陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -4ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●時代が入れ替わる歴史の交差点を象徴する人物

勝海舟は1823年、江戸の貧しい下級武士の家に生まれました。ペリー来航(1853年)を31歳(数え年)の時に迎えています。

ちなみに、幕末の主要人物のその時の年齢(数え年)をざっと挙げると次のようになります。

西郷隆盛が27歳、大久保利通24歳、吉田松陰24歳、桂小五郎(後の木戸孝允)21歳、坂本龍馬19歳、岩倉具視19歳、福沢諭吉19歳、一橋慶喜17歳、高杉晋作15歳、久坂玄瑞14歳、伊藤俊輔(後の伊藤博文)13歳。

勝より上の世代を見ると、勝の師匠にあたる佐久間象山が42歳、横井小楠45歳、薩摩藩主・島津斉彬も45歳でした。

こうしてみると、勝はちょうど中間的な世代にいることが分かります。
上の世代は、そのとき既にそれなりの思想を確立し、若い世代を指導するような立場にありました。

若い世代は、その先達から開明的な思想を学び、強い影響を受け、黒船によってもたらされた激情の中で、がむしゃらに行動に走ろうとしていました。

歴史学者の松浦玲氏は、そのとき中間的な年齢にあったという世代的特徴が、それ以降の勝の人生に少なからぬ影響を及ぼしていると分析しています。

「三十代というのは、まことに中途半端な年齢である。激情的な行動に身を挺してのりだすには、やや歳をとりすぎている。思慮分別がつきすぎている。(中略)彼は、尊攘倒幕の志士にも、また、佐幕派の志士にもなれない。そうなるためには世の中がみえすぎている。かといって、この激動から逃げだすわけには行かない」(『維新前夜の群像3 勝海舟』松浦玲 著)

上の世代と若い世代、幕府と雄藩の志士たちーー勝はそのどちらとも気脈を通じ、交友関係を広げています。自らは古い体制側に身を置きながら、その目は常に新しい国の形を見ていました。

時代や力関係が移り変わる歴史の交差点に立たされた勝は、自らの使命を悟り、複雑に入り組んだ流れを一つにまとめようと、左から右、上から下まで、まさに縦横無尽に奔走します。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『勝海舟 強い生き方』 窪島一系著
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●敵味方の対立関係を越えた広い視野

幕末。高い志をもった人物がキラ星のように現れ、日本を新しい時代へと導きました。
勝海舟もその一人。彼は幕臣でありながら、坂本龍馬や西郷隆盛らに「幕府はもうダメだから、これからは雄藩が結束して日本を外敵から守っていかなければならない」というようなことを言っています。

官軍による江戸総攻撃の前日、勝は幕府代表として単身で官軍側の総司令官・西郷隆盛との会談を成功させ、ぎりぎりのところで江戸が火の海になることを阻止しています。
ずっと幕府側であり、最終的には組織の中枢にさえいたにもかかわらず、勝は明治新政府においても参議や海軍卿、元老院議官、枢密顧問官などの要職を歴任しています。

こうした勝の立場を越えた行動を、「二君に仕える奸臣」「節操がない」として批判する人もいました。

「幕末に江戸城を戦わずして明け渡したのは武士の痩我慢の精神にもとる。破れても一戦まじえて城を枕に討死すべきが三河武士ではないか。
その上、明治新政府のもとで伯爵を授けられぬくぬくとしているとは恥ずべき身の処し方である」(『勝海舟 強い生き方』窪島一系 著)

これは、勝と共に咸臨丸でアメリカに渡った福沢諭吉の言葉です。(勝と福沢は、咸臨丸の船内でも何かと対立していたようです)
こうした批判に対して勝は、「他人がどう評価しようと関係ない」と超然とした態度をつらぬいています。

勝海舟という人物を特徴づけるのは、志の高さもさることながら、何よりも視野の広さでしょう。
勝の視点は、幕臣であるか雄藩藩士であるか、攘夷か開国かという対立構造を越えて、常に「日本」や、その「国民」をどう守るかというところにありました。
自らが仕える幕府に諸外国と渡り合う能力がないのであれば、その解体もやむなしと考えていたのです。

