『恋人たちの失われた革命』
― 明日の今ごろは ―
帰宅して、「This Time Tomorrow」を聴きながらしばらく思考を巡らせた。
最近、1960年代がブームなのだろうか。
ビートルズ好きから始まって’60年代という時代に惹かれ続けてきたわたしとしては、
今さらブームもなにもない。
ファッションとして60年代が流行るのは馬鹿馬鹿しいと思うが、
こうまで世界中で40年前を回顧されているとなると、きっと理由があるのだろう。
やっと本題に入るが、『恋人たちの失われた革命』をとうとう観てきた。
監督は『孤高』『白と黒の恋人たち』などのフィリップ・ガレル、
主演は監督の息子ルイ・ガレル。
このルイ・ガレルが、彫刻のような美貌に繊細さと頽廃を限りなく匂わせた、
かなりわたし好みの“タッジオ”的美少年であることをいちおう付け加えとく(どうでもいいってか)。
コントラストの強いモノクロ画像は美しく、
反面、麗しいルイ・ガレルやガールフレンドの顔の肌理すらくっきりと映し出す。
場面を肖像画のように静かに捉え続ける映像は、
吸い込まれそうに美しくて息がつまりそう。ユスターシュを思い出させる。
舞台はパリで五月革命のあった1968年。
世界的に反体制運動が活発になったこの時代、
若者たちはその有り余るエネルギーや熱さを体制への反発に向け、
革命の先には自由で理想的な世界があるだろうと信じていた。
仲間たちと夢と理想を語り合っていた。
この頃、若者たちの敵は共通していた。一人称は「我々」だった。
映画はごく淡々と、彼らが理想論を闘わせる場面や恋人たちの日常を写し続ける。
その中で、若者は静かに夢を語り、愛を語り、やがてアヘンのもたらす陶酔に逃げ、絶望していく。
機動隊との衝突の場面だって、火は燃え盛っているし、あちこちで怒号が飛び交っているけれど、
カメラは恐ろしいほど冷静だ。ピアノのスコアは彼らの心情を代弁するけれど、決してドラマチックじゃない。
68年、若者たちは恋人を愛するように純粋に、未来を変えられると信じていたのだ。
主人公のフランソワは革命によって現実を変えることができなかった。
仲間たちも恋人も、自分のもとを去っていった。
青春時代とは、あらゆるものは自分の手で変えられると錯覚しているくせに、
世の中に変わらぬものなど何もない、という時間そのものの残酷さにはまだ気づいていない、
そんな時代のことなのだ。
ニコの「Vegas」、そしてキンクスの「This Tine Tomorrow」は、
なんとすてきな選曲でしょう!!
青春の終焉間際の彼らが、自身の中にある深い絶望を見て見ぬふりをしている。
ポップなリズムの中にそんな諦念が伝わってくる。
ポップ=泡。ポップスターとは60年代に出来た言葉であり、傲慢な百万長者のイメージがあるけれど、
キンクスに限っては「僕らは現われては消える泡なんです」と自嘲気味に唄う感じがする。だから好きだ。
いまではどうだろう?
長々と続く不景気のせいか、無力感と閉塞感が日本全土を覆った90年代。
この時代を生きてきた若者は、革命なんて無駄なことだと生まれたときから知っている。
不満があってもゲームやケータイという自分の世界に逃げ込んだり、
刹那的な快楽や、無名の個人として誰かを誹謗中傷することや、
陰湿ないじめやら暴力やらで憂さを晴らそうとしている。
共通の敵はなくとも、個人の抱えるどろどろとした鬱屈は変わらないのだ。
情報が溢れ返り、便利になり、個人がもはや誰に会うこともなく、誰と議論を戦わすまでもなく、
表向きにはつつがなく1日を過ごせるようになった現代。
けれどそんな1日1日を積み重ねていった結果、人々は幸福になったのだろうか。
40年前に若者だった彼らが、革命を成し遂げられなかったこと。
その結果が今のこの状況なんだろうか。
フィリップ・ガレルは息子ルイ・ガレルに託し、この時代を描くことで、
絶望することすら忘れてお手軽で皮相的な現代を生きる我々に
40年前の自身の悔恨と、諦めきれぬ思いを伝えているのかもしれない。
