陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -21ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●「世界最高の企業」を生み出した「最低の経営者」

日本において偉大な経営者といえば、松下幸之助や稲森和夫など、人格的にも尊敬を集める人物である場合がほとんどです。
彼らの言葉や生き方はじつに示唆に富んでいて、「心の良薬」ともなり、私たちに多くの気づきや人生の指針を与えてくれます。

それに比べると、スティーブ・ジョブズの考え方や生き方は少し「劇薬的」でもあります。一般の人がそのまま受け入れて実践すると、大やけどをしてしまう危険性もはらんでいるように感じられます。
仮にジョブズのような人が1000人いたら、1人の大成功者と、999人の失敗者あるいは無謀者になる可能性さえなきにしもあらずです。

アップル草創期の頃の幹部で優秀な技術者だったジェフ・ラスキンは、ジョブズを次のように評しています。
「マネジャーとして、スティーブは最悪です。よく考えずに行動したりおかしな判断で行動したりします。」(『スティーブ・ジョブズ』ウォルター・アイザックソン著)

これだけであれば、「天才の行動は奇異に見えたり、理解しがたいことがある」という解釈も成り立つかもしれません。しかし、ラスキンの証言は次のように続きます。
「(スティーブは)他人の功績を認めるべきときに認めません。新しいアイデアを提示されると、意味がない、あるいはばからしいとすぐ否定し、そのようなことは時間の無駄だと切り捨てます。
これだけでも管理者としては失格ですが、そのアイデアが優れていた場合、それを自分のアイデアであるかのようにほかの人々に話すのです。他人の話は腰を折り、聞く耳を持ちません」(同)

同じくジョブズと共に初代マッキントッシュの開発に携わったビル・アトキンソンも、次のように語っています。
「スティーブの下で働くのは大変でした。神かくそったれか極端ですからね。神なら奉られ、なにをしても許されます。
(中略)優れたエンジニアで一生懸命働いているのにくそったれ側に分類された人は、なにをしようがまともに評価されない」(同)

部下を「天才」か「間抜け」かに2分して、ちょっとしたことでも理不尽に怒り出し、すぐに「出て行け!」「クビだ!」と言い放つ。
こうしたジョブズ評は、彼に批判的な立場の人だけのものではありません。ちなみにアトキンソンは、ジョブズによって「天才」のほうに分類されていました。
この「最低の経営者」という烙印が押されそうな人物が、なぜ「世界最高の企業」を生み出すことができたのか――次回以降は、ジョブズの生い立ちから、その秘密を探ってみたいと思います。

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●最低なクソ野郎でも最高の未来を作れる?

スティーブ・ジョブズ(Steven Paul Jobs,1955-2011)。
彼が21歳で立ち上げたアップル社は、コンピュータ、音楽、携帯電話などの広い分野で革命的なイノベーションを引き起こしました。
一時、自ら起業したアップルを追われるという挫折のただ中にあっても、ピクサーを率いて「トイストーリー」「バグズライフ」などの大ヒット作を連発、映画業界でも輝かしい偉業を達成しています。

さらには経営難で低迷状態にあった古巣・アップルに返り咲くと、すぐに「iMac」の大成功によって見事に復活させ、その後も「iPod」「iTunes」「iPhone」「iPad」と快進撃が続きます。

2011年8月、アップルの時価総額は、長年のライバル関係にあったマイクロソフトや、国際石油資本の巨大企業エクソンをも抜き去り、ついに世界一を記録するまでに上りつめます。
企業ブランド力に至っては今なおトップの座をキープしています。

わが子のように愛したアップルの栄光を見届けるかのように、ジョブズは、その2か月後(2011年10月5日)にこの世を去っています。56歳でした。

強力なライバルがひしめき合う中、たった一代でアップルを世界最大の企業へと育て上げた業績は、ジョブズがまさに「天才経営者」であることを証明しているといえるでしょう。

しかしその一方で、彼にまつわる「悪評」も並みはずれたものがあります。
それは、没後に出版された伝記『スティーブ・ジョブズ』の中でも赤裸々に語られています。

その伝記を元にした映画が最近日本でも公開されましたが、そこには、世界が称賛する「天才」に向けた言葉とは思えないキャッチコピーが付けられています。
曰く、「最低なクソ野郎でも最高の未来を作れる」「21世紀を変えた最低の嫌われ者」

