陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -3ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●個人的志と歴史の要請の符合

幕臣となった勝海舟は1855年(安政2年)、オランダ人教師から航海や海戦の技術を学ぶために長崎海軍伝習所に赴任します。ペリー来航から2年後、再来航の翌年のことでした。

航海や砲術の実践訓練はもちろん、造船学や測量学、機関学、数学などの学科もあり、昌平学問所(東京大学の前身ともいわれる)出身の秀才たちでさえ、ついていくのがやっとの状態でした。
教える方も、学ぶ方も、まったく初めてのことであり、お互いに相当な苦労があったようです。その時の様子を勝は次のように記しています。

「教官は大にその教示に苦しみ、生徒はまた暗誦に苦しみ、甚だ労苦す。矢田堀・塚本・永持氏の如きは、昌平学校に漢書を学び、早く学中少年才子の誉れ英敏の聞えありといえども、なお今日暗誦に刻苦す」(『維新前夜の群像3 勝海舟』松浦玲 著)

オランダ語の能力と蘭学の基礎があった勝にとっても決して生易しいものではなかったようです。しかしそれでも知人に書き送った手紙からは、新しい知識を得、視野が拡大されていくことを楽しんでいる様子もうかがえます。

「学科は七科にて、一日二科宛相学び候事故、随分困却仕り候、この節は少々目鼻も開かれ申し候、蒸気の事も余程知り申し候」(同)

勝が長崎伝習所に来てから2年後、幕府が購入したばかりの新しい練習艦が長崎に到着します。それは、後に勝が指揮をとって太平洋を横断しアメリカに渡ることになる咸臨丸でした。
その頃には伝習所幹部になっていた勝は、咸臨丸などの練習艦を操り、航海練習や測量、現地視察を兼ねて対馬や釜山などを巡っています。

薩摩を訪れたときは、名君の誉れ高い薩摩藩主・島津斉彬とも会っています。改革派藩主らのリーダー的存在だった島津は、幕臣としての立場に縛られずに自由に意見を述べる勝の人物、見識を高く評価し、側近の西郷隆盛に「幕臣にも人あり」と語っています。

この出会いをきっかけに、勝の名前は幕府内部を越えて、雄藩の志士たちの間にも広がり、その人脈、活動範囲も一気に広がっていきます。
彼自身が自覚していたかどうかは別として、大きな運命に押し出されるように、勝は、幕末という日本史の中で極めて密度の濃い時期を代表するような、中心的人物になりつつありました。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
『勝海舟の人生訓』童門冬二著
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●「運」は努力によって裏打ちされる

勝海舟の出世の道を開いた「海防意見書」は、単に勝個人の運命を変えただけではなく、徳川幕府ひいては日本全体の未来にも大きな影響を与えることになりました。
そこに書かれた内容もさることながら、それ以上に、勝が幕臣として国政に参加するきっかけとなったからです。

「勝は、乾坤一擲の意見書を書くことによって多くの知己を得た。すがるべき蔓が、蔓の方から下がってきたのである。勝はそれを活用した。しかし、蔓が下がってくるのには、彼がそれまでの全教養を叩きつけて書いた意見書が、大きくものをいっていた。長年の自己充電の成果であった。」(『勝海舟の人生訓』童門冬二 著)

偉業を成し遂げた人の多くは、ほとんど例外なく強力な「運」に恵まれています。しかし、必ずしも「運が良かったから成功した」ということではありません。
たとえ幸運がやってきても、本人がその波に乗れなければ、それをしっかりと掴むことができなければ、何事もなく過ぎ去っていってしまうでしょう。
そもそも、常に目を開いて現実と未来を見つめていなければ、チャンスが巡ってきていることにも気づかないことが多いのではないでしょうか。

陽転思考の例として、アクティブ・ブレイン・セミナーでは「遭難時、コップに半分残った水をどう捉えるか」というエピソードが紹介されます。
コップの水が半分しかないと嘆く人は、おそらくそれを不運と感じ、まだ半分も残っていると思う人は、そこに希望を見出し、それを幸運と受け止めるでしょう。

