僕は昭和50年生まれです。
戦争を知りません。

物心ついたころから、当たり前のようにカラーテレビがありました。
小学3年生くらいになると、多くの同級生がファミコンを持っていました。
もちろん、飢えに苦しんだ記憶はありません。
僕は、戦争を知りません。

戦争を起こしてはならないと、みんなが言います。
しかし、人は有史以来、戦争を繰り返してきました。
現在も、世界中で戦争が起きています。

なんのために戦争をするのでしょうか?
自国の利益のため?
民族のアイデンティティのため?
イデオロギーのため?
宗教のため?
愛する国を護るため?

戦争を知らない僕の想像ですが、戦場で人が人を殺すとき、そこにあるのは恐怖だけだと思います。
自分が兵士になったと仮定します。
僕は人の意見に流されやすいので、すぐにデマやプロパガンダを信じ込むでしょう。
すぐ調子に乗るので、声高に『奴らを皆殺しにしろ!』と叫ぶでしょう。
身の程知らずのカッコつけなので、お国のために戦うことを希望するでしょう。
愚かなので、いざ前線に立つとなにをして良いかわからず呆然とするでしょう。
臆病なので、敵と向き合うと恐怖のあまり無我夢中で発砲するでしょう。
自分より弱い、または運の悪い敵を殺すかもしれません。
そして、なにが起こったかわからないうちに、敵に殺されるでしょう。
そのとき、最期のときにはなにも考えられないでしょう。
ただひたすら、恐怖と痛みに泣き叫びながら、死んでいくでしょう。

戦争を起こしてはなりません。
しかし、人は戦争を止めることはないでしょう。

一体なぜ、人は戦争を起こすのでしょうか?
気が遠くなるほど多くの血を流してまで得る価値のあるものなど、この世に存在するのでしょうか?
『どのメーカーのクルマが好き?』という問いに、『もちろん日産!』と即答するのは、多分昭和40年代生まれの人たちです。

僕がクルマに興味を持ち出した頃、日産のクルマは輝いていました。
ひときわスタイリッシュなフォルムが目を惹いたシーマ、ヤンキー車の代名詞であったセドリック/グロリア、斬新なスタイルと力強いダーボパワーで人気を博したフェアレディZ、プレリュードとともにスペシャルティカーというジャンルを切り開いたシルビア、農家のおっちゃんから走り屋の兄ちゃんまで幅広い層に愛されたサニトラ、……。
そして、『技術の日産』『走りの日産』の代名詞と言えるのがスカイラインであり、日本のスポーツカーの頂点に君臨し続けている名車中の名車、スカイラインGT-Rです。

僕が中学2年生のとき、初めて我が家がマイカーを購入することになりました。
さっそく、当時すでに免許を取得していた兄が、『国産車オールカタログ』という当時発売していた国産車すべてのスペックを網羅したムック本を買ってきました。
クルマのクの字も知らなかった中学生の僕は、メガネをかけた5歳児の鉄道博士のように、わけもわからないままクルマの種類やスペックを覚えていきました。
セダンの意味もわからないままに、パッと見で好きになったクルマ、それがスカイラインGT-R(BNR32)でした。
いわく、羊の皮をかぶった狼。
いわく、レース用エンジンをそのまま搭載してしまったモンスターマシン。
いわく、“伝説のスカG”の再来。
いわく、レースでの常勝を約束されたクルマ。
数々の刺激的な煽り文句に相応しい性能を、スカイラインGT-Rはそのクーペボディに秘めていました。
その後のレースでの活躍、日本のチューニング業界に革命をもたらしたRB26DETTエンジンなど、クルマ好きなら一晩中話せるほどのネタがあります。

二十歳をいくつか過ぎた頃、僕はスカイラインGT-R(BNR32)を少しだけ運転させてもらったことがあります。
当時の市販車としては例外的に薄くてホールド生の高いシートに身を委ね、革巻きの3本ステアリングホイールを握りしめ、重厚な直6ターボエンジンを始動させたとき、なんとも言えない高揚感に包まれたことをいまでも鮮明に思い出します。
そして、スカイラインGT-Rは、R33へと進化し、R34でその最終型に至ります。

平成21年も終わりを迎えたいま、現行スカイラインに憧れる若者がいるでしょうか?
『日産自動車』と聞いて、多くの人がイメージするものはなんでしょうか?
日産の代表車種はなんでしょうか?

