ゴーマニズム思想講座 「正義・思想・国家論」 再読してみて | 52歳で実践アーリーリタイア

52歳で実践アーリーリタイア

52歳で早期退職し、自分の興味あることについて、過去に考えたことを現代に振り返って検証し、今思ったことを未来で検証するため、ここに書き留めています。

今、竹田青嗣と橋爪大三郎の書籍を通読中だが、その一環として22年前(1997年)に出版された本書を再読してみた。中身は今でも十分通用する深掘りな議論。小林氏の真摯な姿勢が超絶博識の哲学者竹田・社会学者橋爪両氏の議論を白熱させる実に中身の濃い議論の書籍化。


以下引用と若干の筆者コメントです。

<近代市民社会の原理>
どんな人間でも人間として対等の権利を与えられて共存できるということ。しかも、その社会を自分たちの自由な責任において営むということ。万人に生産と消費の権利が保障されていること。そういう基本ルールを前提にして、互いに相手の自由を認め合うこと(竹田)。

<善とは>
「よい」の本質は、うまくルールをたてて互いが気持ち良くなる状態にする、という努力にある(同竹田)。

*ところが絶対主義は、これをいわば絶対的に解決する発想を取る。つまり、ある絶対的な「よい」の状態を、はじめに前提する(同竹田)。

<正しさとは>
関係の「快い」を原則として社会的な関係やルールを作り変えていく努力にある。そういうことが社会的な「正しさ」とか「公正さ」とか「正義」の根拠(同竹田)。

宗教、政治、科学、言論、芸術、そういうものの領域は、はっきりと区別しておく。そして、それぞれの領域には、それぞれの領域のルールがあって、それに基づいてフェアにやっていく。これが私の考えている「正しさ」の再定義(同橋爪)。

→差別語の禁止:差別を無くさなくてはいけないという政治のルールが、境界を乗り越えて言論の中に入ってきている(同橋爪)。

(表現の不自由展の開催中止も、全く同じことですね:筆者)

→民主主義を叩き潰すといって実行したらそれは刑法犯。口で言ってる限りは思想信条の自由だから許す。これが民主主義の誇り(同橋爪)。

<自然科学とは>
科学的な知識は、宗教のような意味で「真理」であるのではなくて、単なる「仮説」である。仮説であるということは、学説、すなわち科学者個人の意見(同橋爪)。

→確かに自然科学は一つの虚構ではあるものの、ロジックとエビデンスで組み立てつつ、その都度アップデートされるので、宗教(欲望論哲学では共同的確信という)よりもより開かれた、社会的に認知されやすい虚構(同、普遍的確信という)(筆者)。

<あるべき社会組織>
成員の一人ひとりができるだけ気持ち良く生活できるためには、そこで多様な考え方や意見が表明され、そこからできるだけよい意見が、特定の利害や権力関係に影響されないで、十分鍛えられて上の方に上がっていく、そういう形になっていることが大事なんです(同竹田)。

→14億人いる中国人、あるいは北朝鮮人や中東諸国などの一部のイスラム系の国民等、近代市民社会を享受していない人達は、なんとかならないのか、といつも思ってしまいます。特に中国の方は、長い間、人権という概念のない中で人民として「マス」として個人の自由が極端に制限された中で生きてきたという歴史があります。もちろんお金稼げば華僑として外国に住み、また台湾人などは近代市民社会を享受していますが、多くの中国人は自由が制限された社会の中で生きています。それでもその虚構の中で生きている人たちは外の世界を知らない限りは不幸とは一概にも言えませんが(筆者)。

<歴史学の役割とは>
たんに歴史事実を確定するだけでなく、歴史事実の検証をとおして、いろいろな国家の歴史の物語性を相対化し、それらがどういう動機でどのように形成されたのか、といったことを深く分析することにある(竹田)。

→各国とも、ナショナリズムの概念を植え付けるためのツールとして歴史を捉え教育するので、なかなかこうならない。日本の中には自主的にそうする人もいて、その本(ある意味歴史小説)がベストセラーになっていますが。。。(筆者)

<ナショナリズムとの付き合い方>
誰でも持っている共同体や社会への自然な愛着の感覚と、それが自己のアイデンティティ補償に奉仕して生み出す差別や排斥とを、はっきり区別することが大事(竹田)

→自分がたまたま属しているものの価値で自分のアイデンティティ価値を高めても、それは彼・彼女のアイデンティティの実質とは無関係。そういうもので自分のアイデンティティ不安を打ち消すと、排斥や差別に転嫁しやすい(竹田)

<アイデンティティの危機>
今の時代の流れからいったら、もう完全に個人は浮遊してしまっている。この状況の中で個の確立と言ったって、これが「いいこと」であるとか「わるいこと」であるとかいうことを、ひとりで全部決めていくような強い人間は、本当にいるのかなと思います(小林)

→ここで橋爪氏や竹田氏は、自分とその所属する集団とは関係ない(橋爪)、あるいは宗教によるアイデンティティの確保を否定的に述べています(竹田)が、私はキリスト教でも仏教でも、あるいは国家でもそれが自分のアイデンティティの拠り所としての「虚構」となって自分の意味と価値の虚構の世界を作るのは全然「あり」だと思います。ただそこで前提となるのは「近代市民社会としての虚構=価値観を踏まえて」という点。

→また、近代市民社会の原理が成熟していっても、ただそれだけでは個々の価値観がバッティングしないような土俵=自由のルールを作っているだけではないかと思います。個は土俵だけではこの依って立つよすがはできない。小林よしのり氏のいう通り。そもそも『自由』とは、それだけでは成り立たず、その先にある虚構があってこそだ(筆者)。

例えば宮台真司氏も結局は「終わりなき日常」では満足できず、結果的に「保守的な虚構」を求めたのも、人間にはやはり依って立つ虚構が必要であるということ(筆者)。

ところで、橋爪氏が「個はフィクションで時代や親や外部環境によって作り上げられたもの」とも主張していていますが、人間のアイデンティティは「空白の石板」(スティーブン・ピンカー)ではないということが進化生物学、脳科学や進化心理学での定説となっていてこちらの方が説得力がある(筆者)。

性格・EQやIQは50%以上遺伝によるものということで、決して人間は生まれた時はまっさらな状態ではない。遺伝子という設計図があって育ち、外部環境によって設計図を使ったり使わなかったり、変化させたりしながら形成されるのが人間のアイデンティティだとかその人の性格や能力(筆者)。

以上、今でも色々考えさせられる本なので、amazonでは中古しかないようですが、ぜひ一読をお勧めします。

以下書籍も参考にしてます。