本メルマガでも取り上げた「経営の神様・松下幸之助」も、「自分は運が良い。運に恵まれている」と思うことが幸運の秘訣であるというようなことを述べています。

勝は、極貧の中にあっても自らの才能を信じ、努力によってその能力に磨きをかけていたからこそ、千載一遇のチャンスを逃さずにそれを発揮することができました。
ある意味、そのチャンスは、当時の多くの人に平等に与えられていたともいうこともできるでしょう。
しかし、実際にそのチャンスを掴むことができたのは、ごく一部の人だけだったのです。

幕臣となった勝は、その能力を思う存分発揮するとともに、与えられた地位を活用して島津斉彬や西郷隆盛、坂本龍馬など、時代を動かすことになる多くの要人と出会い、知遇を得ることになります。

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『勝海舟の人生訓』童門冬二著
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●極貧から出世への道を開いた渾身の意見書

極貧の中、蘭学塾経営や大砲の設計でなんとか日々の糧を得ていた勝海舟が、大きく出世するきっかけとなったのは、奇しくも日本中に衝撃を与えたペリー来航でした。
アメリカは、強大な武力を背景に開港を要求してきました。

長年の鎖国で、ひたすら内政だけに集中することしかしてこなかった幕府内部には、外交の専門家もいなければ、その経験もありません。列強と、攘夷を主張する京都(天皇)との板挟みの中、混乱が深まるばかりで一向に対応策はまとまりません。

そこで老中筆頭(現在でいえば総理大臣)・阿部正弘は、国難を乗り越えるためのアイディアを広く公募することにしました。当時としてはとても開明的な取り組みであり、日本全体を考えればプラスとなった政治判断でしたが、反面、幕府にとっては、その無能力さを全国に晒してしまうというマイナス面もありました。
実際、それによって諸藩の政治的な力は高まり、倒幕への流れを加速させることにつながっていきます。

阿部の呼びかけに対して、幕臣や大名など、多くの人が意見書を提出しました。
その多くは「外国の出方を見て対処すべきだ」というものがほとんどでした。ようするに「とりあえず様子を見る」というものであり、結局「問題の先送り」の域を出るものではありません。
しかしその中で一通、阿部の目に止まったものがありました。その意見書には、主に次のような具体的な提案が記されていました。

「柔軟に外国に対処すること。それは、日本国の主体性を貫きながら、みだりに攘夷などという暴挙に出ないことである。外国が求める薪水を与えることや、また日本の漂流民を受け取ることは、国際上の礼儀である。が、そのままにしておけば、勢いに乗った外国は、日本を清国(中国)のようにしてしまうだろう。したがって、大いに海軍を興さなければならない。しかし、海軍を興すといっても短時日で完成されるものではない。そのためには、人材を登用し、海軍伝習所を作り、外国の技術を取り入れ、日本の軍備力を増すことが大切である」阿部はひどく感心した。意見書を提出した者の名を見ると、勝麟太郎とあった。(『勝海舟の人生訓』童門冬二 著)

阿部は、勝の「海防意見書」を大久保忠弘(一翁・後の東京府知事)ら幕臣たちにも見せました。大久保は、その提案内容に感嘆しつつ、その最後に記された名を見て、それが高品質の大砲を作るために賄賂を拒否した男と同じ人物であることを知り、さらに感動を深めたのでした。
その後、大久保は勝のもとを訪れて面談し、幕臣として登用することを決定します。

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『勝海舟の人生訓』童門冬二著
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●現代にも通じるブランド・広報戦略

蘭和辞典を丸ごと筆写してまで蘭学を極めた勝海舟は、その知識を土台として、赤坂の地に蘭学塾を開きます。勝28歳、ペリー来航の3年前のことです。

塾を開いたとはいえ、勝の極貧生活は相変わらずでした。その頃は既に結婚をしていましたが、家には布団もなく、薪の替わりに柱や板を削って米を炊いたこともあったほどです。

