陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方 -23ページ目

陽転思考の達人 過去と現在の賢人たちに学ぶ実践的アクティブ・ブレインの生き方

記憶術×陽転思考の<a href="http://www.oda-abs.com">アクティブ・ブレイン・セミナー</a>を受講した方限定のメルマガ「ウィークリーコンパス」の中から「陽転思考の達人」のみを抜粋し公開しています。

●長州藩の危機を救った晋作の外交手腕

1863年、攘夷を旨とする長州藩は、馬関海峡(現在は関門海峡)を通過するアメリカ等の外国船を砲撃し海峡封鎖を実行します。
翌年には、米英仏蘭の4ヵ国連合艦隊と長州藩との間で下関戦争が勃発、圧倒的な戦力の差を前に長州藩はたった3日間で惨敗してしまいます。

その後、イギリス軍艦上で行われた講和交渉に、長州藩代表として全権を任された立場で臨んだのが高杉晋作でした。
当時、晋作は脱藩の罪で獄中の身でしたが、急きょ呼び出され、さらに藩代表としてふさわしい位置に立つため、わざわざ家老・宍戸備前の養子になり名前まで変えて交渉の場についています。
おそらくこの難局を乗り切れる人物は晋作を除いて他にいなかったのでしょう。

晋作は、藩主から拝領した重厚な正装に身を包み、毅然とした態度で席に着きます。
その晋作を見たイギリス側の通訳アーネスト・サトウは「降伏しに来たとは思えないほど傲然としていた」と述懐しています。
とはいえ、一方的に戦を仕掛けたうえに惨敗したわけですから、晋作にしても、ほとんどの条件は飲まざるを得ない状況でした。
しかし2つの点で晋作は長州藩の立場を貫き通し、妥結させることに成功しています。

1つは、300万ドルもの賠償金の請求を回避したことです。
「そもそも攘夷は天皇の勅命であり、将軍もそれを実行することを公言している。わが藩はその意に沿って行動しただけであり、賠償金を支払う義務は幕府にある」と晋作は主張します。
さらに、「この領内には、主君への忠義のために身命を捨てるのを何とも思わぬものが大勢いる」と、平然と脅しをかけます。

ようするに、どうしても賠償金を取ろうとするなら、全領民を挙げて命がけで徹底抗戦することになるだろう、ということ。
五三の桐紋入り萌黄色の直垂(ひたたれ)を身にまとい、黒の烏帽子を被るという日本古来の正装姿で、晋作は絶対の確信をもって、そう宣告します。

その晋作の強気な交渉に、連合国側は、ついに賠償金の請求先を幕府とすることを了承することになるのです。
この巨額の賠償金の責務を負わされていたら、長州藩は立ち直ることができず、その後の歴史は大きく変わっていたでしょう。

次回は、さらに驚くべき2つ目の交渉作戦について考えてみましょう。

┌────────────┤おすすめ├┐
□書籍のご紹介
 『高杉晋作の「革命日記」
  一坂太郎著
└──────────────────┘

無料マンガダウンロード
●挫折からの陽転思考的発想転換

先回述べたように、高杉晋作は藩命の航海実習を途中で投げ出してしまいます。
あまり面白くなかったのか、作業が面倒だったのか、あるいは船酔いがきつかったのか――いずれにしても、さすがの晋作も多少なりとも自信喪失気味になっていたでしょう。
すぐに帰国命令が下りますが、帰路のついでに彼は、北関東から信州、北陸を巡る旅に出ます。晋作は自らその旅での日々を「試撃行」という日記に綴っています。

「試撃行」の旅の目的の一つに、剣術修行がありました。ちょうど柳生新陰流の免許を受けたばかりだったので、その腕を試したい、そして自信を取り戻したいという思いもあったのかもしれません。
各地で剣術の他流試合に挑もうとしています。
ところが試合を申し込んでも、なかなか受け入れてもらえず、ようやく相手が見つかっても一本も取れなかったりと、晋作のプライドはよけい打ち砕かれてしまいます。

「試撃行」のもう一つの目的は、佐久間象山(しょうざん)や横井小楠(しょうなん)といった当代一流の学者を訪ねて見聞を広めることです。
佐久間象山は、吉田松陰の師にあたる人物。横井小楠は、越前藩の顧問で殖産貿易による富国論を主張していました。
とくに晋作は、小楠の話に感銘を受け、「中々に英物、唯一無二の士」と評し、長州藩の藩校・明倫館の学頭に招きたいと考えるほどでした。
安政の大獄で師・吉田松陰を失ったばかりの晋作にとって、その思想の源流ともいえる象山や、攘夷一辺倒ではない新しい考えを指し示す小楠は、もう一つの思想的支柱ともなったのかもしれません。

