天皇訪中のフィクサー | 歴史ニュース総合案内

歴史ニュース総合案内

発掘も歴史政治も歴史作品も

 外務省がこのほど、1992年10月になされた平成天皇の訪中実現に関する公文書を公開した。反対勢力を抑え込むため、右翼のフィクサー田中清玄(1906~93)の力を借りていたという。(田中の評伝を書いた徳本栄一郎による「中央公論」4月号の記事から)

 鄧小平らの中国共産党指導部は皇太子の頃から平成天皇の訪中を要請していた。その時に影で動いたのが、戦前の日本共産党のゲリラ闘士委員長から獄中転向して、熱烈な「右翼」の実業家に上り詰めた田中だった。敗戦直後には天皇制の護持者としてかつての同志たちに武力行使していた田中は、中華人民共和国相手には和解を説くようになっており、外務省のいう「戦後のけじめ」をつけるため皇太子の訪中を望んだ。

 しかし、天皇が戦争責任を北京で謝罪させられるを懸念して、自民党の保守派や部外の極右活動家が強く反発。中曽根康弘に靖国神社参拝中止を求め、朝日ジャーナルで訪中反対派を指弾していた田中は、宮内庁の入江相政侍従長から都ホテル東京で密書を託されて、外務省の知らぬところで中国と交渉した。尖閣諸島問題が表面化する中、外務省経由では情報が漏れてしまうのを恐れた。

 外務省の公開文書では、共同通信に圧力をかけたりしていた橋本恕駐中国大使が渡辺美智雄外相に1991年11月に送った具申も公開された。しかし、平成天皇の日中戦争観が語られるだろう部分は黒塗りとされた。平成天皇が太平洋諸国などで示した「慰霊の旅」は訪中に始まるが、人民大会堂での御言葉では「深く悲しみとするところ」に留められた。