陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -2ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●幕府・諸藩融和の先行モデルとしての海軍操練所

軍艦奉行へと出世した勝海舟は、元治元年(1864)、神戸に開設した海軍操練所で、諸藩から集まった修練性たちを指導することになります。

「勝の名声もあって、諸藩からの入学生は相当数にのぼった。薩摩からはのちの元帥海軍大将伊東裕亨はじめ二十一名が来ている。
土佐も、竜馬の関係で多い。紀州からはのちに陸奥宗光となる伊達小次郎が来た。熊本からは、横井小楠の親類筋の横井左平太や横井忠平といって連中の名前がみえる。」
(『維新前夜の群像3 勝海舟』松浦玲 著)

海軍操練所の修練性たちは、それぞれの藩籍を背景にしながらも、共に厳しい訓練に従事する中で仲間意識が芽生え、より大きな「日本」という枠組みを強く意識するようになっていたでしょう。
それこそ、操船や戦いの技術を学ぶこと以上に、勝が教えたかった本当のことだったのかもしれません。

そこでは、どの藩に属しているか、どの階級に属しているか、ということよりも、いかにして日本を守るべきか、どうしたら西欧列強に負けない国を作れるのかという課題が優先されていました。
より大きな視野、世界観、理念を提示しつつ、皆で同じ船を動かすという共同作業を実践させることで、それまで頑なだった諸藩の壁を崩してしまったのでした。

しかし、諸藩が融和する海軍操練所とは裏腹に、国内情勢は風雲急を告げる緊迫した状況になっていきます。
まず8月には、京から締め出されていた長州藩が復権をかけて会津・桑名藩らと戦った禁門の変(蛤御門の変)が起こります。
敗北した長州藩は朝敵の汚名を着せられ、幕府を中心とした諸藩によって長州征伐軍が編成されます。さらに四国(英・仏・蘭・米)連合艦隊による長州攻撃(馬関戦争・下関戦争)も勃発していました。

倒幕の急先鋒であった長州藩の弱体化により、尊攘派の動きは一気に後退し、時代の趨勢は再び幕府側に移ったかのように感じられていたでしょう。
そうした動きに乗じてか、幕府は一度ゆるめていた参勤交代の制度を、また元の厳しさに戻して、諸藩の力を弱めようとしていました。

しかしこのとき勝は、幕府内部にいながら、全く別の視点をもっていました。日本の将来を考えずに、ひたすら体制擁護ばかり考える幕府を完全に見限っていたのです。

┌──────────┤書籍のご紹介├┐
『勝海舟の人生訓』童門冬二著
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●勝海舟の視野の広さに敬服した西郷隆盛

攘夷派の志士たちの多くが、開国論を掲げる勝海舟を危険視し、その命を狙っていました。先回述べたように、坂本龍馬もその一人であったと考えられています。
そうした刺客に対して、勝は逃げるよりも、むしろ真正面から相対することで、龍馬がそうであったように、逆に自らの懐に取り込んでしまうということが度々ありました。

諸藩の志士たちだけではなく、公家たちも攘夷派が主流でした。
彼らの多くは一歩も京の外に出たことがなく、海を越えてやって来る外国人は、みな野蛮人だと思っていた節があり、そうした現実離れした観念が、感情的で単純な攘夷論の背景にあったようです。

勝は、そうした強硬な攘夷論を唱える公家たちや、自らの命さえ狙う志士たちを自らが率いる船に乗せ、今のままでは攘夷が不可能であるという現実を見せようと計画します。
あるとき勝は、攘夷派公家の中心的存在であった姉小路公知を船に招待します。

「公知は大阪にやって来た。この時、京都内にいた桂小五郎他の攘夷派の志士が、全部いっしょにくっついて来た。場合によっては、勝を斬ろうという腹である。勝は、これらの攘夷派をぐるみで船に載せた。
そして、大阪湾内を見せながら、「どうです? こんな状況で、外国から日本を守りきれるとお思いですか? 今こそ、日本の海防を貫くために、一大海軍を起こさなければなりません。
もちろん、日本各所に砲台を築くべきでしょうな。それ以上に、海軍を起こすことが緊急の要務です。」と説いた。」(『勝海舟の人生訓』童門冬二 著)

