陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -22ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●絶望を希望に変えた内面の勝利

幕末の激動の時代、英雄的な働きをした高杉晋作ですが、多くの偉人たちがそうであったように、彼の人生も悩みと挫折の連続でした。

「文久の政変(1863年8月)」によって御所を追われた長州藩は、京都に攻め上り失地回復しようとする「進発派」の過激な動きを抑え込むため、晋作に説得工作の命を出します。

晋作は進発派の気持ちを理解しつつも懸命に説得を試みますが、思うようにはいかず、別ルートを模索して独自行動をしているうちに藩命放棄(脱藩)の濡れ衣を着せられてしまいます。
与えらえた使命を遂行しようと奔走したあげく萩に戻った晋作を待ち受けていたのは、地位も石高も、さらには藩主より賜った衣類まで没収され投獄されるという屈辱的ものでした。
刑期はとくに定められていなかったため、あるいはそのまま獄中で朽ち果てるかもしれないという不安があったでしょう。
獄中で綴った「投獄文記」に、晋作はその時の悲痛な心境を吐露しています。

「僕は獄に下った当初、これまでのことを後悔し、将来を案じ、茫然として黙座し、反省して心を責めた。しかしよくよく思うと僕はすでに獄に下り、いつ死ぬかも分からぬ身なのだ。
なんで反省して、心を責めねばならぬのだ。ただ枯れ木や灰のように死を待つのみであると考えるようになった」(『高杉晋作の「革命日記」』現代語訳 一坂太郎著)

しかし、その文章のすぐ後には、失望から希望への転換のようすが続いています。

「ところがある日、みずから悟るところがあった。朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり。これぞ聖賢の道だ」

歴史が大きく揺れ動くなか、囚われの身という状況は何も変わらないのに、それでも心の持ち方一つで絶望を希望に換えて、ひたすら書物を読み、勉強を続けていたのです。
そして、いずれ疑いは晴れると信じて希望をもつようになっていきます。

「士が讒言により汚名を蒙る。それは、月明かりが浮雲に覆われたようなものだ。浮雲が去った後、明月は人の心を照らしてくれる」
「身は捕えられ、檻に入れられた鳥獣のようだ。しかし心は水のように悠々と流れている」(同)

歴史に記される輝かしい功績以上に、晋作の真の素晴らしさは、絶望を希望に変える力、内面の勝利にこそあるのかもしれません。

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 『高杉晋作の「革命日記」
  一坂太郎著
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●陽転思考と高い志こそ復活の鍵

新しい時代の扉を開いた幕末の志士たちの中でも、とくに高杉晋作は、古い考え方に縛られずに自由奔放に生きたというようなイメージを持たれがちです。
しかし晋作が書いた日記や手紙の中には、保守と革新、攘夷と開国、過去と未来、藩と日本そして世界、理想と現実の板挟みの中で、悩み苦しみながら生きた生真面目な青年の姿が浮き彫りになっています。

満18歳の頃に吉田松陰と出会い、師として慕いつつも、父の反対ゆえに行動を共にすることができないもどかしさを、晋作は手紙にしたためています。
「僕、一つの愚父を持ちおり候。日夜、僕を呼びつけて俗論を申し聞かせ候。僕も俗論とは相考え候えども、父の事ゆえ、いかんとも致し方ござなく候」
松陰の暴走を思いとどまらせようと血判状を送ったときは、松陰から「僕(松陰)は忠義をなすつもり、諸友(晋作たち)は功業をなすつもり」と軽蔑され絶交されてしまいます。
それでも松陰に対する晋作の敬愛の念は生涯変わることはありませんでした。

晋作21歳の時には、幕府の遣欧使節に同行するヨーロッパ行きの内定が下ります。晋作は大喜びして「それがしの心中、喜悦思うべし」と日記に記しています。
晋作は「英国史」を学んだりいろいろ準備を進めますが、最後の最後で使節から外されてしまいます。晋作の落胆は相当なものだったでしょう。
しかしすぐに運は巡ってきて、翌年の上海行きには気を取り直して同行しています。

晋作22歳。自らの意見がなかなか通らないことに空しさを感じたのか、晋作は藩に10年間の休暇願いを提出し、頭を丸めて「出家」してしまいます。
この時、平安末期の歌人・西行にちなんで自らの号を「東行」とし、「西へ行く人をしたいひて東行く わが心をば神やしるらむ」と詠っています。
「東行」には、東つまり「関東」に行き勤王の戦を起こして死にたい、という思いが込められていました。
しかし3か月もたたないうちに呼び戻された晋作は、アメリカ軍から報復攻撃を受けた後の下関の防衛を任され、奇兵隊結成へと突き進むことになります。

