1863年、攘夷を旨とする長州藩は、馬関海峡(現在は関門海峡)を通過するアメリカ等の外国船を砲撃し海峡封鎖を実行します。
翌年には、米英仏蘭の4ヵ国連合艦隊と長州藩との間で下関戦争が勃発、圧倒的な戦力の差を前に長州藩はたった3日間で惨敗してしまいます。
その後、イギリス軍艦上で行われた講和交渉に、長州藩代表として全権を任された立場で臨んだのが高杉晋作でした。
当時、晋作は脱藩の罪で獄中の身でしたが、急きょ呼び出され、さらに藩代表としてふさわしい位置に立つため、わざわざ家老・宍戸備前の養子になり名前まで変えて交渉の場についています。
おそらくこの難局を乗り切れる人物は晋作を除いて他にいなかったのでしょう。
晋作は、藩主から拝領した重厚な正装に身を包み、毅然とした態度で席に着きます。
その晋作を見たイギリス側の通訳アーネスト・サトウは「降伏しに来たとは思えないほど傲然としていた」と述懐しています。
とはいえ、一方的に戦を仕掛けたうえに惨敗したわけですから、晋作にしても、ほとんどの条件は飲まざるを得ない状況でした。
しかし2つの点で晋作は長州藩の立場を貫き通し、妥結させることに成功しています。
1つは、300万ドルもの賠償金の請求を回避したことです。
「そもそも攘夷は天皇の勅命であり、将軍もそれを実行することを公言している。わが藩はその意に沿って行動しただけであり、賠償金を支払う義務は幕府にある」と晋作は主張します。
さらに、「この領内には、主君への忠義のために身命を捨てるのを何とも思わぬものが大勢いる」と、平然と脅しをかけます。
ようするに、どうしても賠償金を取ろうとするなら、全領民を挙げて命がけで徹底抗戦することになるだろう、ということ。
五三の桐紋入り萌黄色の直垂(ひたたれ)を身にまとい、黒の烏帽子を被るという日本古来の正装姿で、晋作は絶対の確信をもって、そう宣告します。
その晋作の強気な交渉に、連合国側は、ついに賠償金の請求先を幕府とすることを了承することになるのです。
この巨額の賠償金の責務を負わされていたら、長州藩は立ち直ることができず、その後の歴史は大きく変わっていたでしょう。
次回は、さらに驚くべき2つ目の交渉作戦について考えてみましょう。
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一坂太郎著
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