民族の創出 岡本雅亨著 読了 | 52歳で実践アーリーリタイア

52歳で実践アーリーリタイア

52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

 

 

<概要>

(大和民族という)単一民族といわれる日本は、維新政府が創作した「想像の共同体」であって「本来は多民族国家」だということを、出雲を中心にエミシ(東北地方)、クマソ(南九州地方)、池間民族(宮古列島の一部集落と池間島)などの、いわゆる古代ヤマト民族(=天孫民族)に属しない民族の事例をあげながら、日本も多民族を前提とした多元的な国家像であるべきと提案した著作。

 

<コメント>

様々な「社会の虚構」を考察する上で、ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」読後、さて日本の場合はどうかなと思って手に取ったのが本書「民族の創出」。「近代国家」という社会の虚構(=共同体)の一つである「日本」に関して、とても興味深く楽しく読めました。改めて「日本て何だろう」と思ってしまいます。是非おすすめします。

 

 

人類は何がしかの共同体に帰属意識を持って生きているのがノーマルな人間の状態だと思いますが、明治時代以降の日本列島に住む人々は今に至るまで「日本」という近代国家への帰属意識を育んだと思います。
 

維新政府は、植民地の人々を含む多民族国家を創造しましたが、日本列島に住む我々に対しては、台湾や朝鮮半島の民族とは別途「大和民族」という新しい概念を創造し、母体となる天孫民族に加え、出雲・越(越前〜越後にかけての地域)・エミシ・クマソ・琉球(複数に分化されている)等、日本列島に住む各種の被支配民族(まつろわぬ人々という)を加えて、これを統一して(なかったことにして?)天孫民族の記紀神話(古事記&日本書紀)を源にした西洋近代国家の概念と同じ「想像の共同体」を創出することで西洋列強に伍していこうとする体制を創出。

 

本書では、特に出雲は著者出身地ということもあり「国譲り」という架空の神話によって天孫民族に侵略されて以降は消滅したことになっている点にも焦点を当てています。

 

そして、台湾や朝鮮半島など日本列島以外の地の出身は「新しい日本人」だったので、列島に住む人々とは完全には同じ国民としての権限を与えられていませんでした。

 

戦後「新しい日本人」が別の国家(韓国・北朝鮮)・地域(台湾)を形成して以降は、日本は大和民族単独の国家として再出発し、その同質性幻想に基づく同調圧力によって高度経済成長を果たしましたが、そもそも日本は多民族だったので、その国家像を変換して古代ヤマト民族以外の民族を再認識することで多元的な国家像を育むべきと著者は提言しています。

 

スティーブン・ピンカーのいう「権利革命」の登場によって、第2時世界大戦後は男女平等や人種差別禁止などの様々な権利が一気に認知されましたが(暴力の人類史下巻第7章)、近代国家とセットで19世紀に誕生した「民族」という共同体の比較的新しい概念も意識すべきというのは、私も同感です。

 

 

 

 

特にわれわれ日本人(日本国籍の人)が認識しておきたいのは「単一民族としての伝統ある日本」というのは維新政府が西洋に倣って創造した「想像の共同体」であって、7〜8世紀ぐらいから面々と続くといわれている「伝統ある日本」は維新政府の創造した「フィクション」だということ。

 

記紀神話は天孫民族(畿内)の人たちだけにとっての神話で、古代の他の地域に住む人にとっての神話ではありません。

 

更にいえば、日本語はずっと前から我々日本人が話していた言葉ではありません。1930年以降と言いますから100年も経っていません(江戸・山の手の言葉を加工して作成した言葉です)。それまでは各地域各様の言葉でバラバラで全く通じませんでした。

 

実はこれは、西洋諸国家も同様です。そもそも近代国家という共同体そのものの成り立ちの一環として、当地で話されていた俗語口語を標準化(人工的に加工)して公用語にしたのです。

 

テレビ番組「クイズダービー」出演者だった故篠沢秀夫教授曰く

「家へ帰れば学校で話しているのとは別の言語で話すバラバラな人たちに”ボン・フランセー”という、どこの地方の言葉でもない人工語を作り、学校教育を通じて一つの国民としてのアイデンティティを与えたのは世界でまずフランスだが、日本国の標準語も人工語だ。例えば「オカアサン」は、国語の国定教科書のための造語であり、「オッカア」「ハハウエ」「オカカサマ」「オタアサマ」と様々に呼ばれていた(本書75頁)。

 

以上フランス語も俗語口語の標準化による人工語だそうですが、今の日本語も同じで、言語は近代国家としての体裁を整えるためのとっても重要な施策なんですね。

 

何となく我々が感じている、昔からずっと続いていると思われた日本の伝統は、実は150年程度しか続いていないという意外に「新しい伝統」だったということです。言語が同じになり、学校教育が普及し、ラジオやテレビが普及した結果、(意思疎通できないレベルの)方言は消滅してしまったのです。

 

そしてこの(近代国家という)社会の虚構は、日本だけでなく、世界共通で広まった虚構という点もポイント。だからこそW杯やオリンピックが世界的イベントとして盛り上がるわけです。

 

ただし、日本におけるこの「新しい伝統」は非常に機能して日本人を豊かに幸せにしてきたと思います。ノモンハン事件から太平洋戦争敗戦までの大きな不幸を生み出した一方、戦後はこの困難を乗り越え、ほとんどの人が寿命を全うできる世界でも稀有の「新しい伝統」を創造しました。

 

したがって「終章:同質社会幻想からの脱却と多元社会観の構築」に関しては「新しい伝統」の果たしてきた多大なる功績と未来への可能性というポジティブな側面もあるにもかかわらず、ネガティブ側面のみに終始してしまっているのは残念です。

 

例えば、終章でネガティブに評価されている「メンバーシップ型の日本的雇用」は、企業へのロイヤルティを基盤にした経営力の強さという側面もありますし、大学受験における共通テストの広範な科目の設定は、俯瞰的な視点を得るためのリベラルアーツを育む上での必須な勉強だともいえます。

 

そして、出雲民族だとかエミシだとか、天孫民族以外の民族意識を持つことだけが「目指すべきこと」なわけでもありません。

 

「それぞれの個々人がどの虚構に帰属意識を持つか」自由な選択ができる市民社会の方が「目指すべきこと」です。選択権はあくまで個人の自由であって「新しい伝統」とい選択を否定してしまっては、少数民族原理主義者ですね。

 

もちろん「新しい伝統」の弊害ともいえる「一神教ともいうべき強力な同調圧力(鴻上尚史さん)」を生み出したのは、権利革命を推進する点においては、残念なことです。特に日本の場合は維新政府の「新しい伝統」政策が成功したこともあり、この傾向が強くなったのではと思います。

 

 

 

 

だから、著者のいうように、これからは、もうちょっと歴史を振り返って日本における少数民族という虚構も含め、より多くの虚構を受け止められる国家像を模索すれば、更に魅力ある日本になるのではと思います。