萩に帰着してから晋作は、江戸にいる同志・久坂玄瑞に宛てた手紙の中で「試撃行」の成果について「遊歴は学文実着に相成り、益を得ること少なからず」と報告しています。
(ちなみに、いまいちだった剣術修行のことには一切触れていません)
さらに「三年戸を閉じ読書の志起こり候」と、3年間ぐらい閉じこもってでも学問に集中したいとまで書いています。
先回取り上げたエピソード、丙辰丸での航海実習に反対された時に吐いた「何ぞ筆硯(ひっけん)につかえんや(机にしがみついてばかりいられるものか!)」とは、まさに180度の大転換でもあります。

悪く言えば節操がないというか、また今風の言葉でいえば、ようするに結果オーライ的な考え方とでもいえるかもしれません。
しかしそこにあるのは、ただ「結果がよければプロセスはどうでもいい」というのではありません。
たとえ望んだ結果が得られなくても、それを素直に受け止めて、さらにそこにプラスを見い出し次のステージに進むという、まさに陽転思考的な考え方、発想転換です。

┌────────────┤おすすめ├┐
□書籍のご紹介
 『高杉晋作の「革命日記」
  一坂太郎著
└──────────────────┘

無料マンガダウンロード
●信念を貫くことと潔く諦めることのバランス

1853年の黒船来航以来、幕府をはじめ諸藩は航海術の重要性を強く意識するようになっていました。
長州藩士・高杉晋作も、「時は大軍艦に乗り込み五大州を互易するより外なし。それ故、僕も近日より志を変じ、軍艦の乗り方、天文地理の術を志し…」と、同志・久坂玄瑞に宛てた手紙に書いています。

1860年(万延元年)、晋作は萩から江戸までを航行するという航海実習の内命を受けます。
船は長州藩が造った木造の様式軍艦・丙辰丸(へいしんまる)。穏やかな瀬戸内海での航行経験しかなかったので、波が高く危険だと思われていた太平洋を通る江戸行きに、親戚一同は反対します。

それに対して晋作は、「大丈夫(ますらお)宇宙の間に生く、何ぞ筆硯につかえんや」と日記に記しています。
「この大宇宙に男として生まれたからには、机にしがみついてばかりいられるものか!」と、ずいぶん勇ましい意気込みです。

2カ月あまりの航海を経て、丙辰丸は無事に江戸に到着しますが、晋作は、そこで勝手に船を降り、それ以降の航海実習を辞めてしまいます。
その理由は、自ら「予の性もとより疎にして狂。自ら思へらく、その術の精微をきわむるあたわず」と述べています。
つまり、「おおざっぱな性格でちょっと狂い気味?だから、細かな作業には向いていない」というような意味でしょうか。船酔いがきつかったらしいという話も伝わっています。

あれほどの大言壮語をしておきながら、あまりに勝手な言い訳…といえば、そう取れなくもありません。
また、信念を貫くこと、諦めないことを旨とする晋作の生き方と、この一件は矛盾しているようにも感じられるかもしれません。

しかし、たとえ大切なことであっても、情熱がわかずに自分に向いていないと思ったこと、そしてそれが他の人にも代われることであれば、潔く諦めるということも、また晋作らしい一面でもあります。

実際、晋作は、航海術訓練を放棄して船を降りた後、北関東から信州、北陸を巡りながら、自ら「試撃行」と呼ぶ旅に出ます。
それは今風にいえば、「自分探しの旅」とでもいうようなものかもしれません。

┌────────────┤おすすめ├┐
□書籍のご紹介
 『高杉晋作の「革命日記」
  一坂太郎著
└──────────────────┘

無料マンガダウンロード
●自らの「良知」に従って行動する

1939年、長州藩の名家に生まれた高杉晋作は、ひたすら剣術修行に励み、学問にはあまり興味がなかったようです。
それが19歳の時、幼なじみの久坂玄瑞に誘われて松下村塾に入門してからは、人が変わったように学問に打ち込むようになります。
やがて晋作は、逸材を多数輩出した松下村塾の中でも、久坂玄瑞、吉田稔麿、入江九一らと共に「松下村塾四天王」と称されるまでになります。

「其(それがし)少にして無頼撃剣を好み、一箇の武人たらんと期す。年はじめて十九、先師二十一回猛士(松陰)に謁す、はじめて読書行動の理を聞く」(「投獄文記」)

