『パリ・テキサス』
先週1週間、早稲田松竹で『パリ・テキサス』と『ベルリン・天使の詩』が2本立てでやっていたのです。
特に昨年BOW映画祭で見逃した『パリ~』は、どうあってもスクリーンで観たい。
とゆうことで昨日、外出先の紀尾井町で仕事を終えたわたしは、
「すいません社には戻りません」と編集者に言い置いてさっさと帰宅し、
スニーカーに履き替え、愛車ロドリゲスを開演間際の早稲田松竹に乗りつけた。
驚くことに満席である。やや前寄りであるものの、なんとか席を確保。
寝不足だし、1週間の疲れがたまってるし、もう何度も観てる映画だし、寝てしまうかもな。
なんて心配は杞憂に終わり、2時間半があっという間だった。
砂漠にジャーーンと鳴り響くギターの音。
パリはパリでも、ヨーロッパの憧れの都ではなく、テキサスのパリ。
わたしは映画を観るとき、あまり難しいことを考えず、
あたまで理解するんでなく、直に感覚に響くものこそすばらしいとおもっているのだが、
ストーリーについて言うならばこの映画は、
人間の愛とエゴにまつわるコミュニケーションの映画だとおもっている。
乾いた砂漠にオアシスがあるように、テキサスにも「パリ」があった。
家族を含む人間関係には、思いはあっても上手く伝わらないもどかしさがある。
世界にはテキサスやパリやヒューストンのように、いろいろな都市がある。
トラヴィスとジェーンが出会う、奇妙なガラス越しの空間。
カメラは、こちらからは見えてあちらからは見えないガラス越しの会話で、
トラヴィスは声だけ、顔は全く映さず、ジェーンの表情だけをずうっと映し続ける。
愛しかたがわからなくて、4年間ずっと一方通行だったふたり。
ここに出てくる人たちは、みな愛とエゴに満ちている。
弟のウォルト夫妻の優しさにも愛とエゴが同居している。
トラヴィスの旅に出て、アンを騙すハンターにだって子供ならではのエゴがある。
大作映画の登場人物のように、完全な善人や悪人なんて存在しない。
あらゆる人間関係は、愛情とエゴの均衡の上にかろうじて成り立っているのだ。
そして、コミュニケーションとゆうのはある意味、一方通行でしかない。
誰しも、自分の側から自分のやりかたで世界を見ることしかできないのだから。
あのガラス越しの2人のように。
だからこそ世界は可笑しくて悲しくてすばらしいのだ。
テキサスのなかにパリがあるように。