この勝の作戦は見事に功を奏します。現実を目の当たりにした姉小路は、勝の考えに賛同します。
現実を見せることを通じて勝は、自らの考えが単に幕府を擁護するためのものではなく、列強から日本を守りたいという公的精神に基づいたものであるということを伝えることにも成功しています。

あるいは、敵をも飲み込んでしまう懐の深さ、器の大きさも、感銘を与えたでしょう。誠意をもって対応しつつ、そうした演出・プレゼン効果も、おそらく勝はしっかりと計算していたはずです。
かつて、大砲製作の時に見せてブランド・広報戦略の才能が、ここでも生かされています。

「桂小五郎以下も、姉小路に賛同した。一時は命さえ狙われていた勝が、自分の得意とする船に反対派を乗せて、議論するよりも一つの事実を見せて、見事に彼等を説得してしまったのである。
(中略)この時、坂本龍馬も船の中にいて、大いに活躍した。」(同)

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●坂本龍馬と勝海舟の出会い

坂本龍馬が勝海舟の元を訪れたのは文久2年(1862)、勝が咸臨丸で渡米してから2年後のことでした。
咸臨丸での太平洋横断、渡米を成功させた勝の名は、幕府内はもとより、雄藩の志士たちにも広く知られるようになっていました。
しかし、必ずしも好意的に受け止められていたわけではありません。開国を指向する勝は、攘夷を掲げる志士たちの間では敵視される傾向にありました。

「海舟と龍馬の出会については、有名な話がある。攘夷派だった龍馬が開国論の巨魁と思われていた海舟を斬りに行き、逆に説き伏せられて弟子入りするというのである」
(『維新前夜の群像3 勝海舟』松浦玲 著)

当時は、ひたすら外国人を嫌悪するいわば「原理主義的攘夷派」よりも、開国によって力を蓄えて不平等条約を破棄しようとする「開国的攘夷派」が主流になっていました。
外国と戦ってその力を思い知った長州の久坂玄瑞や桂小五郎らも、そうした考えに傾いていました。

彼らは、とにかく外国人を排斥しようとする単純な攘夷論から脱皮して、まずは腰抜け外交しかできない幕府を倒し、諸外国と対等な関係を結ぶことを目標としていました。
その思想的支柱となっていたのが、元は熊本藩士で、当時、福井藩の政治顧問だった横井小楠です。龍馬に勝と会うことを勧め、紹介したのがこの小楠でした。

「横井小楠の論説は、攘夷論者を開国論に脱皮・飛躍させる道筋として、もっともスムーズなものをもっていた。
龍馬は、その線に乗ってきた。一つには、もちろん、柔軟な発想のできる龍馬の天性の資質によるところも大きい」(同)

勝も小楠とほぼ同じような考えでした。しかし幕府の中枢にいたことと、アメリカに渡り通商条約批准に関わったことなどから、単純な開国論者であると誤解されることもあったのかもしれません。
龍馬も、小楠から勝のことを聞き、興味をもってはいましたが、とにかく会ってみなければわからないと思っていたのでしょう。
「斬りに行った」というより、「話の内容によっては、そうすることも心に秘めていた」というのが本当のところかもしれません。

二人の会合の結果はご存知の通り。龍馬は勝の考えに心服し、そのまま弟子入り、ということになります。

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●勝海舟が垣間見たサンフランシスコ

万延元年(1860)、勝海舟は咸臨丸に乗り、日米修好通商条約の批准書交換のために渡米した遣米使節団に随行しています。

総責任者は軍艦奉行・木村喜毅でしたが、実質的な艦長は操船技術に長けた勝が務めたとされています。(実際は、勝と木村の間で、それぞれを支持するジョン万次郎(勝派)と福沢諭吉(木村派)を巻き込み、主導権争いのようなものがあったという話も伝えられています。)