この両極端な評価は、どこから来るのか。
ジョブズは、なぜ大成功を収めることができたのか。
さらに、彼の生き方は、陽転思考的に見てどのように評価できるのか。

――これから数回にわたって考えていきたいと思います。

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●「カナリア」に導かれた無限の可能性

明治から昭和にかけて、身体障害者の社会的に自立をする教育支援に生涯をかけた尼僧がいました。身体障害者の慈母観音と称された大石順教(じゅんきょう)尼その人です。
大石順教尼は両腕のない芸術家で、筆を口にくわえて描いた書画が高く評価され、昭和30年には口筆般若心経が日展で入選を果たすほどでした。

順教尼の両腕は17歳のとき、明治38年に養父が狂気で起こした「堀江六人切り事件」の際に切り落とされてしまいました。
この6人の犠牲者のうち5名が惨殺され、順教尼だけが両腕を失いながらも生き残ります。後年、「私の人生は17で打ち切りとなりました。その以後の私は、私で別に創造した人生です」と語っています。

もともとは日本舞踊の京舞の名取として芸妓の道を歩んでいたところで、惨劇に巻き込まれてしまったために、両手を失うと共に人生の大きな夢をも失い、絶望の淵に立たされました。
それで、順教尼は生計を立てるために「堀江六人切り事件」の生き残りとして見世物小屋に売られてゆき、そこで長唄や地歌を披露するという地方巡業に身を投じるという苦難の道を歩くことになります。

しかし19歳のとき、巡業先でカナリアが嘴(くちばし)にエサをくわえ、雛を育てている場面を目の当たりにしました。
カナリアは手がなくとも雛を一生懸命育てている、その真摯な姿に順教尼の眼が開かれたということでしょう。
夢を失い、身体障害を見世物にしている自分自身への絶望から、カナリアが見せた「いのちの輝き」のある美しい姿に衝撃を受けて立ち上がっていく順教尼の大きな転換の瞬間がありました。

そこで両腕がなくとも、口に筆をくわえて書や絵画を描くことができると信じて、独学で挑戦をするようになったのです。
それから見世物の一座を辞めて、本格的に書画の世界に入っていくようになりました。そうして22歳のときに、持明院住職の藤村叡雲僧正に師事して国文学を学びます。
さらに24歳のおりに日本画家と結婚して、一男一女をもうけるものの、離婚。子どもを引き取って東京での暮らすようになります。
やっと書画の展示会の企画が実現するはずだったところで関東大震災に見舞われます。
それで大阪へと帰ることにして、堀江事件で犠牲になった人たちの法要を果たし、尼僧を志すことになりました。
正式には昭和8年に高野山金剛峰寺で得度し、「順教」という法名を授かっています。

また順教尼は、昭和11年に京都山科に移住し、身体障害者の相談所「自在会」を設立し、婦女子の収容所をつくり、社会で自立できるような教育を始めています。
それからの順教尼は、昭和43年4月に80歳の生涯を閉じるまで身体障害者の自立教育に捧げるものとなりました。
今日もなお、順教尼こそ障害者の心の母、障害者の慈母観音であるとして慕われ続けています。

さて、これほどの苦難に遭遇しながらも、同じような境遇にある人たちに手を差し伸べ、社会への自立を支援する順教尼の生き方には心うたれます。
さらに両腕を切り落とした養父を恨まずに、「堀江六人切り事件」の加害者と被害者を供養するためのお寺として佛光院を落慶し、
その菩提を弔っていることも、順教尼の精神性と生き方がよく表れているように思います。

こうした順教尼の苦難と絶望的な情況の中で、心が陽転することができたのは、巡業先で出会ったカナリアの親が子に嘴(くちばし)でエサを与えている姿でした。
両手がないから何もできないのではない、カナリアのように手がなくても口でできることがある。最初から出来ないと思い込んでしまうことが一番の障害なのだと。

これまでたくさんの人たちが、カナリアのような小鳥が雛を育てる光景を見ています。
しかし順教尼にとっては、ただカナリアが雛にエサをやっているというだけではなく、「よく生きるための智慧を授かった」という感動と衝撃が走ったに違いありません。

私たちが何かに感動するとき、そこには涙をもって清められるような、魂の浄化ともいうべき新しい世界が開かれていきます。
しかも感動体験は、「花はこんなに美しく一生懸命咲いているのに、私はどれだけ一生懸命に自分の花を咲かそうとしているだろうか」という反省を促すという働きもあるのです。