晋作が吉田松陰から直接学ぶことができたのはわずか1年余りのこと。それから1年ほど後に松陰は安政の大獄で捕えられ処刑されてしまいます。
しかし松陰に対する敬愛の念は生涯にわたって消えることなく、松陰によって開かれた視野や物事の捉え方、考え方は、それ以降の晋作の人生を大きく決定づけるようになります。

その核にあるのは、自らの「良知」に従って行動すること、たとえ周囲から理解されなくとも「良知」が命ずることは断固やり遂げること、です。
「良知」とは、陽明学に基づいた概念で、貴賤に関わらず万人が心の内にもつ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であるとされています。
松陰は、この「良知」に従って、むしろ「狂人」であろうとさえしました。

ゆえに松陰も晋作も、時には、要人の暗殺を企てたり、イギリス公館を焼き討ちにしたりと、あまりに過激で決してほめられることではないような行動をとったこともありました。
その結果、松陰は処刑され、晋作も幾度となく投獄されています。
しかし、同時に2人とも、とても越えられないと思えるような「不可能の壁」を乗り越えて、偉業を成し遂げているのも事実です。

ここで私たちが学ぶべきことは、必ずしも「周囲の人との摩擦を無視しても心の命ずるままに突き進むべきだ」ということではありません。
「良知」に従って行動するといっても、もしかしたら、それは単なる独善的あるいは狂信的な思い込みかもしれません。それはそれで、とても危険なことでもあります。

ただ、その良し悪しは別として、あるいは、独善に陥る危険性も踏まえたうえで、「確信をもって諦めずにやり続ければ、到底不可能に見える壁でも乗り越えられる」ということです。
晋作の生涯は、まさにそれが事実であるということを証明しています。

┌────────────┤おすすめ├┐
□書籍のご紹介
 『高杉晋作の「革命日記」
  一坂太郎著
└──────────────────┘

無料マンガダウンロード
●不可能の壁は脳の力で打ち砕ける

幕末の志士の中でもひときわ異彩を放つ英傑・高杉晋作。
戦力不足を補うため階級にとらわれない奇兵隊を組織したり、2000人の敵にたった80数名で戦いを挑み勝利を収めたり…。
米英仏蘭の4ヵ国連合艦隊と戦い敗北した下関戦争では、長州藩代表として講和談判に臨み、そこでなんと「古事記」の講釈を始め外交交渉を成功させたりと、その逸話は長く語り継がれています。

常識的にはあり得ないと思えることだったり、到底不可能と誰もが匙を投げてしまうような状況にあっても、臆せずに立ち向かい結果的になんとかしてしまうのが晋作のすごいところです。
そこには、藩や国のために「なんとかしなければならない」「なんとかなる」という強い意志と、先入観にとらわれない柔軟な発想、考え方がありました。

どう見ても越えられない(と思える)壁を前にしたとき、多くの人は挑戦することさえせずに、諦めてしまいがちです。
なんとか工夫すれば…とか、努力を続ければ越えられるかもしれない…という解決の糸口が見え隠れしていても、それを探そうともせずに初めから可能性を否定してしまうことも少なくありません。

アクティブ・ブレイン・セミナー(ABS)では、誰もが100個の単語を記憶できるようになります。
しかしABSに参加する前は、ほとんどの人が「自分にそんなことができるわけがない」と思っています。挑戦することさえしないでしょう。
ところが実際にやってみると、その記憶スピードや量に多少の差はあっても、ほぼ例外なくできてしまうのです。

ABSにおいては記憶法の技術習得はもちろん大切ですが、それ以前に、まず「できると確信すること」「脳にできると思わせること」「できる自分をイメージすること」という陽転思考を重視しています。
「不可能の壁」の多くは、自分自身でそう思い込んで作ってしまっている――つまり自分の脳の中にある幻想であるといってもいいかもしれません。

晋作の場合、「できない」ということは、即ち「死」や「滅亡」に繋がりかねない深刻な状況に置かれていました。
そうした絶望的とも思える状況においても、彼は自由に発想し、希望を失わずに勇気をもって壁に立ち向かい乗り越えていきました。
次回からは、晋作の生き方の中に、より具体的に陽転思考を見い出していきましょう。
その晋作の志は、その後、多くの志士たちを巻き込み、時代を大きく前進させることになります。

┌────────────┤おすすめ├┐
□書籍のご紹介
 『高杉晋作の「革命日記」
  一坂太郎著
└──────────────────┘

無料マンガダウンロード