「マルチチュード」論者の基礎 | 歴史ニュース総合案内

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 『<帝国>』や『マルチチュード』で帝国主義論を講じたイタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリが2023年12月15日、90歳で死去した。マルチチュードという大衆の団結に期待を託す哲学だが、本人は本の出版時に醸し出された平和なイメージから離れた人生を送った。

 北東イタリアに生まれマルクスやベネディクト・デ・スピノザ(1632~77)の哲学を研究。故郷パドバの大学教授になり、共産党外で自律的な(アウタルキア)労働運動「オペライスモ」を志向した。しかし、イタリア半島を震撼させた極左集団の赤い旅団への関与を疑われて1979年に逮捕された。それでも有罪を立証されないまま4年後に国会議員に選ばれ、不逮捕特権で釈放された。

 釈放直後にフランスへ亡命して、獄中出版したスピノザ論『野生のアノマリー』で注目された学識を基に研究生活を送っていた。しかし、1997年にフランス亡命者への恩赦を求めて帰国した時に逮捕され、6年間収監される。合間の2000年に米国人のマイケル・ハートとの共著で刊行したのが『<帝国>』であり、釈放翌年に執筆されたのが『マルチチュード』である。両書の日本語版が以文社やNHK出版(品切れ中)から刊行されると、どちらでも思想界の話題を席巻した。

 『<帝国>――グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』では、帝国主義の担い手だった国民国家がグローバル化で衰退して、強権を剥き出しにしてこなくとも、帝国が提示してきた権力概念はなお有効である旨を論じた。それを発展させた『マルチチュード――<帝国>時代の戦争と民主主義』では、世界市民の自由な連帯と抵抗活動に希望を託した。『エチカ』を代表作とするスピノザ哲学の中核は万物に神が宿る汎神論なので、あらゆる多衆(マルチチュード)の声に神性が宿っていることになる。

 

 インターネットの発達によるSNSメディアの台頭は、民衆の声が具体的にどんなものなのかを可視化した。その意味でマルチチュードなるものは確かに実在するが、左翼知識人が期待するような主体では決してありえないものだ。ネットに溢れるありのままの声を左翼がヘイト・スピーチと眉を顰めている内に、欧州だけでなく先進国の民心の軸は左翼団体から排外右翼のポピュリズムに移行していった。