アッシェンバッハの彼岸から -84ページ目

Walk on the Wild Side

Lou Reed
Transformer



桜の季節は、こわくてたまらない。

空とおなじ、霧のようないろの花びらが散るのを見上げていたら、

Walk on the Wild Sideが流れ出した。

桜が枝にぽっと集まって咲いてるさまは、この唄のベースの音に似ている。

霞のように漂っているところは、スネヤの音に似ている。

ルー・リードの詩集に頭を突っ込んでたのは、何年前の春かな、

もう5~6年になるんじゃないかな。あれは、昔のボーイフレンドがプレゼントしてくれたのだった。

緑の木々のあつまりのなかに浮いてる淡いピンクいろがくすんでいる。

この頃になると、誰も桜に見向きもしないんだなあ。


まいとしわたしは、桜の季節になるとそわそわして落ち着かない。

わたしにとって、桜を見るたび心浮き立つ時代は終わってしまったのです。


去年もこの季節におなじようなことを書いていたけれど、わたしは、満開の桜がこわいのだ。

特に夜、頭上の花々が、街のあらゆる騒音を呑み込んで、

森閑と屹立してるその下を通るとき、

背筋がつめたくなって、わたしは急ぎ足で通りすぎてしまいたくなる。

あんなにたくさん花をつけているにもかかわらず、枝はまったくたわむことがない。

まったく重みのない花々は、どうしてそよともしないのか。

まるで、現実にそこには存在しないみたいだ。

宴会が終わって提灯の明かりが消されたあとにも、

昼間とおなじように花をいっぱいつけて立っている、その騒々しいような静寂がこわい。

桜の樹はきっと、足元に死んだものをいっぱい隠してる。

もう何年も、わたしはこの季節になるとそうおもう。


桜は咲いたそばから散り始める。

そのことはわたしをいっそう、不安にさせるのだ。

桜は確実に毎年同じ頃に花を咲かせて、まぼろしのようにふわふわと空を覆い、

音も立てずに消えていく。

時間は流れ続け、世界にはおびただしい記憶が降り積もる。

きっとそれらは、桜の樹の下に重なり合っている。目に見えないだけで、確実に。

それが証拠に、去年のわたしと今年のわたしは確実に違う。

生きているかぎり、わたしはきっとあと何度もこうして、咲いたそばから散りゆく桜を見ることだろう。

喜ぶべきことなのかもしれない。ああ、この1年もつつがなく過ごせたといって。

だけどわたしは、やっぱり怖いのだ。

年をとるのが怖いとか、そうゆう単純なことではなく。

かたちあるものの裏側に確実にひそむ、目に見えないちからとゆうものの、

想像もつかない大きさ、そのことを日々楽しみながら、

それでもなお、この足の下に累々と重なるものの存在に、ゾッとせずにいられないのです。