「アフリカの風土」アフリカはなぜ、アジアよりも発展が遅れているのか?「仮説その2」 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

「仮説その1」では単純にアジアに比して国の歴史が新しいから、ということでしたが「第二の仮説」として考えられるのは、歴史上、特にサハラ以南のアフリカ大陸には、もともと国家的政治体制の伝統がなかった、あったとしても脆弱だったから、ではないかということ。

 

このために植民地主義から脱却して独立しても、国家的な統治機構の経験が既存の文明としてほとんど持ち合わせていないために、国家的な統治機能がなかなか発揮できない。

 

つまり「人的資本の最大化」としての適材適所や優秀なエリートによる近代的・合理的な国家運営ができず、伝統的社会としての血縁や地縁的組織である「部族=ミウチ」による国家運営、つまり「アフリカの宿痾」が蔓延ってしまって経済成長が立ち遅れてしまう、ということ。

⒈「南北に長い」というアフリカ大陸の地理的な悪条件

その地理的な理由として地理学者ジャレド・ダイアモンドのベストセラー『銃・病原菌・鉄』(1997年出版)によれば、東西に長いユーラシア大陸では、同じ気候がそのまま東西に広がっているために農耕などの文明が浸透しやすく、例えば農耕も同じ食用植物とその栽培方法がそのまま、同じ気候に沿って拡散していった、という地理的条件。

 

一方で、アフリカ大陸の場合は、南北に長いため、同じ気候が分断されてしまって、同じ農作業などの生業が他地域に拡散しにくい。例えば北アフリカのナイル川で盛んになった穀物生産も、南に行くに従って小麦などの穀物に適した気候ではなくなるため、そのまま南には拡散しなかったのでは、という地理的条件。

 

このため、支配と被支配の国家形成が十分に育まれず、部族的伝統社会が長い間残存した、ということです。

⒉サハラ以南では、国家形成に必須の「穀物栽培」ができなかったから

ジェームズ・C・スコット著「反穀物の人類史」によれば、

 

著者スコットは「穀物」なくして国家は成立しなかった、と主張します。

古代の最初の主要穀物国家ーメソポタミア、エジプト、インダス川流域、黄河ーの生業基盤はどれも驚くほどに通っている。すべて穀物国家で、コムギやオオムギ、黄河の場合は稗や粟などの雑穀を栽培していた(第4章)。

それではなぜ穀物が原初国家(というか現代先進国以外の国家は皆同じ)成立にとって必須アイテムだったのでしょうか? 理由は穀物だけが、課税の基礎となりうるから。国家は徴税できて初めて支配層が不労所得を得て統治を実現するわけだから、徴税できなくては国家は成立しません

 

穀物は、他の農作物と違って「目視、分割、査定、貯蔵、運搬、そして分配ができる(本書第四章)」ということ。

 

収穫時期が同じタイミングなので、徴税官が簡単に徴税可能。そして穀物は粒状態だから分割可能で査定もしやすくて運びやすく、腐りにくいので貯蔵も簡単。

 

一方で、サハラ以南のアフリカで栽培されている「ヤムイモ」「キャッサバ」などのイモ類、食用バナナの場合はどうでしょう。。

 

これらは、同じくカロリー高くて保存しやすいので、焼畑農業の重要な作物としてアフリカの人口を支えてきたのですが、穀物との決定的な違いは、これらはいつでも収穫できてしまう、そして芋類は地中に埋まっているので隠せちゃう、つまり「徴税しにくい」。

 

したがって、サハラ以南のアフリカでは、ヨーロッパやアジアにみられるような穀物国家=国家的政治体制が誕生せず、伝統的部族社会がそのまま残存したのではないか、と推測。

⒊国家政治体制と伝統的部族社会との違い

ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン著『自由の命運』では、

 

 

国家のある社会(著者曰くのリヴァイアサンのいる社会)と国家のない社会(著者曰くの規範の檻の支配する社会)を、以下のように整理しています。

 

【リヴァイアサン(国家的政治体制)】

野蛮な暴力(マフィアや盗賊、侵略国家など)を抑え込める統制的な暴力(警察&軍隊)を保持しつつ、業務遂行能力をもつ中央集権的権威。一方で市民を黙らせ、支配し、投獄し殺傷する別の面も持つ。

 

*事例:近代国家(現代の国家形態)、古代帝国国家(古代ローマ、ペルシャ帝国、中国王朝、イスラーム・オスマン帝国など)、都市国家(ベネチア、古代アテネなど)

 