吉田松陰や高杉晋作、坂本龍馬、西郷隆盛ら、幕末の英雄とされる志士たちでさえ、初めの頃は「藩意識」が強かったのに比べて、勝はいち早く「世界の中の日本」という広い視野をもっていました。
そしてその考えを、敵味方に関係なく広めようとしていました。
弟子入りした龍馬はもちろん、高杉や西郷も勝の影響を強く受けています。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『勝海舟 強い生き方』 窪島一系著
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●世界が感謝したMr. Noodle

チキンラーメンの成功で満足せず、数年後にはそれを遥かに越える大ヒット商品・カップヌードルを開発し、日清食品を世界企業へと押し上げた安藤百福。
振り返ってみれば、順風満帆どころか、むしろ挫折の連続のような人生でもありました。

「私は事業に失敗して財産を失い、48歳から再出発した。60歳、70歳からでも、新たな挑戦はある。」(『転んでもただでは起きるな!』安藤百福発明記念館 編)

その言葉通り安藤は90歳を越えてからも宇宙食ラーメンの開発に挑戦し、成功させています。彼は、成功に至る前の失敗や期間は、決して無駄ではなかったと述懐しています。

「即席めんの発想にたどりつくには、48年間の人生が必要だった。過去の出来事の一つ一つが、現在の仕事に、見えない糸でつながっている。」(『安藤百福かく語りき』安藤百福 著)

同じ著書で彼は「無駄をほんとに無駄にしてしまう」ことを戒めつつ、「無駄を無駄にしない方法」ということについて次のように語っています。

「人生、いつもうまくいくとは限らない。もし、「ああ、ムダな歳月を過ごしてしまった。取り返しのつかないことをした」と思ったら、本当に取り返しのつかないことをしてしまったことになる。」
「無駄なお金は一円たりとも使ってはいけない。生きたお金なら惜しみなく使いなさい。」

また、思い通りに事が進まない時、逆境の時の乗り越え方について、「貧すれば鈍するの轍を踏まぬように。うまくいかないときこそ涼しい顔をして戦略を練るべし」と述べています。
本メルマガでも取り上げた佐藤一斎の「逆境は冬の如し 堅く臥して雪を観る/冬も亦悪しからず」という『言志四録』の言葉を彷彿させます。

2007年1月5日、安藤は多くの人に惜しまれながら96年の生涯の幕を閉じます。
その前日まで彼は多くの社員を前に30分間立ったまま年頭のあいさつをしています。

「亡くなって4日後の1月9日、ニューヨークタイムズに「Mr. Noodleに感謝」という社説が掲載された。
(中略)即席めんはお湯さえあれば神の恩寵を受けられる。安藤は人類の進歩の殿堂に永遠の居場所を占めた。」
(『転んでも…』)

安藤が心に描いたイメージに端を発するカップ麺は、今も世界中で1日2億食以上も食べられています。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『転んでもただでは起きるな!』 安藤百福著
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●枯れることのないチャレンジ精神がラーメンを宇宙に

48歳で日清食品(当時はサンシー殖産)を起業した安藤百福のチャレンジ精神は、90歳を越えても枯れることはありませんでした。
ずっと胸に描いていた夢・世界初の宇宙食ラーメンの開発に挑戦したのです。
以下は、2001年夏の記者懇談会での質疑応答です。

「会長は今でも新製品に意欲的と聞いていますが、どんな開発構想をお持ちですか」(という質問に安藤は)「人間はどこに行っても、どんな環境でも食べなければならない。
宇宙に行っても同じですよ」と答えた。翌日の朝刊に、「安藤会長宇宙食を開発」という見出しが躍った。」(『転んでもただでは起きるな!』安藤百福発明記念館 編)

ちょうど野口聡一宇宙飛行士のスペースシャトル搭乗が予定されていた2003年に向けて、本格的に宇宙食ラーメンの開発がスタート。
技術的な課題も多く難航しますが、それでも安藤はやはり陣頭指揮をとって現場を鼓舞しています。

