波照間島の戦争マラリアを追憶する | 歴史ニュース総合案内

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 沖縄県竹富町の波照間島の島民が沖縄戦時に味わった戦争マラリアの苦難を語り継ぐ慰霊碑が波照間島で新たに建立され、6月15日に慰霊祭が開かれた。避難先の西表島で蔓延し、当時の島民の3分の1にあたる552名が亡くなった。

 戦争マラリアで亡くなった児童66人を悼むしぃばらはなみち沿いの丘の学童慰霊碑(1984年建立)の横に「波照間島戦争マラリア犠牲者戦没者慰霊之碑」と「ソテツ感謝の碑」「戦争家畜殺生之碑」を3月31日までに新設し、6月に記念式典を開いた。疎開先だった西表島の南風見田(はいみだ)の浜にある1992年の勿忘石之碑を2022年に修復した期成会が、新たに3つの碑を建て、「勿忘石を望む丘」と名付けた。

 

 八重山諸島の西表島から結構南にある波照間島の島民1590名は米軍の本島上陸前の1945年3月、軍部の八重山守備隊による西表島への疎開命令を受け、波照間対岸の南風見田海岸で集団生活することになった。陸軍中野学校の山下虎雄軍曹(仮名)の厳命だった。だが、島の山間部に蔓延するマラリアが島民を襲い学童らに犠牲が出た。謝名信升校長らが惨状を守備隊に直訴したが、全島民が帰島したのは沖縄戦が一通り落着した8月だった。前後のマラリア地獄で島民の3分の1が犠牲になった。米軍が上陸しなかった八重山諸島では、他島を含めて3647名がこの戦争マラリアで亡くなった(石垣島の方が多いが、波照間島民の比率が高い)。

 このほか、ソテツ感謝の碑は敗戦後の食糧難で食されたソテツを記念する。戦争家畜殺生之碑は波照間を離れる前に家畜をプルマヤマなどで殺処分したことを記す。