アッシェンバッハの彼岸から -62ページ目

ノラのマカロン


マカロン




アンチ・セレブというか単に貧乏のヒガミとも云うべきか、ルサンチマンなわたしは日ごろからやれグルメだパティシエだ、六本木ヒルズやらミッドタウンに行列の菓子屋があるだ何だ、星いくつのレストランだ、そんな話にはまったく興味がない。食えれば何でもいいとまでは云わないが、ごはんなんて家でつくって食べるのがいちばん美味しくて幸せに決まっている。とおもっている。

まー要するに単になんとか星レストランに行くだけのお金がないからなんだけど。


だったんだけど、わたしも女の子だったのね。

友人から、死ぬほどおしゃれで高級な箱にずらっと12個も並んだ色とりどりのマカロンをいただいたときは、目がきらきらしてしまった。それも、セレブ御用達フランス菓子屋の。

おまけにまー、なんておいしいのかしら。

フランボワーズ、キャラメル、カフェ、ヴァニラ、レモンって聞いてるだけで夢のよう。

マカロンて、そもそも食べる前から幸せじゃないか。いろんないろがあって、ふしぎなまんまるな格好してて。持ってみると軽くてすぐにつぶれちゃいそうで、口にいれるとあっというまに溶けちゃう儚さもいい。


マカロンを手に、ためつすがめつしてて思い浮かんだのが、

イプセンの戯曲『人形の家』の冒頭である。

はっきりと覚えていないが、かわいらしい専業主婦のノラが子供の世話をしながら、袋のなかの「マクロン」をいくつか口にいれる、というくだりがある。

それでそのマクロンを、「この無駄遣いは夫には内緒♪」なんて鼻歌交じりに云ってるのだ確か。

「人形の家」といえば、婦人解放運動に影響を与えただとか、そんなふうに云われている。


弁護士の夫とかわいい子どもとともに暮らす主婦のノラ。

途中ちょっとしたいざこざがあってそれが無事に解決する。のだけどそこでノラは気づくのだ。

「あたしって人形みたい。子どもの頃はパパのお人形で、今は夫にとっての人形。

もうやだ。だいたいね、あたしがこんな人形みたいになったのはパパとあなたのせいよ!」

なんつって夫と子どもを置いて家を出てっちゃう、とゆう話。

いまとは時代背景も違うから、当時はさぞかしセンセーショナルだったのでしょうね。

とはいえ、どうなのこの嫁。

だいたい、そうゆう妻になったのは自分がそれまで「人形」であることに些かの疑問も抱けなかったおバカさんだったせいではないか。それを小さな子どもを3人も抱える段階になって、今さら全責任を放棄してとつぜん家を出てくとゆうのはどうなのだ。

だったら始めから夫の言いなりのバカ妻なぞにならなければいいのだ。外で仕事をするのが難しいのならば、なんか生産的な息抜きの方法でも考えるとかさ。家にこもって家事子育てっつうルーチンワークに追われるのが不満ならば、社会問題について真剣に考えたり本を読み漁ったりして世界の色を内側から変えてみるとかさ。

だいたい突然の家出は「自由」なの?単なる身勝手と「自由」を履き違えているにもほどがある。

そもそも「自由」って相対的なものだ。「不自由」があるからこそ自由があるんだ。


今じゃこれが書かれた時代ほど女性の地位が低いとゆうこともない。

映画を見てたって、強い女にだらしない男、とゆう組み合わせが流行なのかなとおもうほど。

それなのに、朝の遅い時間のニュース番組はたいていがワイドショーみたいなもので、行列ランチだの、高級スイーツなんかの情報なんかを、それもおなじ話題を延々十数分もやってるの。

あの時間、働く人の多くは家を出てるでしょうから、奥様向けの番組とゆうことになる。見るたびに、世の中の奥さんたちってどんだけバカにされてるんだろ、と腹が立つ。

女たちが思考停止してるほうが、男性たちにとってはやりやすいとゆうことなんだよねきっとこれって。

その結果、多くの奥さんはストレス抱えてて、旦那さんに偉そうに振る舞い、時には当り散らす。

わたしは、世の専業主婦と呼ばれる人たちを卑下するつもりは微塵もない。「あたしはそうではないわ」などと個性派ぶるつもりもない。そんなふうに優越感に浸ってるやつらに限って、ろくな社会貢献もしてないし脳みそのレベルはノラ以下の低能だと知っている。

そうでなく、テレビなんか見て流行スポットに出掛ける暇があるのなら、えんえんと文句を垂れたり、他人の悪口なんか言い合う前に、自己を確立する努力をすべきではないだろうか。

そんなことする暇ないのが、妻であり母とゆうものなんだろか。


そうじゃなくて、だったらわたしには、母親になるなぞ一生無理な難題だ、とおもうのだ。

周囲の友人たちの中に、出産後に職場復帰した者はひとりもいないのだが、それは子育てが大変で仕事と両立できない、とゆう否定的な理由ばかりではない。

子どものそばにいるのが幸せだから(あるいは子どものためだから)と皆、口を揃えて云う。

わたしは果たしてそんなふうに思えるだろうか。

わたしは甘ちゃんでピーターパンで煩悩具足の凡夫で、そのうえ強迫神経症気味なのであれこれが不安なのだ。肝っ玉が据わってないの。そのうえ、何をするにもモタモタと要領の悪い人間なのだ。

そんなわたしは、いつしかノラのようにぜんぶを放棄してしまいたくなるんじゃないだろうか。

午前中のつまらないワイドショーを見ていても、新聞を読んでいても、世の中「ノラ」たちがいっぱいだ。

皆、それぞれに不満を抱えているけれど、特に目標もなければ、努力もしていない。

メディアによりおしなべて低能にさせられているし。

「人形の家」のノラは、家を出たあとどうやって食べていったのだろ。

せいぜい、街角に立つ娼婦にでもなるしか道はなかったんじゃないだろか。


マカロンが食べられるうちはいい。そしてそれで満足しているうちはいいのだ。

ちいさくてまるくて軽くて美しくて、儚いお菓子。

おなじようにわたしも、家のなかも、とてもちいさい。

そして、あらゆるものは儚くて、常に変化しつづけている。

かんたんに手に入るお楽しみなんて、どれも刹那的なものばかりだ。

わたしはノラにはなりたくない。

マカロンというお菓子は、夢のよう。夢のようにあっというまに消えてなくなる。