順教尼もまた、カナリアの子育てを見て感動し、カナリアがあのように一生懸命に子のために生きているのであれば、私もできることがあると感じたのではないかと思います。
それは次の短歌の中にも見出すことができます。

「何事も 成せばなるてふ 言の葉を 胸に刻みて 生きて来しわれ」(順教)

順教尼は「身体障害者であっても、心の障害者にならないように」と教えています。
これは「たとえ過酷な運命に遭遇したとしても、その事実から目をそむけないで受けとめて、陽転することができるのだ」という陽転思考の真髄が体現されています。
こうしてみると大石順教尼もまた陽転思考の達人であったといって間違いないでしょう。

順教尼の人生の大きな転換は「カナリア体験」でした。あなたにとっての「カナリア体験」は何でしょうか。それは感動の体験であり、人生を豊かにする智慧を授かる瞬間でもあると思います。


【参考までに大石順教尼の映像と肉声はYouTubeにもアップされています】

人間科学研究会夢雲 主宰 望月昇

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●玄奘三蔵の「不東(ふとう)」の精神

西遊記の三蔵法師のモデルとして知られる玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)(602~664)は、唐の時代にインドまで仏教経典を求めて旅をしました。
玄奘三蔵の旅は、通過した国が128か国でその距離は3万キロに及んだと言われています。

また玄奘三蔵は、持ち帰った仏典の翻訳にその後の生涯をかけ、62歳で没する直前までサンスクリット語から漢訳に打ち込んでいたとのことです。
それでも持ち帰った仏典の三分の一ほどしか訳せなかったといいますが、玄奘三蔵が翻訳した数は、大般若経600巻をはじめとする74部13335巻という膨大なものでした。
現在、日本で最も読誦(どくじゅ)されている「般若心経」が、玄奘三蔵が翻訳した大般若経が基になっているのはあまりにも有名です。

ところで、玄奘三蔵のインドへの旅は当時の唐の鎖国政策に反するものでした。
玄奘三蔵は仏教の原典を求めて、やむにやまれぬ思いにかられて国禁を犯してまでインドに向かいます。この時の決意を「インドへ達せずば、東に戻らず」として、『不東』(ふとう)の二文字に表しました。

『大唐慈恩寺三蔵法師傳』によれば、旅の途中で出会った老人から西域行きを止められたときの玄奘三蔵の答えは次のようなものでした。
即ち、仏典を求めることができなければ「終不東歸。縱死中途。非所悔也」(決して東に帰りません。たとえ途中で死んでも悔いはありません)という強い決意を表明したのです。

その後の玄奘三蔵のインドへの旅は過酷を究めるもので、さすがの玄奘三蔵もあきらめかける瞬間がやってきます。
それは砂漠で水の入った皮袋を落としてしまい、少し引き返さなければならなかったときのことでした。

しかしその時、玄奘三蔵は次のように思い直し、決意を新たにします。

「自念我先發願。若不至天竺。終不東歸一歩。今何故來。寧可就西而死。豈歸東而生。」

意訳:私は先に願を立てて、インドに至らなければ一歩たりとも東に帰らないとしたではないか。今なぜ引き返しているのか。東に帰って生きるよりも、むしろ西に向かって死ぬべきではないのか。

玄奘三蔵は幾度も厳しい苦難や試練に遭遇しながらも、『不東』の精神をもって長い旅路の果てにインドからたくさんの仏典を持ち帰ることができました。
たとえ砂漠で水を失っても、病気になっても、まだ希望があると言ってあきらめなかった玄奘三蔵は、まさに陽転思考の達人の一人ではなかったかと思います。

そして玄奘三蔵が立てたインドへと仏典を求めるという志は、単に義務感から発したものではなく、心の奥底から湧き出る本心の情からのものであったに違いありません。
仏の道を求めるという、やむにやまれぬ思いがあったからこそ、国禁を破り、砂漠で水を失い、病気など度重なる困難に遭遇しても、インドへの旅を続けることができたのでしょう。

