幕臣となった勝海舟は1855年(安政2年)、オランダ人教師から航海や海戦の技術を学ぶために長崎海軍伝習所に赴任します。ペリー来航から2年後、再来航の翌年のことでした。
航海や砲術の実践訓練はもちろん、造船学や測量学、機関学、数学などの学科もあり、昌平学問所(東京大学の前身ともいわれる)出身の秀才たちでさえ、ついていくのがやっとの状態でした。
教える方も、学ぶ方も、まったく初めてのことであり、お互いに相当な苦労があったようです。その時の様子を勝は次のように記しています。
「教官は大にその教示に苦しみ、生徒はまた暗誦に苦しみ、甚だ労苦す。矢田堀・塚本・永持氏の如きは、昌平学校に漢書を学び、早く学中少年才子の誉れ英敏の聞えありといえども、なお今日暗誦に刻苦す」(『維新前夜の群像3 勝海舟』松浦玲 著)
オランダ語の能力と蘭学の基礎があった勝にとっても決して生易しいものではなかったようです。しかしそれでも知人に書き送った手紙からは、新しい知識を得、視野が拡大されていくことを楽しんでいる様子もうかがえます。
「学科は七科にて、一日二科宛相学び候事故、随分困却仕り候、この節は少々目鼻も開かれ申し候、蒸気の事も余程知り申し候」(同)
勝が長崎伝習所に来てから2年後、幕府が購入したばかりの新しい練習艦が長崎に到着します。それは、後に勝が指揮をとって太平洋を横断しアメリカに渡ることになる咸臨丸でした。
その頃には伝習所幹部になっていた勝は、咸臨丸などの練習艦を操り、航海練習や測量、現地視察を兼ねて対馬や釜山などを巡っています。
薩摩を訪れたときは、名君の誉れ高い薩摩藩主・島津斉彬とも会っています。改革派藩主らのリーダー的存在だった島津は、幕臣としての立場に縛られずに自由に意見を述べる勝の人物、見識を高く評価し、側近の西郷隆盛に「幕臣にも人あり」と語っています。
この出会いをきっかけに、勝の名前は幕府内部を越えて、雄藩の志士たちの間にも広がり、その人脈、活動範囲も一気に広がっていきます。
彼自身が自覚していたかどうかは別として、大きな運命に押し出されるように、勝は、幕末という日本史の中で極めて密度の濃い時期を代表するような、中心的人物になりつつありました。
┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『勝海舟の人生訓』童門冬二著
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