軍艦奉行へと出世した勝海舟は、元治元年(1864)、神戸に開設した海軍操練所で、諸藩から集まった修練性たちを指導することになります。
「勝の名声もあって、諸藩からの入学生は相当数にのぼった。薩摩からはのちの元帥海軍大将伊東裕亨はじめ二十一名が来ている。
土佐も、竜馬の関係で多い。紀州からはのちに陸奥宗光となる伊達小次郎が来た。熊本からは、横井小楠の親類筋の横井左平太や横井忠平といって連中の名前がみえる。」
(『維新前夜の群像3 勝海舟』松浦玲 著)
海軍操練所の修練性たちは、それぞれの藩籍を背景にしながらも、共に厳しい訓練に従事する中で仲間意識が芽生え、より大きな「日本」という枠組みを強く意識するようになっていたでしょう。
それこそ、操船や戦いの技術を学ぶこと以上に、勝が教えたかった本当のことだったのかもしれません。
そこでは、どの藩に属しているか、どの階級に属しているか、ということよりも、いかにして日本を守るべきか、どうしたら西欧列強に負けない国を作れるのかという課題が優先されていました。
より大きな視野、世界観、理念を提示しつつ、皆で同じ船を動かすという共同作業を実践させることで、それまで頑なだった諸藩の壁を崩してしまったのでした。
しかし、諸藩が融和する海軍操練所とは裏腹に、国内情勢は風雲急を告げる緊迫した状況になっていきます。
まず8月には、京から締め出されていた長州藩が復権をかけて会津・桑名藩らと戦った禁門の変(蛤御門の変)が起こります。
敗北した長州藩は朝敵の汚名を着せられ、幕府を中心とした諸藩によって長州征伐軍が編成されます。さらに四国(英・仏・蘭・米)連合艦隊による長州攻撃(馬関戦争・下関戦争)も勃発していました。
倒幕の急先鋒であった長州藩の弱体化により、尊攘派の動きは一気に後退し、時代の趨勢は再び幕府側に移ったかのように感じられていたでしょう。
そうした動きに乗じてか、幕府は一度ゆるめていた参勤交代の制度を、また元の厳しさに戻して、諸藩の力を弱めようとしていました。
しかしこのとき勝は、幕府内部にいながら、全く別の視点をもっていました。日本の将来を考えずに、ひたすら体制擁護ばかり考える幕府を完全に見限っていたのです。
┌──────────┤書籍のご紹介├┐
□『勝海舟の人生訓』童門冬二著
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