勅使河原宏展で埼玉へ
郊外あるいは地方の美術館がすきだ。
都心の大きな美術館はたいてい、行くたびにぐったり疲れて帰ることになる。
作品と対面するための静けさも空気もそこにはなく、埃っぽさも人いきれの多さも雑踏そのもの。
何十人もの後頭部ばかりを見させられ、途中であきらめて、
目録を買って喫茶店に寄って帰ることになる。
そこへいくと郊外や地方にある美術館はいつだってきちがいじみた混雑になることはなく、
そもそも美術館の外をとりまく水や緑のなかを歩いているだけで、
わたしなんかはすでに半分くらいは満足してしまうのだ。
そしてかならず、出不精は莫迦だな損だなとつぶやきながら帰ることになる。
前置きがまったく長くなったけれど、埼玉県立近代美術館。
北浦和、という駅に生まれて初めて降り立つと、正面に緑深い公園が見えた。
その中に目的の美術館があるらしい。
勅使河原宏の初の回顧展が催されるというので、
重い腰を上げて出掛けてみたのだ。行けば、ぜったいに楽しいに決まっているし。
チケットを買って、いつものように鞄を預けようとコインロッカーに行くと、
ロッカーのひとつに、赤いなにかが明滅している。
なんだこれは。と覗き込むと、たくさんのデジタルカウンターが、
てんでばらばらの速度で、てんでばらばらの数字を刻んでいるのであった。
ふーん。学校とかも、こういうふうだったらよかったのにな、と漠然とおもう。
そういえば、けやき坂でも見た。最近人気の宮島達男氏の作品。
埼玉県立近代美術館は、常設展示もなかなか充実していた。
そして本当に幸福なことに、ユトリロやピサロや佐伯祐三や藤田と、
一対一でむかいあうことができます!
勅使河原宏は、有名ないけばなの家元でありながら、
いけばな以外にもさまざまな芸術活動に才能を発揮した人、らしい。
けれど、わたしにとって彼はなんといっても映画監督という認識。
それというのも、60年代の彼の、阿部公房原作の作品の中でとりわけ『他人の顔 』、
『砂の女』の2作品が得難いほどの印象をわたしに与えたから。
特に『他人の顔』の面白さといったら、ちょっとやそっとじゃ語りつくせません。
勅使河原本人以外にも磯崎新、三木富雄による美術は特に印象深く、武満徹の(以下略)。
あの映画を観たあとは、なんだかしばらくそのことばかり考えてたなあ。
いま、仕事で週に何本もの映画を観るけれど、あんなに印象的で衝撃的で、
しばらくわたしの頭を夢中にし続ける作品にはほぼまったく出会えていない。
その勅使河原宏の回顧展。
いけばなに対する知識は皆無だし、自分にはその類のものに対する審美眼が備わっているはずもないけれど、初めて見るおもしろさ。あくまでも好き嫌いでしかないが、ぜんぜん感傷的に見えないところとか、アンバランスでありながら核からとても遠い部分であやうくあるいはしっかりとバランスを保っているところや、人を食ったような花の顔、枯れた花のつくる表情、満開の花の傲慢さ。かなしさ。なにひとつ正しくもなくまちがってもいないようにみえる。それは、あの『他人の顔』の世界と共通するもののようにもう。
竹を使った大規模なインスタレーションの展示では、硬くて青くてまっすぐのはずのものが流動体みたいになっている。硬くて柔らかくて巨大な流動体。
わたしはいつの間にかまた、目に見えるものしか見ていなかった。
やけにゆっくりになった足取りで帰途についたのでした。