スカイラインの冠が無くなったGT-Rというクルマがあります。
日産自動車の技術の粋を尽くした、素晴らしく速いクルマです。
GT-R自体をどうこういうつもりはまったくありません。
ただひとつ、僕は日産の企業としての在り方に、大きな不安というか不満を感じました。
日産は、GT-Rをこう表現して世にアピールしました。
『JAPANESE SUPER CAR』
これまで、自社のクルマを“スーパーカー”と表現したメーカーは1つだってありません。
スーパーカーとは、その素晴らしすぎるクルマを目の当たりにした人々が自然発生的に名付けた名称です。

日産は、今後どうなっていくのでしょう。
とりあえず、次期型シルビアの動向を見守ることにします。

余談ですが、我が家の最初の自家用車は、サニーの5MTでした。
この歳になって、あらためて父の偉大さを思い知らされます。

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今日の動画:http://www.youtube.com/watch?v=HtOegY1U2tA&feature=related
      スカG、イカしまくってます。
駐車場を見れば3台に1台以上がミニバン、そしてオートマ(AT)が9割8分以上の現代日本クルマ事情。
走り屋ブームが完全に去ってしまった現在では想像もつかないでしょうが、僕が20歳前後だった頃、特に関西では、シビックは気合いの入ったクルマでした。
ほんの小さな段差を超えただけでバンパーが小刻みに震えるほどガチガチに固められた足回り、ロールバーが張り巡らされた室内はフルバケットシートと小径ステアリングホイールで武装され、当然排気系は直管!
僕のシビック(特にEF)のイメージは、だいたいこんな感じです。

忘れもしません。
初めて六甲山にドライブに出かけたあの夜。
あれは土曜の真夜中、僕は当時18歳でした。
『夜の六甲山には走り屋が集まっている』との情報を聞きつけた僕は、代車の軽自動車(4速MT)を操り、再度山を目指しました。
神戸から走ること数分。
果たして、再度山の駐車場には、おびただしい数の走り屋たちが集結していました。
ベッタベタに落とした車体に、好き者以外には騒音に他ならない爆音をまき散らすクルマの群れは、小さな駐車場でUターンを繰り返しては峠を暴走していました。
少なく見積もっても、50台以上はいたでしょうか。
想像してみてください。
真夜中の峠、50台以上の走り屋のなかを、4速MTの軽自動車で走る恐怖を…。
『終わった……』
当然、そう思いました。
前方には走り屋、後方にも走り屋、駐車場にも走り屋、道路沿いにはギャラリーもいます。
震える右足がアクセルから離れようとしたその瞬間、不思議なことが起こりました。
耳をつんざくエキゾーストノートは一瞬にして途絶え、シャコタンのクルマで溢れ返っていた峠道はモーゼの十戒のように道が開けました。
わけが分からないままステアリングにしがみつき、僕は再度山のコースを4速MTで静かに走り抜けました。
山頂の駐車場に入り、震える手でタバコに火を付けつつ、クルマを降りました。
あたりは、またしても爆音に包まれていました。
まわりに停車しているクルマと自分の代車を見比べ、ようやく合点がいきました。
『なるほど、オレはかわいそうな人か、もしくはおじいちゃんに間違われていたんだな』と…。

