アッシェンバッハの彼岸から -87ページ目

夜10時過ぎの日比谷の街を歩く人の姿は、たしかにそう多くはない。

先日、母の日に合わせて公開予定だとかいう、

さだまさし原作のいわゆるお涙頂戴映画を観てきた帰り道、

日比谷をひとりで歩いていて、自分のブーツの底が立てる音の大きさにびっくりした。

立ち止まって何度も靴の裏を見てみたけど、今朝と何も変わらない。

そこでハタと気づいたのです。

いかに自分が日ごろ、無意識のうちにいろんな音を「聞かないように」しているか、
いろんなものを「見ないように」しているかということに。


お涙頂戴映画は、キャラクタが画面に登場した瞬間にその後の展開が全て読めるようなものだったが、

わたしはこの映画の、おそらくは雇われたのだろうが、犬童一心とゆう監督の

音とゆうかガヤのつかいかた、それと光のつかいかたが、とてもすきなのだ。

映画を観ているあいだじゅう、

退屈に感じる人もいるんだろなとおもわせるロングショットの背景の、

田舎町の、ざわめきともとれないような人々の声だとか、

例えば病院の何かのモーター音だとか、

隣のテーブルの会話だとか、不要とおもわれるようなガヤが、故意にだろうか、

つねに耳の底に流れている。

なにかに反射してゆれる光が、画面のすみを横切ったりする。

それがときどき、ふっと何も聞こえなくなったりする。光が一瞬、たちどまる。

まるで自分が、街をあるいていてとつぜん、思考の溝にスポッとはまってしまったときみたいに。

あるいは、あまりにもショックが大きすぎて、次の思考に移れないでいるときの間(マ)みたいに。


わたしたちの耳は日ごろ、いかにいろんな音にさらされてることだろう。

わたしたちは、聞こえないのでなく、聞かないのだ。

見えないのでなく、見ないのだ。自分が見たいとおもうものしか。

世界には、刺激が溢れているから。そうでもしないとあふれかえってしまう。

だから、いつもいつも、耳に蓋をして、目隠しをして歩いてるのだ。

そうおもったら、人気のない夜のビル街で、

わたしはただひとり、やかましいほどの静寂につつまれたのです。