それでも蘭学のエキスパートとしての名前は知られていたのでしょう。勝のもとにオランダ式の大砲(野戦砲)製作の話がもちこまれます。

「海舟が蘭学塾を開いた嘉永三年は、このような年であった。幕府・諸藩ともに海防強化のかまえだけはみせ、そのための鉄砲訓練が重視されたので、鉄砲・大砲への需要は当然ながら多くなる。そうして、その新規製作は、しばしば民間の名のある西洋兵学者に依託されるようになったのである。」(『維新前夜の群像3 勝海舟』松浦玲 著)

もともと勝が蘭学を志したのは、学者になるためではなく、その知識を現実に生かそうとしたからでした。学問のための学問、研究のための学問ではなく、実学でなければならないと考えていた勝は、意欲的に大砲の設計・製作指導に打ち込みます。

当時、大砲1門を作った場合、発注者が鋳造業者に支払う金額は約600両。鋳造業者はそのうちの半分300両を設計者にバックするというのが常態化していました。ようするに材料をごまかしたり、手抜きに目をつぶってもらうための賄賂です。

しかし勝は、極貧の中にあっても、その賄賂を受け取ろうとしませんでした。もちろん正義感もあったでしょう。それに加えて勝の頭の中には今でいうブランド戦略的な考えもありました。

「おれはこの金を受け取らない。この金の分だけ圧銅の量をふやしな。それだけいい大砲を作って、立派な仕事をしてみろ。請負ったこのおれの名前のよごれになるようなことは、よしてくれ」(『勝海舟の人生訓』童門冬二 著)

勝のブランド・広報戦略は見事に功を奏します。この話は江戸中の噂となり、やがて幕府の要職(海防掛)に就いていた大久保忠寛(一翁)の耳にも届きます。
それは巡りめぐって、勝の幕臣登用・出世の糸口となっていくのです。

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『勝海舟の人生訓』童門冬二著
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●集中して打ち込むところに幸運は訪れる

江戸の貧しい下級武士の家に生まれた勝海舟は、幼い頃から剣術修行に励みます。
また剣術の奥義を極めるための一環として、禅にも打ち込んでいます。

相当な努力の結果、剣の腕前も、禅によって鍛えられた精神も、かなりのレベルだったようです。
晩年になって彼は、この頃の修行のことについて次のような談話を残しています。

「殆ど四ヵ年間、真面目に修行した。此の坐禅と剣術とがおれの土台となって、後年大層為になった。瓦解の時分、万死の境を出入りして、ついに一生を全うしたのは、全く此の二つの功であった。ある時分、沢山刺客やなんかにひやかされたが、何時も手取りにした。此の勇気と胆力とは、必竟、此の二つに養われたのだ」(『維新前夜の群像3 勝海舟』松浦玲 著)

「瓦解の時分」というのは幕府が倒れる時のこと。官軍から敵視されるのは当然としても、幕府側の人からも「薩長に通じている」というような疑いの目で見られ、双方から命を狙われていました。
しかし坂本龍馬や西郷隆盛ら盟友が早死にしていくなか、本来なら最も危ない立場にいたと考えられる勝は明治32年まで生き、77歳という長寿を全うしています。

剣術と禅に明け暮れていた勝も、20歳になった頃からは蘭学に目を向けるようになっていきます。
城中でオランダ製の大砲を見て、その砲身に書いてあったオランダ語を読めるようになりたいと思ったことがきっかけだったといわれています。

当時、蘭和辞典はとても高く、勝には買うことができませんでした。それで赤城という蘭医に交渉して1年間10両という約束で借りて、それをすべて書き写してしまいます。

「彼は引くよりも、すぐ書き写しにかかったのである。しかも、同時に二冊書き写しはじめた。ここに勝の本領がある。引くよりも書き写してしまおうと思ったのだ。自分の分を作ろうと考えたのである。しかし、二冊作ったのはどういうわけか? 一冊は売るつもりだった。そして、一冊を手元に置き、打った一冊の代金で、赤城への損料を生もうとしたのである」(『勝海舟の人生訓』童門冬二 著)

さらに勝の熱心さに感動した蘭医は、「これはあなたのような人が持つべきだ」と言って、返却されたはずの1冊を勝の手に渡してしまいます。

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□『勝海舟 強い生き方』 窪島一系著
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