元中日ドラゴンズ、大島康徳さんが先月6月末に
ガンの為に亡くなった。
僕が中日ドラゴンズのファンになったきっかけは、1974年の二度目のリーグ優勝の年だった。
それまでセリーグは9年連続で巨人が優勝していて、ほかの5球団はまるで巨人の引き立て役だったのだ。
もともと僕はプロ野球には興味がなく、写真が趣味だった。
ある夜、僕は自分の撮った写真を自分の部屋で現像して印画紙に焼き付けていた。
真っ暗な現像液の匂いのする部屋で、赤い電球をたよりに、ラジオをつけた。
野球中継だった。
その年、中日ドラゴンズは巨人と首位争いをしていた。
夏になり、世間では今年は中日ドラゴンズが優勝するかもしれない、と盛り上がっていた。
相手はどこか忘れたが、中日は負けていた。
なんだ大した事ないじゃないか、と思いながら聞いていた。
大敗の中、ある選手がホームランを打った。
その選手はニコリともせずに、黙々とベースを回ってホームインした。
僕は何故かその実況を聴いていて、一瞬にしてその選手のファンになった。
その選手の名は、高木守道といった。
ただの負け試合だったのに、不思議とその日から僕は中日ドラゴンズのファンになった。
その年のドラゴンズは投手で、星野仙一、松本幸行、稲葉光雄、鈴木孝政。
野手は、高木守道、井上弘昭、島谷金二、木俣達彦、マーチン、それに大島康徳だった。
その年、中日ドラゴンズは20年ぶりにセリーグ優勝を果たし名古屋はドラゴンズフィーバーに沸いた。
僕は当然のようにドラゴンズファンになった。
その当時、大島はまだ背番号が40番で、代打が多い選手だったが不思議と「 たのむ!ホームラン打ってくれ!」と願うと本当にホームランを打ってくれる勝負強さがあった。
しかし、反面三振も多くスタメンに起用されるとヒットがなかなか出なくてレギュラーに定着出来なかった。
でも、僕は大島が好きだった。
彼には中日ファンをワクワクさせる不思議な魅力があった。
打席に立つと何かをしてくれそうな男
それが大島康徳だった。
そんな大島がレギュラーに定着したのは、島谷がトレードされたのがきっかけだった。
サードのレギュラーをつかみ背番号も5番になると、その年、打率3割3分3厘、27本塁打をマークし打撃ベスト10の4位になった。
その後、36本塁打を打ってホームラン王を獲得するなどドラゴンズの看板選手になった。
だがその後、少しずつ衰えが目立ち、星野監督時代の昭和63年に日本ハムにトレードになった。
中日はトレードには消極的な球団だったが、星野監督時代は毎年積極的にトレードを行った。
その中にはレギュラークラスのトレードも多く、大島のトレードも驚いた。
星野監督の中には戦力補強と同時に、衰えが来た選手に新たな環境を与えてやりたい、将来は指導者になるべき選手にはいろんな球団の野球を勉強させたい、という親心があったように思う。
大島は日本ハムで7シーズンを過ごし、ドラゴンズと合わせると26年の長い野球人生を送り、日本ハムの監督も務めた。
幸せな野球人生だったと思う。
僕の中で、大島が最も輝いていたのは、1982年の優勝時代だと思う。
近藤監督が野武士野球を掲げた頃だ。
投手で、小松辰雄、都裕次郎、牛島和彦、三沢淳、星野仙一。
野手は、田尾安志、ケンモッカ、中尾孝義、平野謙、そして4番は大島。
やはり優勝する時は、役者が揃っている。
現役を引退してガンを患っていると聞いて、ずっと気になっていた。
だが、不利な状況の中で、
一発長打で逆転してきた大島だけに、ガンもきっと克服してくれるのではないか…
そう思っていた。
その願いは叶わなかった。
でも、大島は悔いのない人生を過ごしたと思う。
ありがとう、
そして、お疲れ様でした。
野球人生の中で胸のすく沢山の長打をありがとうございました。
僕らドラゴンズファンは大島康徳の打席にたくさんの夢を見せてもらいました。
いまでも目を閉じると若い頃の40番の背番号の大島がバッターボックスに立ち、
バックスクリーンにホームランを打った姿が浮かびます。
本当にありがとう。
安らかに。