アッシェンバッハの彼岸から -47ページ目

アンチ・アンチ・エイジング


Broken English
Marianne Faithfull
B000001FSP

(BGM:どうせなら自分のすべてを肯定できるオバチャンになりたい)


年が明けてしまった。養命酒の新聞広告ではないが、なんだかちっとも休まらないうちに正月休みが終わってしまった。おまけにとうとう、1ヶ月以上も更新をさぼってしまった。

仕事になるとどうしてこうも、すきだったことが嫌なことになるのかしら。

そんなことはどうでもよいのだが、昨年秋からずっと気になり続けていた『やわらかな手』をきょう、やっと観てきたのだ。

とにかく終映後にこんなに胸がすかっとした映画もない。心温まる、とかそんなレベルじゃない。

まずね、主人公がマリアンヌ・フェイスフルなのだから観ないわけにいかない。

いまだ枕詞のように「ミック・ジャガーの元恋人」が頭について廻る彼女の、60年代当時の魅力についてはいまさらわたしのような若輩者が述べるまでもないことだ。

以後、ヤク中、流産…と当時のポップアイコンとしては絵に描いたような転落人生を歩んだ彼女の、堂々の開き直りぶりがカッコよすぎるのだ。

40年前とは別人のような(そしてその別人ぶりばかりが先行して話題になっていたが)ドスコイぶり&ダミ声は、『マリー・アントワネット』のマリア・テレジア役(!)やチョイ出の『パリ・ジュテーム』で目にしていたけれど、本作の彼女のオバチャンぶりはさらに凄い。着てるものや歩き方まで、徹底的。だけどそんなことはいちいち話題にすべきではない。どんなに冴えないオバチャンの姿をしていようが、貯金が底を尽き万策も尽き、とある風俗業に身をやつそうが「わたしはわたし」。そう言い切る強さと有無を言わせぬオーラ、そして何よりも母なるあたたかみ。この役は彼女にしかできまい。

マイノロヴィッチのせりふではないが、観ているうちにどういうわけか彼女がどんどんどんどん魅力的に見えてくる。あまり画面に映らない「手」よりも、地面を、生きてきた時間を踏みしめるようなあの歩みが。気取りくさってるくせに下世話な好奇心丸出しな奥さん連中をやっつけるシーンの痛快さ。わたしはわたしの道を歩いている。なにが悪い。

諦めちゃってるオバチャンじゃない。自分を肯定してる姿がカッコよすぎるのだ。

細くて小悪魔ちゃんだったフェイスフルと今のフェイスフルは別人みたい?否、小悪魔ちゃんと、まるっこくやわらかい手を持つあのオバチャンは繋がっているのだ!!長い時を介して。

月並みだけど、人生って奇跡みたいで、そして、さらに月並みすぎてさらに恥ずかしいけれど、愛することほど豊かなものはないのかもしれませんね。愛する、とか、恥ずかしくてこれまで絶対口にしたくなかったけど。

まあいいか。わたしも人妻になったことだし。結婚するって、これまで口にできなかったようなあれやこれやを臆面もなく口にできるようになることかもね。いい意味で。

子供ができたらもっともっと恥ずかしげもなく口にできることが増えるんだろな。いいね。素晴らしいことじゃありませんか。

そういえばフェイスフルは「若い頃のわたしは常にクールであろうとしていたけど、今はクールでありたくなんかない。だけどそう言えることが、本当にクールなことなのかも」なんて云ってた。

天晴れ、加齢。ことしはアンチ・アンチエイジングで行くことにしよう。

二十歳の頃よりいまのほうが毎日おもしろいしな。

フェイスフルのレコードを聴きながら、七草粥の準備にとりかかる。

人間の死亡率は100パーセント。

一生叶いつづける願いごとではないとわかっているからこそ、ことしもまた祈ろう。キシダとわたし、キシダの家族とわたしの家族、すべての友人たちとその家族が、ことし1年もすこやかで仕合せでありますように。