【規範の檻(部族的共同体)】

慣習や伝統、儀式、などの社会規範に基づく長老(親族集団の年長者)をゆるいリーダーとした地縁・血縁に基づく共同体。リヴァイアサン同様、他共同体からの暴力から身を守る組織としても機能。結果平等の世界で、共同体の構成員の間での明確な上下関係がない。

 

*事例:ガーナとコートジボワールのアカン族、コンゴの熱帯雨林に住むピグミーのムブティ族、西アフリカの農村社会、アフガニスタンのパシュトゥーン人

 

サハラ以南のアフリカ社会では、上記の「部族的共同体」による社会化が一般的であり、「規範の檻」は、ヨーロッパやアジアで見られたたような、あらゆるリヴァイアサンとしての国家的政治体制の形成(=政治的階級の出現)を阻止し続けたと言います。

 

したがってイギリスは、アジア植民地でも行った「間接統治」をアフリカで展開するにあたって、その土地ごとの首長を求めたのですが、当てはずれに。

 

部族的共同体しかないアフリカでは、アジアに見られるような首長が存在しなかったのです。

 

致し方なくイギリスは「任命長官」という制度を作って強引に現地リーダーを立てる。しかし特定の人物がより大きな力を持つことに嫌悪を抱く部族社会では「魔女狩り」という手段によって任命首長の存在をなきものにしようとしたのです。

⒋サハラ以南のアフリカでは過去に国家は存在しなかったのか?

以前紹介した『新書版アフリカの歴史』や、

 

『「未解」のアフリカ』によれば、サハラ以南のアフリカでもヨーロッパ進出以前には、実はアフリカならではの国家形成があったと言います。

 

西アフリカにおけるイスラーム系のガーナ王国(8〜13世紀)マリ王国(13〜16世紀)・ソンガイ王国(11〜16世紀)・ハウサ諸王国や、東アフリカにおけるキルワやモガジシオ(15世紀)などの海港貿易都市など、古代王国・都市は存在していました。

 

これら諸国家は穀物ではなく、西アフリカでは主に「金」「塩」「家畜」など、東アフリカでは「象牙」「鼈甲」「金」「スパイス」などの交易品を余剰生産物とし、支配と被支配の国家体制を形成。

 

とはいえ、サハラ以南のアフリカでは、余剰生産物が穀物ほどの潤沢な余剰を生むには至らなかったのか、ヨーロッパやアジアのような大規模かつ本格的な支配と被支配の国家政治体制にまで至らず、しかも単発的な文明にとどまります。

 

そして、16世紀前後にヨーロッパ文明がやってきてアフリカを蹂躙するまでは、主として部族的な伝統社会がそのまま残存していたのです。

 

その後も、ヨーロッパによる奴隷貿易によって人的資本が継続的に欠落した状態が継続し、19世紀に至ってヨーロッパの植民地と化し、支配と被支配の関係において国家形成に至る過程が阻害されてしまう。

⒌総括

以上のように「規範の檻」と「16世紀前後以降、500年続いたヨーロッパ蹂躙の歴史」を経て、アフリカではアジアに見られるような本格的なリヴァイアサンを誕生させるまでに至りませんでした。

 

1960年代以降の国家建国以降も、国家的政治体制になかなか馴染めず「アフリカの宿痾」ともいうべき部族社会の規範の檻をそのまま国家的政治体制に持ち込んでしまっているために、アジアのような歩みを辿ることはできなかったのではないか、と思われます。

 

もちろん、賄賂や縁故など「ミウチ」を優先する政治権力は、アジアでも中南米でも発展途上国では一般的です。しかしアフリカの場合は、その極端さにおいてほとんどの国家が「郡を抜く」と言っても過言ではないでしょう(唯一の例外はタンザニアのニエレレ大統領?)。

 

 

今後については「専横のリバイアサン」たる独裁政権が体制維持しつつ、現状の第一次産品の輸出によって蓄積した資本を加工製造・サービス産業領域にうまく転換させることに成功すれば、中国の成功事例よろしく、経済成長は加速し、人口ボーナスと合わせて順調に経済発展するかもしれません。

 

そのうえで韓国や台湾のように、法の支配の下、非暴力な形で健全な民主化を実現できれば、私利私欲を貪る「アフリカの宿痾」は、もしかしたら解消できるかもしれません。

 

次回は、もうちょっとミクロに視点を変えて「その3」として、サハラ以南のアフリカ固有の「ポストコロニアル家産国家」としての成長の立ち遅れ、について展開します。

 

この仮説は、今回訪問したコートジボワールにおいて特に実感できる仮説です。