時代がまだ昭和の真っ只中だったある夏の年。
僕は中学3年生だった。

つまり受験生だった。
僕の勉強時間は完全に夜型だった。

学校から帰るとすぐに寝て10時過ぎに起きて勉強するというスタイルだ。


その頃の夏は今ほど暑くはなかったが、クーラーはお茶の間にあるだけで、子供部屋には扇風機と蚊取り線香だけだった。


僕は毎日半袖シャツと短パンで机に向かって問題集に向かっていた。

しかし、集中力というものはそんなに長く続くものではない。

親が寝静まった深夜にはラジオを付けて深夜放送を聴いたりしていた。


7月のある夜、蒸し暑さのせいもあり完全にやる気を無くしてしまった。


もう駄目だ。


これでは起きていても無意味だ。

気分転換に家をこっそり抜け出した。

自転車にまたがると夜の散歩に出かけた。

深夜1時を過ぎていた。

やばいな、誰かに見つかったらどうしよう。

しかし、真夜中の秘密めいた空気は刺激的だった。

誰も歩いてなかった。

僕は現実離れした風景に完全に魅せられていた。


気ままに走らせていると自分の中学校にやって来た。

学校は小高い山の上に建っていたが、

もちろん正門は閉まっていた。

夜中に見る学校はなんだか不気味でお化け屋敷のようだった。


学校の前の道路の反対側にはプールがあった。

道路の街灯にボンヤリとプールの水面が見えた。

体育の授業で使うプールは昼間と違って官能的に見えた。

それに水面は涼しげでとても美しかった。


坂道を自転車で登ってきた僕は汗まみれだった。


いっちょやったるか。


僕は意を決してプールのフェンスをよじ登って中に入った。

誰もいないことを確認すると、僕はシャツもズボンも脱いでプールに静かに入った。

夜の静寂の中に水音だけが流れた。

水の中は程よく冷たくて気持ち良かった。

できるだけ音を立てないように泳ぐと最高の気分になった。

水に潜って目を開けるとぼんやりと水底が見えた。

不思議だった。

水面から顔を出して見上げるとほぼ満月の月が見えた。

そうか、月明かりがプールを照らしてくれたから明るかったんだ。

僕はプールから出るとコンクリートの地面に大の字になって寝転んだ。

最高だった。

夜のプールを独占して贅沢をしている気分だった。

月の綺麗な夜だった。


遠くでカエルの鳴く声が聞こえていた。









元中日ドラゴンズ、大島康徳さんが先月6月末に
ガンの為に亡くなった。


僕が中日ドラゴンズのファンになったきっかけは、1974年の二度目のリーグ優勝の年だった。
それまでセリーグは9年連続で巨人が優勝していて、ほかの5球団はまるで巨人の引き立て役だったのだ。
もともと僕はプロ野球には興味がなく、写真が趣味だった。

ある夜、僕は自分の撮った写真を自分の部屋で現像して印画紙に焼き付けていた。
真っ暗な現像液の匂いのする部屋で、赤い電球をたよりに、ラジオをつけた。

野球中継だった。
その年、中日ドラゴンズは巨人と首位争いをしていた。
夏になり、世間では今年は中日ドラゴンズが優勝するかもしれない、と盛り上がっていた。

相手はどこか忘れたが、中日は負けていた。
なんだ大した事ないじゃないか、と思いながら聞いていた。
大敗の中、ある選手がホームランを打った。

その選手はニコリともせずに、黙々とベースを回ってホームインした。
僕は何故かその実況を聴いていて、一瞬にしてその選手のファンになった。

その選手の名は、高木守道といった。
ただの負け試合だったのに、不思議とその日から僕は中日ドラゴンズのファンになった。

その年のドラゴンズは投手で、星野仙一、松本幸行、稲葉光雄、鈴木孝政。
野手は、高木守道、井上弘昭、島谷金二、木俣達彦、マーチン、それに大島康徳だった。
その年、中日ドラゴンズは20年ぶりにセリーグ優勝を果たし名古屋はドラゴンズフィーバーに沸いた。

僕は当然のようにドラゴンズファンになった。
その当時、大島はまだ背番号が40番で、代打が多い選手だったが不思議と「 たのむ!ホームラン打ってくれ!」と願うと本当にホームランを打ってくれる勝負強さがあった。
しかし、反面三振も多くスタメンに起用されるとヒットがなかなか出なくてレギュラーに定着出来なかった。

でも、僕は大島が好きだった。
彼には中日ファンをワクワクさせる不思議な魅力があった。
打席に立つと何かをしてくれそうな男
それが大島康徳だった。

そんな大島がレギュラーに定着したのは、島谷がトレードされたのがきっかけだった。
サードのレギュラーをつかみ背番号も5番になると、その年、打率3割3分3厘、27本塁打をマークし打撃ベスト10の4位になった。
その後、36本塁打を打ってホームラン王を獲得するなどドラゴンズの看板選手になった。 

