坂の途中の履物屋さん
ことしはあたらしい下駄を買おうって前から話していたのです。
坂道がおおくて、クルマや自転車でなく、徒歩サイズの街に越してきたから。
それで、近所に何軒かあるうちの、いちばん旧い「履物屋さん」に行ってみることに。
広い店内にいくつも置かれたガラスケースには、下駄や雪駄や草履が、
床から天井までずらっと並んでいて、どれを選んだらいいのかまったくわからない。
キシダと2人、右往左往していると、店主らしき和服姿の上品な男性が現れて、
ド素人の若造2人組のわたしたちに、丁寧な口調でアドバイスをして下さる。
「あのー。男女お揃いの下駄ってあるんですか」
「いえ、男性ものと女性ものは、もとより鼻緒の色柄がまったく違いますから、
揃えるならば柄の種類ということになりますかね。江戸小紋で揃えるとか」
「あらっ、おなじに見えて、いろんな幅の下駄がある…」
「そうなのです。お好みや足の形に合わせてお好きなものを選んで頂ければとおもいます。
お客さん(わたしのこと)の足には、幅の狭いものがお似合いのようですね」
「うわー、柄以外は同じに見えるのに、値段がピンキリ!どうして?」
「そちらの列は、台はみな同じですが、鼻緒の素材の種類が違うのです。
これは印伝と言いまして、布ではなく鹿の革に漆で装飾をほどこしたもので…」
「エエ!これ革なんですか!」
「下駄は雨の日に履いてもいいんですか?」
「もちろんですよ。草履は濡れたら痛んでしまうのですが、下駄は大丈夫です。
濡れたら陰干しすればよいのです」
「女性用は黒塗りの下駄があるのに、男性用はないんですか」
「そうですね…ええ…男性が黒塗りの下駄を履くのは…一般的では…ないですね」
…店主さんがことばを濁す、その「一般的ではない」って、いったいどんな?!
「これ、ちょっと踵がはみ出しちゃうな…。大きいサイズのほうがいいんでしょうか」
「いえいえ、お好みにもよりますが、下駄の場合、踵がすこし出るくらいのほうが粋なんです」
「そうなんですか?!」
などなど。素人の我々には目から鱗のお話ばかり。楽しくてしかたがない。
おまけに、上等の下駄とゆうのは、とんでもなく足に気持ちよいのだ。
革靴だのサンダルだの、きらきらしたミュールだのと違い、
足の裏も、ぜんぶの指も、散歩したくてたまらないみたいによろこんでいる。
まずは靖国神社のみたままつりに、これ履いて歩いてゆこう。
さんざん悩んで履き散らした結果、白木で二枚歯、とゆうところをお揃いにする。
店主さんが裏に飾り金具をつけて、鼻緒の部分を和紙で丁寧にくるみ、
美しい箱に入れて下さっているあいだに話しかける。
「そういえば、こちらのお店から坂をすこし下ったあたり、何軒かのお店が閉店していますね」
「ええ。再開発で、複合ビルができるそうなんですよ。
いま閉店しているお店は、なくなってしまうわけではなく、その新しいビルに入るんだそうです」
「わたしはあそこにあった巴有吾有という喫茶店が大好きだったのです」
「巴有吾有さんだけは、本当に閉店してしまいました。
あの木造の雰囲気は、新しいビルの中では出せないということなんです」
巴有吾有は東京じゅうでいちばんすきな喫茶店だった。
本当に残念なことだ。
どうしてなんでもかんでも次々にあたらしくするんだろ。
おしゃれより、あたらしいより、便利より、心地のよいものがたくさんあるではないか。
「鼻緒が痛んだり切れたら、お取替えできますからね」
店主さんが綺麗な紙袋を差し出してくれる。
「ほんとに駄目になるまで、大事に履こうね」
話しながら坂を上る。雨がしだいに強くなってきた。