晋作は、奇兵隊の育成と同時に、藩の正規軍・先鋒隊の立て直しの役目も担っていました。
それぞれ背景の違うこの2つの隊は何かと対立し合うことが多く、ついに死者が出る事件を引き起こしてしまいます。責任を感じた晋作は藩主に切腹を願い出るまでに追い込まれています。
有望な人材を惜しんだ藩は、晋作の罪は問わず、首謀者1人を切腹させることで事件を落着させました。

悩みや失意のなかにあっても土壇場で復活し前進し続けられたのは、生まれながらの陽転思考と、高い志そして情熱があったからでしょう。

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●不可能を可能にする志と情熱と勇気

「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し」――初代総理大臣・伊藤博文(俊介)は、松下村塾の先輩であった高杉晋作をそう評しています。
実際、若き日の俊介は晋作の常人離れした活躍を幾度となく目の当たりにしています。
第5・6回で取り上げた連合国との講和交渉もその1つですが、「功山寺挙兵」あるいは「回天義挙」と称されるクーデターも、俊介の目に晋作の偉大さが焼付いた歴史的大事件だったでしょう。

功山寺挙兵は、常識外れの大勝利として、織田信長の桶狭間の戦いと共に歴史に記録されています。
第一次長州征伐の後、長州藩は、幕府への恭順を主張する俗論派が実権を握り、晋作ら正義派(倒幕派)の動きを封じるようになっていました。
形勢逆転を図った晋作は奇兵隊に決起を促しますが、当時、隊を統率していた山縣狂介(後の第3・9代総理大臣・山縣有朋)は、時期尚早であるとして反対します。
自らが生み育てた奇兵隊の及び腰に、晋作の落胆は相当なものだったでしょう。しかしそれでも諦めずに、他の諸隊に向けて説得工作を続けます。

当時、長州藩には、奇兵隊に続いて同じような考え方で組織された「御楯隊」や「遊撃隊」などの諸隊がありました。その諸隊もまた、晋作の志には理解を示しつつも、慎重な姿勢をなかなか崩そうとしません。
いくら義があるとはいえ、藩に対して弓を引くクーデターです。しかも戦う相手は長州藩正規軍2000名以上。
さらにその背後には10万を越える幕府軍が控えているということから考えると、戦力的にとても勝ち目がないとも感じられていたでしょう。
結局、最初の段階で「功山寺」に集結したのは、伊藤俊介率いる力士隊を中心とした80数名のみでした。

1964年12月半ばの挙兵当夜、晋作は逡巡する「御楯隊」の陣営に立ち寄って、「真があるなら今月今宵、あけて正月だれも来る」と叫んだといわれています。

まさに圧倒的な多勢に無勢。それでも晋作はひるむことなく、「これよりは長州男児の腕前お目に懸け申すべく」と宣言し藩会所を襲撃、戦いの火蓋は切られました。
その後、晋作たちの破竹の勢いに奇兵隊はじめ諸隊も参戦し、結果的に、俗論派は一掃され大勝利に終わります。
普通に考えれば、まさに暴挙です。奇跡的に勝ったとしても、主君に弓を引くことにもなりかねないというこの戦いにあたって晋作は、勝敗に関わらず死を覚悟して臨んでいます。
それゆえ「決して私心のないこと」を自ら確認し、共に戦う同志にも宣言しています。

その後、藩主は晋作たちの義を認め、藩内は正義派によって統一され倒幕へと進んでいくようになります。
この長州藩内の政変は、やがてその数年後に全国規模で起こる政変・明治維新の縮図であったともいえるかもしれません。

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●「出自」よりも「志」に重きをおいた奇兵隊

幕末の激動の中、高杉晋作はわずか27年という生涯の中で数々の偉業を成し遂げました。
その中でも最も広く知れ渡っているのは奇兵隊の創設でしょう。
奇兵隊は、藩士中心の正規軍とは別の兵隊という位置付けであり、志さえあれば、身分を問わずに誰でも入隊することができました。
「戦を行うのは武士」と、誰もがそう思い込んでいた時代、晋作は古い考えにとらわれることなく「出自」よりも「志」のあるなしに重きをおいたのです。

