アッシェンバッハの彼岸から -90ページ目

『ミナ』


Mina Tannenbaum   (1993=仏)




― なにが残酷かなんてわからない ―



そういえば女の子同士の友情というのは、どこか屈折していて複雑なものだ。


3日違いで生まれたエテルとミナは、ともにユダヤ人。

コンプレックスだらけの冴えない少女時代を過ごしたのち、美しく成長する。
野心と自己主張が強く、また女を武器にすることも厭わないエテルはジャーナリストの道へ。
また、不器用だけど繊細で、自分の感覚に忠実に生きるミナは画家を志す。
巧く時流に乗ることも、女として世の中の器用に泳ぎ渡って行く術も身につけたエテルと、

常に自分の内面と向き合い、表現することをつづけてきたミナ。


はたから見たら笑ってしまうようなことも、当人たちにとっては真剣そのもの。
そんな細かな出来事や科白のひとつひとつが、少女の日常を鮮やかにしている。


おとなになれば、友人の仕合せは自分の仕合せでもあると言い切れる。すくなくともわたしは。

それはどうしてかといえば、いくらダメなやつだろうと自分は自分でしかないし、

いくら親しかろうと自分と他者は別物だ、ということがわかってるからだ。
だけど、十代の頃をおもいだす。

あの頃、女の子たちはきっと自分と相手との境界線とか差異とゆう、

当たり前のことをを認めることができない。

依存しあったり、そうかとおもうと傷つけたり。
だから、彼女たちの友情のなかには多分に嫉妬や見栄の張り合いや、

時には意地悪みたいなものが含まれている。

相手のコンプレックスを、さも自分のコンプレックスであるかのように一緒に嘆き悲しみ、

その内側ではほくそ笑んでいたりする。

こうゆう残酷なのが、少女同士とゆうものだ。

なぜって少女はみんな、自分が何者だかわかっていないのだから。


だから、この映画のリアルさは、観ているあいだじゅうわたしの首筋の辺りに、

照れくささというか居心地の悪さのようなものをまとわりつかせた。


少女趣味炸裂のの前半は’60~’70年代のパリの雰囲気や

フレンチヒッピーともいうべきファッション(ああ、わたしの大好物とゆうだけなのだけれど)。

ウデイ・アレンふうのちょっとふざけた演出なんかも、いかにもわたし好み。
繊細なミナを演じるロマーヌ・ボーランジェが死ぬほど可愛い。

生まれ変わったらこの人になりたい。なりたいいいいい。


しかし後半は一転、緩やかに絶望にむかって加速する。
わたしもミナみたいに置いていかれるんだろうか。
ダリダの「18歳の彼」がせつなすぎる。
「そういや私は彼の倍の年齢、彼の去る姿を見ずにマスカラをつけた」
たしかそんな歌。

ポップ・スターだったけれど、素顔の彼女は過去から前へ進めなかった。

変節したものとできなかったもの。

むかしわたしも「パローレ、パローレ」と唄う彼女の声と、

アラン・ドロンの囁きにドキドキした。いま聴いてもドキドキする。

あれ、わたしって成長してない?おまけにまた話、逸れてるし。


けれどわたしは自分が18歳の痛みを今や、感じることができないことに気がついた。
記憶はあたかも写真を見るようで、

思い出せるけれどそこに痛みはないのだった。