『カップルズ』
少年たちの映画で、同時に当時の混迷する台北とゆう街そのものを描いた映画。
シンプルな物語のなかに、”半分異邦人”、楊徳昌監督ならではの視点がある。
経済成長目覚しい台北で、4人の少年たちは今日も徒党を組んで、
きょうもおとなたちからお金を巻き上げ、女の子をものにしようと考えている。
同時に街には、「未開拓地」台北にやってきた西洋人たちがいる。
少年の憎悪ややるせなさは、有り余る若さと無知によって暴力へとかたちをかえる。
17歳の少年レッドフィッシュの言い分はこうだ。
「世の中にはバカと悪党しかいない」
「人々はみんな、迷っているんだ。何をすべきか示してやればいい」
これはかつての父のことばらしい。
彼ら(そして彼らを蹂躙する大人たち)は奇妙な連帯で結ばれている。
自称「悪党」である少年たちにとっての「悪」とは何なのだろう。
それは単に倫理だとか感傷というものの反対に位置するもの、というだけなのかもしれない。
「おれたちはそこらのバカとはちがう」
自分を世界の中心みたいにおもってる少年たちは(台湾?)おとなたちに(資本主義?)搾取されるのか。
レッドフィッシュの前にひさしぶりに現れた父は、悟りきったような顔で日なたに横たわり、
レコード聴きながら、「もーいいよ、お金とかそういうのは。疲れたよ」
みたいなことをつぶやくんである。
畏怖であり憎悪の対象だった男が最期に残したものを見て、少年は暴走する。
モノが溢れ、人々の欲望が渦巻く混沌とした世界で、人々はみんな迷っている。
彼らが刺激をもとめるのは、豊かな物質をほしがるのは、
暇だからじゃなくて、自分がなにがほしいのかわからないからだ。
だから人々はテレビ画面に釘づけになり、広告や雑誌のいうことを真に受ける。
そして近視眼的に、暴力的なほどひたすらに、ただ1点にむかって突き進もうとする。
ラスト、少年のひとり綸綸のもとに、少女が戻ってくる。
希望のあるラストに、監督のおもいがみえる。
数人の外国人とともにアパートで暮らすこの少年は、監督自身の分身みたい?
だけど家に星条旗とか飾ってあって、結局アメリカだとか資本主義にあこがれてるようだ。
こうやって内側からも、資本主義てのは人間性を壊していくわけだ…。
11年まえ、この映画をいっしょに観た友人は云っていた。
「なつかしい。あのころのわたしは映画少女で、つまらない日常から離れて、
映画の中の人生をいきることがすべてだった。
あのころの自分だったら、今の私みたいに凡人化する自分に
どーしようもないあせりを感じたんだろな。いまは映画を観るひまもないけど、それでもいいの」
小さな子供を抱く彼女のことばには、迷いがない。
凡人として生きることこそが困難で、すばらしいことだとおもう。
ふつうのしあわせっていうのは、なかなか手に入りにくいものだ。
それをわざわざ否定したがるのは、迷っているからだ。
自分がいかなるものかわからず、いつも退屈で不満だから、
ただ非凡であることにあこがれながら迷走しているのだ。
それは、大音量映画を好むのと似ている。
人々を惑わせて、その迷いにつけこむことこそが、資本主義社会を勝ち抜くために必要なこと。
だからひとびとはいつまでも迷い続ける。なぜなら社会がそうさせているから。
この映画を観た翌年、わたしは台北を旅行した。
街は映画そのままに混沌として活気にあふれ、
大きなデパートと屋台が混在し、通りを何台ものタクシーが煤煙を上げて走っていた。
あれから10年、いまの台湾は混迷から抜け出せたのだろうか。
日本と日本に生きる人々は、いつまでも迷いつづけている。