そうした常識を越えた斬新な発想は、何よりも志を立てることを重視した師・吉田松陰の教えも強く影響していたはずです。
ただ、奇兵隊創設は、武士階級からすれば、自らの職域が侵されることでもあります。
とくに、長州藩の名家に生まれたことを誇りに思っていた晋作においては、ある意味、自己否定的なプロジェクトでもあったでしょう。

しかし、倒幕や攘夷に向けて、兵の数が足りないことは大きな問題でした。そのうえ戦のない天下泰平の世が長く続いたせいで、多くの武士が堕落してしまっているということも、晋作は肌で感じていました。

残された日記を見る限り、意外なことに晋作は封建的な秩序や価値観を無視していたわけではありません。
奇兵隊には、農民や町人などさまざまな人が参加していましたが、それぞれの袖印は階級ごとに区別されていました。
晋作自身、藩主に対する忠誠心は、相当強いものがありました。同時に、藩の要職にあった父親への孝心も人並み以上でした。
松陰の革命的な思想に惹かれつつも、保守的な父親の意向も無視できず、その間に挟まれて深く悩んでいたことが日記の随所に記されています。

尊王、攘夷、倒幕、佐幕、開国…晋作の生きた時代には、それぞれ重なりつつも対立し合うような概念が乱立していました。
攘夷を主張する人は開国に反対という立場をとりやすい反面、晋作を始め、諸外国の強さを肌で感じていた人は、現実的に考えて攘夷が不可能であるということもわかっていました。

伝統を保守しつつ、新しい時代にいかに対応するか――晋作も、そして同時代を生きた志士たちも、深く悩んだことでしょう。
幕末は、まさに歴史の交差点のような時代ですが、それを一人の人に象徴させるとするならば、高杉晋作こそ、その人であるといえるかもしれません。
そうした悩みや矛盾を抱えながらも、晋作が大きく一歩踏み出して時代を進めることができたのは、松陰の遺志を引き継いでいるという自負と、高い志ゆえであると考えられます。

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●負けても誇りを失わずに守り通した領地

前回紹介したように、敗北した下関戦争の講和交渉の場では、賠償金要求を見事に回避した高杉晋作でしたが、その後にはより大きな難題が待ち受けていました。
連合艦隊側は、戦勝国の当然の権利として、関門海峡にある長州藩の領地・彦島の租借を要求してきたのです。

租借とは、他国に対して一定の期間を限って領地を貸し出すことであり、必ずしも占領されるということではありません。
賠償金のことでは多少強引にこちらの意見を通したのだから、租借要求に関しては譲歩してもいいのでは…と、他の藩士ならそう考えたかもしれません。しかし晋作は絶対に譲れないと考えていました。
上海視察の時に、欧米の支配下に入った租借地の悲惨な現状を見てきていたからです。

欧風の建物が立ち並び、街は豪華に近代化されてはいましたが、その豊かさを享受しているのは欧米人だけで、現地の人は差別され奴隷のように働かされていたのです。
また、吉田松陰から陽明学を学んだ晋作にとっては特に神聖な場であった孔子廟を訪ねたとき、そこがイギリス軍の陣営になっていたことにも強い衝撃を受けています。

彦島の租借を強く要求してくる連合国側に対して、晋作は、実に驚くべき方法で相手を煙に巻いています。
なんと何の前触れもなく日本創世から始まる「古事記」の講釈を始めたのです。ようするに、日本は古来より神々の国として他国に土地を譲ったことはないというようなことを言いたかったのでしょう。

しかし外交交渉の場でそんな話をしても通じるわけはないし、そもそもイザナギ・イザナミ…という内容、通訳すること自体、難し過ぎます。
日本側の通訳は、松下村塾の後輩・伊藤俊介(後の初代総理大臣・伊藤博文。イギリス留学の経験があって英語が話せた)でした。
思いもよらぬ展開に俊介はきっと困り果てたことでしょう。しかし晋作は、朗々と古事記講釈を続けます。
この時の晋作と俊介の様子は「花神」という大河ドラマ(1977・NHK)の中で中村雅俊と尾藤イサオが名演しているので、ご覧になった方もおられるかもしれません。現在でも観ることができます。(YouTube)

相手に古事記の内容が通じたのか、晋作の気迫に押されたのか、あるいはただ呆気に取られただけかはともかく、牢獄を出たばかりの「即席の外交官」は、なんと彦島租借要求も見事に跳ね除けてしまいます。
このとき晋作はまだ満24歳。今の時代にもこんな外交官がいたらと思わせる大活躍です。

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