『灰とダイヤモンド』
もうすぐマロニエの花時。それでわたしは、この映画をおもいだすのです。
序盤、主人公のマチェクがホテルの老フロント係に話しかけているシーンで、
そこで彼がマロニエの話しをするのが、何でもないシーンのようなのだけれど、とてもすきなのだ。
絶望しきった表情の彼が、ワルシャワの話しをするときだけ、うれしそうにしていて、
そのことがまた、後から思い起こすと悲しくてしかたないから。
逆さ吊りのキリストにむかっていう言葉は、聞くたびに胸がつまる。
「あのね、変えてみたいものがある。生き方を変えたい。うまく言えないけど」
唐突で奇妙な馬。背中に映る影。黒眼鏡。グラスの酒に火を点していくところ。チブルスキの横顔。
そして、絶対に忘れられない壮絶なラストシーン。まっしろのシーツ。
考えたら、ああ、死ぬほど好きな場面だらけの映画だなあ。
なにか愛するものだとか大事にしたいものがみつかって、
自分はこうして生きていきたい、そうおもうとき、
世界がぱあっとあかるく開けるように見える気がする。
その瞬間だけは、わたしは世界に愛されている、と感じることができる、のじゃないかしら。誰でも。
けれど次の瞬間に、自分を取り巻く世界が、現在も未来も閉ざされてしまったとしたら。
これまで生きてきた土台をある日とつぜんすくわれたら、そのよるべなさってどれほどのものなんだろう?
輝けるダイヤモンドを内に秘めながら、
その腕に塵芥をかき抱いて悶死してった若者たちがどれだけいただろう。
横たわる骸、その男にも苦悩があった。銃声と花火の音、骸の浮いた水たまりに映る花火。
背中や顔にくっきりと深く写りこんで、人物に合わせてゆらゆらと形を変える影は、
ひとりの人間の肉の重みと、対照的に、常にうごめいて変わっていく世界そのままだ。
「祖国に対する報われない愛のしるし」といって黒眼鏡を外さないチブルスキの、
真顔と時折見せる笑顔とのギャップがものすごい。
世の中におもしろいもの、期待すべきものなんて何もないってわかりきっていて、
諦念と絶望と孤独が深く滲んだ表情が、恋人の前に出ると、初めて笑った子供みたいになる。
松明のごと汝の身より火花の飛び散るとき
汝知らずや、我が身を焦がしつつ、自由の身となれるを
持てるものは、失われるべき定めにあるを
残るはただ灰と、嵐のごとく深淵に落ちゆく混迷のみなるを
永遠の勝利の暁に、 灰の底深く、燦然たるダイヤモンドの残らんことを
廃墟の教会の墓碑に刻まれていた詩。
この詩が出てくるのが、信じられないほど美しい場面なのだ。
永遠の勝利。何だろう?勝利って。誰かに勝つことなんて、虚しいものだ。
この詩のいうように、勝ったって負けたって、残るのは灰と、混迷だけ。
ダイヤモンドはきっと、勝ち負けやら戦争やらの灰の底にある、
人間にとっての普遍的なものを表しているのだ、とわたしはおもっている。
あらゆる人間にとっての普遍的なもの。
日常とゆう夥しい灰の底にきらめくダイヤモンドのようなもの。
それに出会いたくて、わたしはきょうも映画を観る。