気を取り直した僕は、ギャラリーコーナーで走り屋を見物することにしました。
ターボサウンドを響かせるシルビア、絶妙のドライビングテクニックでリアを流すAE86、なかでもシビックの走りに僕は夢中になりました。
なにに興奮したって、やはりその排気音です。
低回転から中~高回転へと移行する際の、エキゾーストノートのダイナミックな切り替わり!
高回転型1600ccエンジン、そしてHONDA独自のVTECが奏でるエキゾーストは、とんでもなく野蛮で危険な音色でした。
ヘアピンからの立ち上がりで『バババン!』とレブに当てながらシフトアップしていく様は、失禁しそうなくらい興奮しました。
その夜からです。
『シビック=イカしたクルマ』というイメージが、僕のなかで確立しました。

あれから10年以上が経ちました。
シビックはいくつかのモデルチェンジを行い、排気量も2000ccまで拡大されました。
type Rもありますが、CVT採用のハイブリッド車もあります。
シビック(=市民)という名のクルマは、進化し続けてきました。
しかし、僕にとってのシビックは、シャコタンであり、直管であり、5速MTの、ヤンチャな若者のクルマなのです。

余談ですが、先輩のシビック(EF。当然シャコタン直管)を借りたとき、シートの隙間から使用済みのコンドームが出てきました。
運転席/助手席ともフルバケットシートのクルマでカーセックスを敢行する先輩に、僕は畏敬の念を抱きました。

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今日の映画:アドレナリン・ドライブ
      こういう邦画をもっと創ってほしいです。
経験を積み、ある程度の年齢に達して、そこで初めてわかることがあります。
僕が“萌え”というものを理解したのは、ここ1~2年のことです。

いえ、もちろん“萌え”という言葉自体は、ずっと昔から知っていました。
当時は『アニメの美少女で興奮する、どうしようもない奴らが使う流行り言葉』くらいの認識でした。
“萌え”という言葉や感情に多少の興味を持ったのは、それから数年後、かの名著『萌え萌えジャパン』という本を知ってからです。
たしか、しょこたんこと中川翔子と山田五郎が、ラジオでこの本を紹介していました。
『日本は萌えている!』や
『それは初恋に似ていた。』、
『きみは、幼なじみの美少女に、おい起きろよ! と男言葉で起こされて目覚めたことがあるか!?』
などなど、魅力的なキャッチコピーで僕の感性を揺さぶりました。
しかし、男汁のしたたる20代だった当時の僕は、それでも『へ~、そんな世界があるんだな』くらいにしか思えませんでした。

それが、です。
僕は30代になり、そして、福原愛選手に再会しました。
久しぶりにTVで見る福原選手は、記憶のなかにある“泣き虫愛ちゃん”ではなく、日本卓球界を牽引する“卓球の福原愛選手”として、世界の強豪と堂々たる勝負を繰り広げていました。
福原選手が得点したときに叫ぶ『さーっ!』の気合い。
丸っこい拳を握りしめ、半泣きの表情で叫ぶ『さーっ!』
一瞬のうちに僕は、彼女に釘付けになってしまいました。
それからは、TVや雑誌やネットなどで、彼女の試合やその他諸々をチェックするようになりました。
そして、ふと思いました。
『もしかして、これが“萌え”なのか…』

決して、福原選手に恋をしているわけではありません。
彼女の追っかけをしているわけでもありません。
仮に、福原選手が後輩だったとしても、僕は手出しするつもりは断じてありません。
ただ、気になるのです。
放っておけないのです。
護ってあげたいのです。
『Milltzさん、すてき!』と上目遣いでにっこり微笑んでほしいのです。

福原選手の試合のたび、僕はドキドキハラハラしながらTVを見守ります。
『さーっ!』と叫ぶたび、赤面するような、それでいて小躍りしたいような、なんとも言いようのない気持ちになります。
ニシコリ君とウワサになったとき、目から汗が止めどなく流れ落ちました。
多分、いえ確実に、僕は愛ちゃんに萌えています。

余談ですが、“福原愛”で検索すると、“福原愛 ストレッチ写真”という検索ワードが出てきます。
非常にけしからん画像なので、皆さんは決して検索しないでください。

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今日のブログ:スポーツ見るもの語る者~ フモフモコラム
       スポーツ系の超人気コラム。愛ちゃんネタは絶品です。