さて、私たちが人生の苦難に遭遇するとき、目の前に顕れる困難な状況に心を奪われ感情が荒れ騒ぐのではなく、心の奥底から発せられる本心の声に耳を傾けてみることが大切です。
「本当は私は何がしたいのか?」という問いに、私たちの心の奥底から発せられる本心がしっかりと答えを持っています。
ただ心の奥底から発せられる本心の声が細く小さいので、厳しい状況の中で感情が騒いでしまうとかき消されてしまうことが多いのです。
そんなときには大きく深呼吸をし、心拍数を落ち着かせて、心静かに「本当は私は何がしたいのか?」という問いかけをしてみてください。
小さく細い声であっても、必ず私にとって何が大切なことかを語りかけてくれるはずです。

玄奘三蔵の『不東』という二文字に込めた思いは、心の奥底から発せられたものであったからこそ、最後まであきらめずにインドへの求法(ぐほう)の旅を成し遂げることができました。
同じように人生の旅路もまた、私の心の奥底から発せられる本心の声に耳を傾けながら、
さまざまに遭遇する困難や辛く苦しい出来事を善きものにつくりあげてゆくところに人間としての真の深みが刻まれてゆくのではないかと思います。

ところで奈良の西ノ京にある薬師寺には、玄奘三蔵の遺骨を納めた玄奘三蔵院伽藍があります。ここには薬師寺の管主であった高田好胤氏が揮毫(きごう)した『不東』の額が高く掲げられています。
そして同伽藍には大唐西域壁画殿があり、平山郁夫画伯による『大唐西域壁画』がお祭りされていて、玄奘三蔵の求法の旅にあってその根底に流れる『不東』の精神をありありと感じることができます。
筆者は一年に一度は薬師寺にお参りして、玄奘三蔵院に掲げられている『不東』の額を見上げながら玄奘三蔵の遺徳をしのび、その精神を新たにしています。

人間科学研究会夢雲 主宰 望月昇

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●世の中を面白くするかどうかは心の持ち方次第

脱藩の冤罪で投獄され、絶望の淵を垣間見た高杉晋作は、獄中で書を読み思考を深めるなかで、次第にその試練を受容するようになり、そこに意味を見い出そうとしています。
そしてさらには、その不遇をむしろ肯定的に捉えるようにさえなるのです。

「書籍を紐解き、静かに読み、深く考える。すると以前からの心の病が治ってゆく。こんなに効果がある薬は見たことがない。僕は獄に下るのが十年遅かったと恨んでいる」
「囚われの身となり、心が一層雄々しくなった。栄枯はすべて普通の他人と同じではない。楽しみの裏には生きる苦しみがあると、誰かが言っていた。
真の楽しみは苦しみの中にこそ在ると知った」(『高杉晋作の「革命日記」』現代語訳 一坂太郎著)

また、奇兵隊に在籍した者が罪を犯して遠島に処せられた折、晋作は獄中からその者を励まして次のような言葉を贈っています。
「若いころ失敗したからといって、身を軽んじるなよ。古今の英傑たちを見てみなさい。囚を放たれたり、獄から出されたりした者がたくさんいるではないか」(同)

これらの言葉の中には、晋作の魂の完全な復活が読み取れます。
獄中生活が約3ヵ月に及んだ頃、「出家」からの復帰の時と同じように、またもや長州藩は晋作の力を必要として呼び戻し、重大な使命を託します。
その大仕事こそ、第5・6回で取り上げた4ヵ国連合艦隊との講和交渉に臨む全権大使でした。

歴史的大転換の時代、数多くの偉業を成し遂げた晋作ですが、その人生の時間はわずか27年と半年余りのことでした。当時は不治の病とされた肺結核に侵されていたのです。
辞世の句は、「面白き事もなき世を面白く 住みなすものは心なりけり」。(「面白き事もなき世に面白く」という説もあり)

勤王の志士たちを母のような立場で支えた女性・野村望東尼が見舞いに来た時に、晋作は「面白き事もなき世を面白く」と語り、それに望東尼が「住みなすものは心なりけり」と続けたとされています。
志半ばで病に伏す挫折感を吐いた晋作に対して、望東尼が「それはあなたの心の持ち方次第でしょう」と諭したという解釈もありますが、もともと晋作が以前に詠んでいた句であったという説もあります。
ただ望東尼が、晋作の生き様を深く理解していたということからすると、「心の持ち方で世の中はどうにでもなる」という晋作の気持ちを代弁したという解釈も成り立つのではないでしょうか。

命日は慶応3年4月14日(1867年5月17日)。大政奉還の半年前のことでした。(完)

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