぶれていたとはいえ伝統ある上杉家。通常であれば千人単位の大名行列になるところを、鷹山は周囲の反対を押し切って供の数を10分の1にまで減らしています。
その行程は、現在のルートでいえば関東から福島県を通り、そして山形県との県境の峠を越えて米沢市に入るというもの。
雪の中、峠を越え初めて米沢に入った時、鷹山はいきなり現実の厳しさに直面します。

「福島からの国境を越えて板谷宿に入った途端、駕籠の中から外を見続けながら旅をして来た鷹山は、愕然とした。
それは、米沢の山河、そして人々の表情があまりにも暗く沈んでいたからであった。」
「国境第一の宿場といえば、人の出入りが激しい。当然、その宿場は賑やかなはずである。が、板谷宿は死んでいた。廃墟同然の宿場であった。街道筋の家々はくずれ、住む人も少なかった。
多くの人々が税の重さに逃げ出してしまったからである。」(『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著)

いかに理想に燃え決意していた鷹山ではあっても、現実のあまりの冷酷さに、その希望の灯も消えかかりそうになったかもしれません。
宿場町とはいえ、ほとんど廃墟同然のような状態。家臣たちは野宿を覚悟しつつ、それでもなんとか主君だけでも泊まれる所を探すために奔走します。
それを知った鷹山は、一緒に野宿すると言い出し、家臣たちを驚かせます。
このような状況で、自分だけが暖かな宿に泊まることはできないという気持ちと、何よりも、どのみちまともに泊まれる所など、見つからないだろうと思ったからです。

「ただし、雪の夜の野宿は冷える。酒が要る。せめて酒だけでも近所の民家に行って調達してきてくれないか。そして代金は必ず払ってほしい。」
「風邪をひかぬように注意せよ。酒も冷ですまぬな。
しかし、お前たちも大変だろうが、多くの者が逃亡したにも拘らず、この宿駅に残って、何くれとなく面倒をみてくれる民も大変である。」(『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著)

凍てつく寒さの中にありながら藩士たちは、新しい指導者の言葉や態度に何ともいえぬ暖かさと強さを感じたでしょう。
理想と現実のギャップを前にした時、多くの人はやる気を失ってしまいがちですが、鷹山は、意識していたかどうかは別として、現実の厳しさを逆に利用してスタッフの心を一つにすることに成功しています。

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□『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著
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●夢を未来の現実としてイメージする

名門ではありながら破綻寸前の状態にあった米沢藩に、九州の小藩から養子に入った上杉鷹山(元の名は治憲)。
米沢に行く前、鷹山は江戸藩邸に留まり、改革への志に共鳴できる藩士を抜擢し、彼らと共に起死回生のプランを練り上げます。

情報を集め、現状を分析する中で鷹山が考えた改革案は、(1)制度の壁 (2)物理的な壁 (3)意識(心)の壁の「3つの壁」を壊すことでした。

「中でも、特にこわなさければならないのは、(3)の“心の壁”であることを強調した。
このために、(1)情報はすべて共有する (2)職場での討論を活発にする (3)その合意を尊重する (4)現場を重視する (5)城中(藩庁)に、愛と信頼の念を回復する」(中略)
「鷹山は、「経営改革の目的は、領民(おとくいさん)を富ませるためである」と明言し、その方法展開は、「愛と信頼」でおこなおうとしたのだ。
江戸時代の幕府や各藩の改革をみていて、それが必ずしも成功しないのは、この二つが欠けているからだ、と鷹山は思っていた。」(『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著)

「愛と信頼」――オフィスの壁に貼ってあるだけの企業理念と同じように、一見「きれいごと」や「理想主義」のように聞こえるかもしれません。
しかし、それが本気で実行されると、とてつもない影響力をもたらすということを鷹山は証明しました。実際彼は、その信念に基づいて世界史上まれに見るほどの行政改革に成功しています。
理想を掲げつつ、そこに向かって着実に物事を進めて行く――鷹山は、理想主義者でありながら、同時に徹底したリアリストでもあったのです。