「木村喜毅以下96名の日本人と米海軍ジョン・ブルック大尉以下11名の米国人を載せた咸臨丸は、1860年3月17日にサンフランシスコの地に到着しました。(中略)
咸臨丸乗組員は、2ヶ月弱ベイエリアに滞在し、咸臨丸の修理が終わるのを待って日本への帰途に就きました。」(在サンフランシスコ日本国総領事館WEBサイトより)

サンフランシスコ市は咸臨丸が到着した3月17日を記念して「咸臨丸の日」として後世に伝えています。

「咸臨丸のサンフランシスコ来航はこのように短期間であり、その使命はあくまでも遣米使節団の随伴艦というものでしたが、その功績には極めて重要且つ意義深いものがあります。
サンフランシスコにおいては、咸臨丸は初めて米国までやって来た日本の軍艦として、耳目を集め、新聞にも大きく報道されました。
木村提督、勝海舟、福沢諭吉、中浜万次郎(ジョン万次郎)ら乗組員一行は、遣米使節団一行と共に初めて米国市民の前に姿を現し、交流した日本人となりました。」(同)

まだ徳川幕府が支配していた江戸時代、太平洋を渡ってアメリカの街並みや人々を実際に目の当たりした勝は、どんな思いを抱いたでしょう。
あまりに日本が遅れていることに愕然としたこともあったでしょう。
あるいは逆に日本の良さを再発見したかもしれません。

いずれにしても、圧倒的な物質文明に茫然とするだけではなかったということは、帰国後、列強の干渉から日本を守るために、幕府や諸藩を横断して奔走した彼の行動したを見れば明らかです。
2ヶ月弱という短い滞在期間ではありましたが、元来、勉強熱心であった勝のことですから、先進的な政治体制や産業構造、都市計画など、とても多くのものを吸収してきたに違いありません。

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●幕末という時代を動かした原動力の中心軸

勝海舟が生きた幕末。二百数十年も続いた徳川幕府の制度疲労に加え、ペリー来航に象徴される外圧により、日本全体が大きく揺れ動いた、まさに日本歴史の大転換の時でした。
攘夷/開国、倒幕/佐幕、雄藩連合/徳川軍など、いくつかの対立構造が複雑に入り組んでいました。

一般的に尊皇攘夷派は、開国に反対であり、天皇の承認を得ずにアメリカとの通商条約を結んだ幕府の弱腰姿勢を強く批判していました。その急先鋒は長州藩でした。

しかしその長州藩も下関戦争(馬関戦争1864年)の惨敗で列強の力を思い知らされてからは、ただ闇雲に攘夷を叫ぶよりも、まず外敵に対抗できるだけの力をつけなければならないという考えに傾きます。
いくら攘夷を声高に叫んでも実力的にそれが不可能であるということ、そして経済や軍事力を強化するためには開国・貿易という流れは避けられないという考えも浸透していきます。
そもそも、こうした考えはもともと勝が坂本龍馬や西郷隆盛らに語ってきたことではありました。

では幕臣でもあった勝自身は、開国への道を歩み出していた幕府擁護の立場にあったかということ、必ずしもそうではありません。
外圧に屈して行き当たりばったりの対応しかできない幕府を見限り、むしろその心情は、本来「敵側」にいるはずの志士たちのほうに傾いていました。

そのとき勝には、攘夷/開国、倒幕/佐幕とは別の「公/私」という対立軸が見えていました
幕府が守ろうとしていたのは「公(日本)」ではなく「私(幕府体制・究極的には徳川藩)」でした。それに対して、薩長連合後の倒幕派は「藩」を越えて連携するなかで「日本」という「公」的視野をもつようになってきていたのです。

幕末に展開された歴史を、改革派と守旧派の対立という単純な構図で捉えると、全体像を見誤ることになってしまうでしょう。
開国という時代の趨勢に抵抗して、感情的な攘夷論に支配されていた尊皇攘夷・倒幕派は、一時的にはむしろ「守旧派」に見えなくもありません。

しかし全体を俯瞰する視野をもっていた勝の視点から情勢を読み解くと、幕末という時代を動かす原動力の中心軸が浮かび上がってきます。

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