だがその後、少しずつ衰えが目立ち、星野監督時代の昭和63年に日本ハムにトレードになった。

中日はトレードには消極的な球団だったが、星野監督時代は毎年積極的にトレードを行った。
その中にはレギュラークラスのトレードも多く、大島のトレードも驚いた。

星野監督の中には戦力補強と同時に、衰えが来た選手に新たな環境を与えてやりたい、将来は指導者になるべき選手にはいろんな球団の野球を勉強させたい、という親心があったように思う。


大島は日本ハムで7シーズンを過ごし、ドラゴンズと合わせると26年の長い野球人生を送り、日本ハムの監督も務めた。

幸せな野球人生だったと思う。


僕の中で、大島が最も輝いていたのは、1982年の優勝時代だと思う。
近藤監督が野武士野球を掲げた頃だ。
投手で、小松辰雄、都裕次郎、牛島和彦、三沢淳、星野仙一。
野手は、田尾安志、ケンモッカ、中尾孝義、平野謙、そして4番は大島。
やはり優勝する時は、役者が揃っている。



現役を引退してガンを患っていると聞いて、ずっと気になっていた。

だが、不利な状況の中で、
一発長打で逆転してきた大島だけに、ガンもきっと克服してくれるのではないか…
そう思っていた。

その願いは叶わなかった。

でも、大島は悔いのない人生を過ごしたと思う。

ありがとう、
そして、お疲れ様でした。

野球人生の中で胸のすく沢山の長打をありがとうございました。
僕らドラゴンズファンは大島康徳の打席にたくさんの夢を見せてもらいました。


いまでも目を閉じると若い頃の40番の背番号の大島がバッターボックスに立ち、
バックスクリーンにホームランを打った姿が浮かびます。


本当にありがとう。

安らかに。







職域接種で新型コロナワクチンの接種を受けてきた。
接種したのは、COVID-19ワクチンモデルナ筋注
前もって配布された資料によると


「本ワクチンには、新型コロナウイルスが人体に感染する時に重要な働きをするウイルスタンパク質( Sタンパク質 )の設計図( mRNA) が含まれています。本ワクチンは、次のような過程により新型コロナウイルス感染症を予防します。


1. 本ワクチンの接種により設計図( mRNA )が細胞に届けられると、設計図をもとに細胞内でウイルスタンパク質( Sタンパク質 ) が作られます。


2. 作られたSタンパク質は、私たち自らの身を守る「 免疫 」システムにより異物として認識されます。その結果、Sタンパク質を標的にした抗体などの防御システムが作られます。一方、設計図( mRNA ) は体内で分解されて消滅します。


3. 作られた抗体などの防御システムは、同じSタンパク質を持つ新型コロナウイルスに対して作用することができます。この防御システムにより、新型コロナウイルス感染症を予防することができるようになるのです。」



ふぅん、難しいなぁ

ちょっと気になるのが、ワクチンの設計図であるmRNAが体内で分解されて消滅する、というくだりだ。

もし、分解されなかったら、どうなるの?



そんな疑問を抱きつつも、予想より早くワクチン接種が受けられるのはありがたい。

副作用が怖くて接種自体受けるか迷ったが、結局受ける事にした。


指定された大手の病院には沢山の人が既に並んでいた。

建物の入り口から並んで30分ほどでワクチン接種を受ける事ができた。

左の肩にチクッ

インフルエンザ接種よりも痛みは少なかった。



そう言えば、最近のニュースでは相変わらず新規感染者の数を読み上げて危機感を煽っているが、新たにワクチンを注射する映像がこれでもか、というほどに繰り返して写されるようになった、

あれは勘弁して欲しい。

もともと注射が大嫌い。

自分が打たれる時にはいつも目をつぶっている。

それなのに、注射する場面を何度も映されるのは拷問のようなものだ。

堪らない。

あれはやめて欲しい。




接種を受けてから15〜30分程度は施設内でイスに座って待つ。

異常がなければこれで終わりだ。

モデルナ製のワクチンは4週間後に2回目の接種をして終わりだ。


その日は特に痛みもなく帰宅した。

接種後は風呂に入ってもいいという事だった。


翌朝起きると腕が痛かった。

インフルエンザ接種よりも痛かった。

だが、この程度の痛みは普通なんだそうだ。

痛みは3日目にはかなり和らいできた。

ほっとした。


2回目のワクチン接種で高熱が出るケースが多いそうだ。

それを考えるとやはり心配だが、コロナ禍を克服するにはワクチン接種しかないと思うので、やっと先が見えてきたような気がした。