さて、
前回、前々回から続く「怒り」シリーズ
ちょっと期間が空きましたが、
今日はさらに整理ができて、自分の中にも腑に落ちてきたことがあったので、
そのエネルギーで書き上げたいなと思います。
前回記事から、僕の怒りが出てくるルーツも中学時代から書きました。
よかったら見返してみてね。
人間には「無意識のエンジン」があります。
過去にした感情の決断から自由になることができません。
感情はエネルギーにもなり、行動や選択をしていく原動力となっていきます。
それは差し詰めコンピュータウイルスにハッキングされているようなもので、
自分の意思とは基本的に無関係に
自らの「考えや感情、発する言葉や選択する行動、周りの人との関係構築の仕方」に影響を及ぼします。
前回記事で書いた僕の無意識のエンジンは「世界は裏切るものだ」
世界の存在は僕の存在を完膚なきまでに認めさせるものとしてあるということ。
怒りを原動力としながら、強烈に自らを高める方向に突き進むエンジンでした。
実は今日は人とセッションのトレーニングをしながら、
もうちょっと自分の深いところが見えました。
その結論は「どうせわかってもらえない」というもの。
自分の世界(宇宙)を僕の意識画面に投影するときに
常に結論がここからスタートしていて、その世界を生成し続けていたわけです。。
シンプルに言えば「わかってもらえないこと」を確認するために人生を送っていたわけです。
うーん。ギャグ。。
エンジンはものさしでもありますから、常にわかってもらえないものだというものさしで
人を見ていくわけです。
人の心は必ず条件づけられますから、裏切られることが確定しています。
うーん。ひどい。なんだったんだ、僕の28年間。。
ここまでわかったところで、多くのワークなどで難しいことは、
無意識のエンジンであるこのものさしを大前提に世界を立ち上げているために
この大前提自体の手放し方がわからないという問題があります。
その話はまた次回に持ち越すとして、
怒りの源泉について書きたいと思います。
このシリーズを書き始めていた当初よりも思ったより深いところに出会ってしまったため、
ちょっと解析を整理しながら書いていますが。
怒りの源泉。
それは無限の尊厳性に対する冒涜でした。
考え一個、感情一個をほどいていって、
その源泉に到達したとき、
そこには分けられない世界がありました。
分けられない無限の尊厳性。
尊厳という言葉を聞いて、
いろいろなイメージがあると思います。
尊厳死であるとか、定義もわかるようなわからないような。
厳かで尊く、侵してはならないもの。
なぜ、それを侵してはならないのか。
僕が社会に対する怒り、人に対する怒り、
それは人間はこんなもんじゃないだろ!!
という人間の中に内在する可能性からの叫びだったんだ。
と、自分の中で腑に落ちたのです。
自己承認欲求も、社会的欲求も、
安全欲求も、生理的欲求も、
その源泉にあるのは、それぞれのレベルの尊厳性の冒涜に対して発揮されるものだと解釈することができるなと感じています。
どの次元の尊厳を扱うかは個人の自由ですが、
僕にとって、たった1個の単語で、自分の人生も人の人生も社会も貫けるというのは奇跡でした。
これまで何度となく聞いたことがある言葉だったけど、明確に自分とつながる瞬間。
シンプルであり、共通であり、多様性をもてる。
僕の人生にとって、明確なテーマ、
それが「尊厳」です。
さて、それを具体的に人にも伝達するために外せない問題意識が、
誰もがこの無意識のエンジンに掴まれているということ。
誰かを一つの思想に強制することでも、ただ無秩序を許容することでも、
矛盾が生まれ、失われてしまう人間の尊厳性。
人が過去のエンジンに掴まれているとき、それは無意識に行われる可能性の消失だと考えます。
個人個人が無限の可能性と尊厳性を発揮し、安心と信頼からくる関係性から生まれる、
強烈な疎通と交流によるクリエイティブな集団。
そんな集団作り、未来作りに貢献する生き方をしていきます。
本日もお読みいただきありがとうございました。
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