「宇宙船内では気圧が低いことと安全のために、給湯温度が75度程度に設定されている。そのため75度のお湯で戻るめんにしなければならない。
無重力なので、めんやスープが空中に飛散しない工夫が必要だった。スペースシャトルの壁面には計器類がびっしりと並んでいる。全面が精密機器のようなものである。
そこへラーメンのスープが一滴でも付こうものなら、飛行に重大な影響を及ぼす。そこで、めんはほぐれないようにボール状に絡ませ、スープにはとろみが付けられた。」(同)

予定通り、宇宙食ラーメンは開発着手から2年で完成し、「スペース・ラム」という名前がつけられました。
当初は醤油味、味噌味、カレー味が用意されましたが、野口飛行士の希望で、豚骨味も追加されています。

NASA(アメリカ航空宇宙局)の厳しい審査も無事通過して、いよいよ安藤のラーメンが宇宙に飛び出そうとする矢先、コロンビア号空中分解という大事故があり、野口飛行士の搭乗は2年延期されることに。
2005年、ようやく世界で初めて宇宙空間でラーメンが食べられたのでした。野口飛行士は地上との交信で、「地上で食べる味が再現されていて、大変おいしかったです」とその感想を述べています。

無事に帰還した野口と、95歳になった安藤は、共に夢を実現し合った者同士、がっちりと握手してお互いの成功を称え合った写真が残っています。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『転んでもただでは起きるな!』 安藤百福著
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●運を引き寄せる信念

さまざまな難問をクリアして完成へと漕ぎ着ついた新商品に、安藤百福は「カップヌードル(Cup Noodle)という名を付けました。初めから世界市場を視野にいれていたためです。
彼の予想通り、カップヌードルは今や世界中の人に愛される食品へと成長を遂げましたが、意外なことに発売当初の評判は、あまり芳しいものではありませんでした。

「マスコミは「野外のレジャーにベンリな際物商品」という評価だった。問屋は「袋めんが25円で安売りされている時代に100円は高い」と言う。揚げ句は「日本には昔から家族で食卓を囲み、いただきます、ごちそうさまと言う行儀のいい習慣があるのに、立ったまま食べるとは良風美俗に反する」という意見まで飛び出した。」(『転んでもただでは起きるな!』安藤百福発明記念館 編)

問屋から商店へという通常ルートが厳しい状況にあったため、営業部員たちはさまざまな所に足を運び、販路拡大に力を注ぎました。
商品に絶対の自信をもっていた安藤は、「いい商品は必ず世の中が気が付く。それまでの辛抱だ」と、彼らを励まし続けました。

「最初の朗報は埼玉県朝霞の陸上自衛隊を回っていた社員からもたらされた。演習場で給湯車からカップヌードルに湯を入れて隊員に配られたのである。」(同)

そしてこの意外な所での需要が、後の大ヒットへの導火線になっていきます。
それは発売開始から数ヵ月後のことでした。

「1972(昭和47)年2月、連合赤軍による浅間山荘事件である。安藤はテレビの現場中継を見ながら、あっと息をのんだのを覚えている。雪の中で山荘を包囲する機動隊員が湯気の上がるカップヌードルを食べているのだ。しかも、それが繰り返し画面に大写しにされた。」(同)

おにぎり等の支給もありましたが、氷点下の寒さの中では凍ってしまって役に立ちませんでした。すぐに他の県警や報道各社から注文の電話が殺到しました。
歴史的大事件をNHKは連続10時間以上も現場中継し、民放を含めた総視聴率はなんと80%を越えました。テレビを見た人の間で「あの食べ物は何だ!?」と、カップヌードルは一気に全国的に注目集めることになったのです。

幸運に恵まれたといえばそれまでですが、しかし、必ず売れるということを信じて地道に販路を拡大した結果でもあります。
もし途中で諦めていたら、今の大成功はなかったかもしれません。

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□『転んでもただでは起きるな!』 安藤百福著
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