周囲の人にとってみれば、現実の厳しさと、掲げられた理想との間には、途方もない隔たりがあるように感じられたでしょう。長引く貧困の中にあって、領民たちは藩体制側にいる人を全く信頼していませんでした。
ゴールは遥か遠くに、幻影のように霞んで見えていたに違いありません。
しかし多くの成功者がそうであったように、鷹山には、そのゴール――領民が豊かに笑顔で暮らす姿がはっきりとイメージできていたのでしょう。

理想や夢が、より鮮明なイメージを伴うことで具体的でリアルなビジョンとなり、そこに向かう道も次第に見えてくるようになります。
そういう人にとっては、夢は、もはやただ追いかけるものではなく、手を伸ばせば実際に触れたり掴んだりできるようなリアリティをもって、そこに存在している「未来の現実」として現れてきます。

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●志を共有できる仲間を呼び集める

江戸時代中期の名君の誉れ高い米沢藩主・上杉鷹山。現代の経営者や政治家にも大きな影響を与えています。
藩政改革や財政再建など、彼が成し遂げたことを見れば、それは当然の評価といえます。
鷹山の業績がどれほど偉大なものであったかを知るために、まず藩主就任当時、米沢藩がどのような状態にあったのか、ということを簡単に見ておきましょう。

鷹山が藩主の座に就いたのは彼がまだ17歳の時でした。
現代の基準でいえば、まだ「子供」の年齢とはいえ、武士の子は皆12歳~16歳ぐらいで元服する時代、それほど珍しいことでもなかったでしょう。
しかしそれでも藩の運営が可能だったのは父母や家臣の支え、バックボーンがあったうえでのこと。

一方、鷹山の生まれ故郷は九州・日向の高鍋藩(宮崎県)。そこから遠く離れた東北の米沢藩に養子で入った若き鷹山にとって、最初は孤立無援のような状態でした。
高鍋藩は3万石の小国。かつて戦国時代の雄藩であった上杉家から見れば、格下の立場にありました。

上杉謙信の頃の越後200万石の大大名家は、豊臣秀吉によって会津に移され120万石に減封。さらに関が原の戦いで西軍についたことで徳川家康によって米沢30万石まで落とされます。
その後、相続のトラブルなどがあり最終的には15万石になってしまいます。
藩の歳入が激減したにも関わらず、それでもかつて栄華を誇った頃の格式を守ろうとしていたため、財政はまさに火の車の状態でした。

「つまり、経営規模が大企業から中小企業級に縮小しているにも拘らず、社員をひとりも減らさなかったのである。(中略)鷹山の先代は、ついにネをあげ、「大名家を幕府に返上しよう」とまで決意した。
いまでいえば会社更生法を適用されても、どうにもならないほど、上杉家は逼迫していたのである。」(『上杉鷹山の経営学』童門冬二 著)

そのような状況を改革しようとする鷹山に対して、体面を重んじる藩の重役たちは、「小藩出身者だから格式や伝統が分かっていない」と見下して抵抗します。
体面を重視するあまり、藩が潰れてしまったのでは元も子もありません。領民は重税に苦しめられるばかりで希望を失い、故郷を捨てて出て行く者もいました。

出身、経験、人脈など、何も頼れるものがない状態で、長年続いてきた抵抗勢力に立ち向かって悲惨な現状を打開しなければならない——まさに三重苦、四重苦のような立場にありました。
そこでまず鷹山が手をつけたのは、米沢に入る前、江戸藩邸にいる約2年の間に、過去のしがらみに縛られずに行政改革の志を共有できる仲間を呼び集めることでした。

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□『代表的日本人』 内村鑑三著

□『「人望力」の条件
 歴史人物に学ぶ「なぜ人がついていくか」
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