アッシェンバッハの彼岸から -43ページ目

隣のボナール

わたしの住む家の周辺には、本当に猫が多い。

それなのに首輪をつけた猫は一匹も見ない。

いつも同じような場所に同じような猫がいるところを見ると、

路地裏には野良猫に餌をあげる文化があるらしい。

そのうちの一匹がボナールである。キシダがすきな画家の名前を勝手につけたのだ。

そういえばボナールの作品には、家の中だとか、身近な生活風景を描いたものが多い。

白黒まだらの不細工な野良猫ボナールは、人間の姿を見るとものすごい早さでお隣の軒先に消えてしまう。

だからわたしたちの目にうつる彼の姿は、顔が半分だけだったり、おなかから後ろだけだったり、尻尾だけだったり。

そんなところも、人がやけに端っこにいて半分にちょんぎれたりしているボナールの絵にちょっと似ている。


わたしが小学校高学年、つまり自我が目覚めだす頃から住んでいた街は、

郊外のいわゆる新興住宅街で、路地裏なんてなかった。

もちろん、野良犬も野良猫も見たことがない。

そんなベッドタウン出身のわたしだが、路地裏から漂ってくる夕餉の支度の気配とか、

それぞれのおうちのいろんな匂いだとか雰囲気だとか、

玄関先に置かれた植木鉢だとかに、例えようもなく郷愁をかきたてられるのだ。

それはおそらく、10歳以前に住んでいた東京都北区の、

ごみごみした古い街の景色が記憶の底にあるんだろう。

当時はクルマで大きなスーパーマーケットに行くのではもちろんなく、

いつもショッピングカー(この名前は笑える。そもそもうちにはクルマなんてなかった)をごろごろ引いて、

舗装の悪い道を歩く母と一緒にお買い物へ行ったものだ。

自転車を買ってもらってからは、商店街を走り抜けてピアノ教室や、図書館やらあちこちへ通った。

道も歩道も狭く、道筋に新しい大きな家なんて一軒もなくて、

ひしめき合う家々はみなそれぞれに、狭い軒先、というか家の前の道路にゼラニウムやなんかの鉢植えを並べていた。

学校の行き帰りには、しょっちゅう野良犬を見かけた。怖くて遠回りして帰ったりしたものだ。

あの風景はもしかすると、すでに残ってないのかも。


わたしはいま、旧くてごみごみした下町の、それも商店街のなかに住んでいる。

駅へ向かう近道は商店街の裏道で、幅2~3メートルしかない路地をくねくねと2~3度も曲がる。

舗装も悪くてゴツゴツしていて、ヒールの高いブーツなんか履いて走ろうものなら足を挫きそうになる。

しかもそこに自転車やらバイクやら、植木鉢やらが並んでいるので、狭いことこの上ない。

さらに辺りには印刷工場なんかがひしめいているものだから、

うっかりしてると角からにゅっと顔を出したフォークリフトに轢かれそうになったりする。

だけどわたしは、そんな路地裏を歩くのが大好きだ。

いまは、家を出て数メートルのところにある古い一軒家の庭先に真っ赤な梅の花が満開で、

毎朝、その前を通るたびに目が覚めるような気がする。

道すれすれのところにある窓から、テレビの声が聞こえてきたりする。

へたくそなギターの音のときもある。

路地裏を歩いていると、人々の生活や息遣いを驚くほど近く感じることができる。


この街も、駅前の大通り沿いではあちこちに派手な赤白模様のクレーンが聳え、

不気味な灰色の布で覆われた巨大な長方形が、日に日に空を侵食している。

四角いコンクリートのマンションや、清潔で一戸建ての家々は、住むには快適なんだろう。

だけどその取り澄ました無個性な姿からは、そこに住む人々の生活を想像することは難しい。


ボナールはきょうも、わたしたちの姿を一瞥するや物置の床下に消えた。

路地裏には、いろんな生活がひしめいている。

そこに暮らす人々の顔を想像しながら歩くのは楽しい。