アッシェンバッハの彼岸から -66ページ目

『カップルズ』


カップルズ  1996 台湾



少年たちの映画で、同時に当時の混迷する台北とゆう街そのものを描いた映画。

シンプルな物語のなかに、”半分異邦人”、楊徳昌監督ならではの視点がある。

経済成長目覚しい台北で、4人の少年たちは今日も徒党を組んで、

きょうもおとなたちからお金を巻き上げ、女の子をものにしようと考えている。

同時に街には、「未開拓地」台北にやってきた西洋人たちがいる。


少年の憎悪ややるせなさは、有り余る若さと無知によって暴力へとかたちをかえる。

17歳の少年レッドフィッシュの言い分はこうだ。

「世の中にはバカと悪党しかいない」

「人々はみんな、迷っているんだ。何をすべきか示してやればいい」

これはかつての父のことばらしい。


彼ら(そして彼らを蹂躙する大人たち)は奇妙な連帯で結ばれている。

自称「悪党」である少年たちにとっての「悪」とは何なのだろう。

それは単に倫理だとか感傷というものの反対に位置するもの、というだけなのかもしれない。

「おれたちはそこらのバカとはちがう」

自分を世界の中心みたいにおもってる少年たちは(台湾?)おとなたちに(資本主義?)搾取されるのか。


レッドフィッシュの前にひさしぶりに現れた父は、悟りきったような顔で日なたに横たわり、

レコード聴きながら、「もーいいよ、お金とかそういうのは。疲れたよ」

みたいなことをつぶやくんである。

畏怖であり憎悪の対象だった男が最期に残したものを見て、少年は暴走する。


モノが溢れ、人々の欲望が渦巻く混沌とした世界で、人々はみんな迷っている。

彼らが刺激をもとめるのは、豊かな物質をほしがるのは、

暇だからじゃなくて、自分がなにがほしいのかわからないからだ。

だから人々はテレビ画面に釘づけになり、広告や雑誌のいうことを真に受ける。

そして近視眼的に、暴力的なほどひたすらに、ただ1点にむかって突き進もうとする。


ラスト、少年のひとり綸綸のもとに、少女が戻ってくる。

希望のあるラストに、監督のおもいがみえる。

数人の外国人とともにアパートで暮らすこの少年は、監督自身の分身みたい?

だけど家に星条旗とか飾ってあって、結局アメリカだとか資本主義にあこがれてるようだ。

こうやって内側からも、資本主義てのは人間性を壊していくわけだ…。


11年まえ、この映画をいっしょに観た友人は云っていた。

「なつかしい。あのころのわたしは映画少女で、つまらない日常から離れて、

映画の中の人生をいきることがすべてだった。

あのころの自分だったら、今の私みたいに凡人化する自分に

どーしようもないあせりを感じたんだろな。いまは映画を観るひまもないけど、それでもいいの」

小さな子供を抱く彼女のことばには、迷いがない。

凡人として生きることこそが困難で、すばらしいことだとおもう。

ふつうのしあわせっていうのは、なかなか手に入りにくいものだ。

それをわざわざ否定したがるのは、迷っているからだ。

自分がいかなるものかわからず、いつも退屈で不満だから、

ただ非凡であることにあこがれながら迷走しているのだ。

それは、大音量映画を好むのと似ている。

人々を惑わせて、その迷いにつけこむことこそが、資本主義社会を勝ち抜くために必要なこと。

だからひとびとはいつまでも迷い続ける。なぜなら社会がそうさせているから。


この映画を観た翌年、わたしは台北を旅行した。

街は映画そのままに混沌として活気にあふれ、

大きなデパートと屋台が混在し、通りを何台ものタクシーが煤煙を上げて走っていた。

あれから10年、いまの台湾は混迷から抜け出せたのだろうか。

日本と日本に生きる人々は、いつまでも迷いつづけている。