アッシェンバッハの彼岸から -85ページ目

『偶然』


Przypadek  (1981 ポーランド)




- 我々は神じゃないから、済んでから呆然とするしかない -



世のなかは、目に見えるものだけで構成されてるわけじゃなくて、

目に見えるものの裏側にある、いくつもの事柄が、

たまたまこういう形になって目に見えていて、こういう形になってわたしたちに影響している。

クシシュトフ・キェシロフスキの作品を観るたび、

つい目先のことにばかり囚われている自分に気づいて愕然となる。


『偶然』は、映画としては荒削りで、画面も『トリコロール』や『ふたりのベロニカ』などに比べれば、

とくに凝ったところも、目を見張る美しい映像などもないけれど、

それだけに小細工なしで胸にひびくものがある。

そして、小さなエピソードがリンクして、あの衝撃的なラストに収斂するさまは見事だ。

共産党と反社会活動など、わたしには馴染みのない問題も絡んでくるが、

それは、抗えない大きなちから(ここでは社会、ひいては運命)に対する

「自分」や「自由」とゆうものを端的に表すためのものであるとおもう。

1970年代後半、社会主義のポーランドにおいて、

個々人の自由がいかに迫害されてきたかとゆうことを思い知らされる。

だって、いまこの日本をのほほんと生きてるわたしのような人間が、

電車に乗れたか乗れなかったか、とゆうほんの小さな差異で、

思想=その後の生活が180度異なる未来なんてありうる?

せいぜい、これを下敷きにしたといわれる『スライディング・ドア』みたく、

出逢った男が違った、くらいの未来しか思い描けないことだろう(それだって充分おもしろいけど)。


あー、話がまた逸れた。


自分のことは全部自分で決める。

自分らしく自分のために生きたい。

自由に生きたい。

わたしはひとりでちゃんと生きている。

などなど。

「自由」とゆう言葉を、身勝手に生きたいがための切り札のように誤用したり、

自分は自分は、とやたらと自己主張したがる人たちが多い、ようにおもう。

「ゆとり教育」とか「自己推薦入試」なんてのも、おなじようなところに根差してるんじゃないのかな。

いずれもある意味では正しいのかもしれない。

けれど、いまの自分が此処にあるのは、ほかでもなくさまざまな出会いがあってのことだ。

キェシロフスキ監督は、「運命」を描いてきた監督だと云われるけれど、

「運命」とは、言い換えれば「出会い」なのではないだろうか。

わたしがいまここに生きていて、こうゆう仕事をしているのだって、すべては出会いなのだ。

その出会いとゆうのは、もとを辿ればどんどんちがう出会いにつながっていく。

その出会いのうちのひとつでも、ほんのちょっとのボタンの掛け違いがあれば、

いまわたしはここには居ない。

そもそも人が生を受けるのだって、ちょっとした「偶然」によるものだ。

この映画には幾度か「君は運がいい」だとか、「ツイてる」だとか、

「出会いが人生を決める」とゆう科白がでてくる。

「偶然」といえばいかにも運任せのようにおもうけれど、

それはミラクルでもなんでもなくて、

数え切れないほど小さな出来事の積み重ねが、いまをかたちづくってるのだ。

だから、わたしたちは運命を選ぶことなんてできない。

あのときああしてればこうはならなかった、ああしておけばよかった、

ああだったらどうなってたんだろう?

神様は全て知ってる、のかな?無神論者だからわからないけど。

でも、わたしたち人間は先のことを知ることも、知ってて選ぶこともできない。

だけど、そのほうがおもしろいのかもしれない。

すくなくとも、そのほうがまだ絶望せずに生きていける。

キェシロフスキは、この映画のラスト(と、最初)で人間の決定的な無力さを提示する。

唖然としながら、なす術もなくいつの間にかエンドクレジットを見させられているわたしたち観客。

人生ってきっとこんなもの。