今の日本には二つの虚構が必要 | 52歳で実践アーリーリタイア

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52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

ホモ・サピエンス全史(ユヴァル・ノア・ハラリ著)の重要概念「虚構」をキーワードに、欲望論哲学(竹田青嗣著)を踏まえた「虚構=言語ゲーム=物語=フィクション」について、現段階の自分なりのイメージをいったん整理してみた(これからも勉強して適宜アップデート)。

「虚構」の根本とも言える欲望論でいう真善美の価値観というのは、
人間社会における真善美の価値審級は、人間が形成する集合的言語ゲームから。このゲームのうちでのみ現れ出、成立し、維持される。人間的言語ゲームは、関係的な禁止と約束の体系であり、また多様な要求ー応答関係の網の目である。この言語ゲームのうちで、人間はそのつどつねに、事物と分節を作り出す。この言語行為の連続的な集合性だけが「善悪」「美醜」「真偽」の秩序とその実在的な信憑を生み出し維持する。

この言語行為の連続的な集合性という、いわゆる「自分の生活している共同体の中での規範」が価値観の基準になるわけだから、現代日本という集団的言語ゲームの中で生きる私の場合は、日本国憲法の原理とも言える「近代市民社会の原理(※)」がその価値観となる。この価値観に基づき、法律が整備され、我々日本社会の規範が成り立っている。私の感覚では、一般に現代日本人は、この虚構は当たり前の価値観として既に内面化されていると思う。

※近代市民社会の原理=どんな人間でも人間として対等の権利を与えられて共存できるということ。しかも、その社会を自分たちの自由な責任において営むということ。万人に生産と消費の権利が保障されていること。そういう基本ルールを前提にして、互いに相手の自由を認め合うこと(ゴーマニズム思想講座:竹田青嗣)。

*明治時代や江戸時代だったらまた別の集団的言語ゲームになるので、別の虚構を基準にした価値観となる。現代でも北朝鮮やサウジアラビアなどの独裁国家や、中国なども近代市民社会の虚構ではなく別の虚構。そういう意味で我々現代日本人は、おこがましくも私の視点からは「幸せな時代」と「幸せな国」に生きていると思う。冷戦時代の東欧の人のように彼らが外部環境を知るならばなおさら。それもこれも私が近代市民社会の価値観を「よし」として内面化しているからだが。

どんな思想も政治信条も近代市民社会では認められていて、右翼・左翼などの政治信条でも、特定の宗教でも、LGBTでも認められている。ただし例えば右翼の場合「誰でも持っている共同体や社会への自然な愛着の感覚と、それが自己のアイデンティティ補償に奉仕して生み出す差別や排斥とを、はっきり区別することが大事(同:竹田)」ということで、日本の国を愛するのはいいいが、他国人を差別してそれを行動に移したりしてはいけないということ(日本の天皇制をはじめとした現体制を批判する左翼もまた然り)。

しかしながら、これだけでは自分自身の依って立つ虚構は、何か物足りなく感じてしまう。むしろ、この近代市民社会の原理というやつは、あくまで日本社会で生きるための「ルール」であって「プレー」ではないのではないか。

サッカーでいえば「よしルールはわかった。ではどうやってプレーしよう。ポゼッションかカウンターか」みたいなことになる。この「どうやってプレーしよう」が最も人間にとって大切な「虚構」じゃないかと思う。近代市民社会の原理は個々の自由を認めあおうということで、さて我々が果たして自由になった暁には、自由になりたかった根拠としての「我々の自由意志としての虚構・価値観はなんですか?」ということです。

例えば保守思想の漫画家小林よしのり氏:今の時代の流れからいったら、もう完全に個人は浮遊してしまっている。この状況の中で個の確立と言ったって、これが「いいこと」であるとか「わるいこと」であるとかいうことを、ひとりで全部決めていくような強い人間は、本当にいるのかなと思います(ゴーマニズム思想講座)。

小林氏の場合は日本のこれまでの歴史に基づく日本人としての保守思想が彼にとっての依って立つ「虚構」。かといって小林氏は他の思想を排斥するわけではなく、彼の保守思想は、あくまで近代市民社会のルールの中での彼の「プレー」だ。

もうちょっと小林氏:日本がロシアと戦ったことによってアジアの中には自分たちも白人と戦えると思った国があったんだぞとか、そういうことを聞くと誇らしく思う。その誇らしさが「不健全」だとは思わない。自信を持つ、元気を出す、その足場が国家であっても構わないんじゃないか。自分を愛する人が住む国を守ろうという意識は世界共通の感情であり、極めて普通の感覚でしょう。そういう公共性に寄せる心の最大幅として「国家や国民のために」ということが考えられるんであって、それは言語と文化を同じくする者たちに「情」が湧くということ。

これはこれで保守思想としての小林氏の率直な信条であって虚構。まさに小林氏の「プレー」だ。このような個人のよってたつべき虚構が最も我々のアイデンティティを確保するものだと思います。それは小林氏のように何かに属する虚構でもいいし、キリスト教への入信でも良いし、スポーツにおけるタイトルや記録でも良いし、仕事における自己実現でも良いし、ちょっと古いがマイルドヤンキー的生活スタイルでも良い(彼らは無意識にそうしてるでしょうが)し、私のようにひたすら説得力のある「虚構」そのものを求めるのもよし。

現段階で言えるのは、現代日本人の場合には「二つの虚構」が必要であり、近代市民社会という「社会の虚構」を前提条件にした、個人の信念としての関係的言語ゲームとしての「個の虚構」(一方でヨーロッパ中世であればキリスト教のみの一つの虚構となる)。

以上、私が今、勉強している現時点において一番説得力があると思っている「現代日本社会の虚構の構造」という「虚構」です(今後もどんどんアップデートしていきたい)。