天国に届きそうな
ウェスト・バージニア
ブルーリッジ山脈
シェナンドー川
人の暮らしは樹々より昔から
山々よりは新しいが
そよ風のように続いてきた



カントリーロード
僕を故郷へ連れていっておくれ
僕の居場所へ
ウェスト・バージニアの母なる山へ
故郷へ連れていっておくれ
カントリーロード



すべての思い出が
彼女と共にある
鉱山の町で澄んだ水は知らない
空は暗く埃っぽい色
月の光まで煙るようで泣けてきた



カントリーロード
僕を故郷に連れていっておくれ
僕の居場所へ
ウェスト・バージニアの母なる山へ
故郷へ連れていっておくれ
カントリーロード



朝 僕を呼ぶ故郷の声が聞こえる
ラジオは故郷から遠く離れてしまったことを
気づかせてくれた
僕は思うままに車を走らせた
昨日故郷へ帰るべきだったんだ



カントリーロード
僕を故郷へ連れていっておくれ
僕の居場所へ
ウェスト・バージニアの母なる山へ
故郷へ連れていっておくれ
カントリーロード










ジョン・デンバーの歌う「故郷へ帰りたい」が
昔から大好きだった

英語で歌いたくて耳で覚えた歌詞をでたらめに歌いながら学校からの帰り道を歩いたものだった

ビートルズも同じようにでたらめに歌いながら歩いていた

英語の教科書よりも
そんな風にして覚えた英語が案外テストでは助けになった

ジョン・デンバーはカントリーとフォークソングを融合したような郷愁を誘ういい歌をたくさん残した

しかしある日ツアーの途中飛行機事故でこの世を去ってしまった

彼の歌の一つ
「悲しみのジェットプレイン」がなんだかダブってしまう


「故郷へ帰りたい」はバージニア州の州歌になっているという

アメリカって面白い国だ

テネシー州では
「テネシーワルツ」が州歌になっているという


先日久しぶりにカラオケに行った時
この歌を歌った

まだちゃんと覚えていて
しっかり英語で歌うことができた


う~ん
やっぱり名曲だと思った。






最近なんで寺山修司の書籍をよく見かけるのか
疑問に思っていたら

そうか
彼は1983年5月4日に亡くなったんだ
つまりあと少しで没後30年になるからだ
とやっと理解した



今回は徳間書店から出ている
「寺山修司と演劇実験室天井桟敷」より



1967年(昭和42年)1月
演劇実験室 天井桟敷は寺山修司、横尾忠則、東由多加、九條栄子らによって設立された

そして

「青森県のせむし男」
「大山デブコの犯罪」
「毛皮のマリー」
「花札傳綺」
「新宿版千一夜物語」
「怪談青ひげ」
「さらば映画よ」
「昭和白虎隊外伝 安保心中新宿お七」

と次々と新作を発表していく



この中で
「青森県のせむし男」と
「毛皮のマリー」
は美輪昭宏の為に書き下ろされたものだという


「毛皮のマリー」は
美しく悲しい40歳の男娼の物語




「鏡よ、鏡、鏡さん。この世でいちばんの美人は誰かしら?」

舞台はマリーが手鏡を持ち洋式の浴槽に入浴している場面から始まる

マリーの問いに西洋カミソリを片手に横に立っている下男が
「マリーさん」
と答えると
マリーが毛深い足を突きだす
そんなコミカルなシーンから始まって

やがてマリーの一人息子である欣也が登場する
もちろん実の母子ではない
途中ふたりの関係性がマリーの哀しい身の上話によって明かされる

話が進む中
美女の亡霊としてゲイバーのママたちも出演している

寺山修司はこの演出について
「あとになってからの『すべてのにんげんは俳優である』という立論の試金石になったものであった」
と述懐している




天井桟敷の旗揚げ公演の直前に
寺山修司は別の仕事の為に2ヶ月間海外に行くことになってしまった
台本は向こうから書いて送るという

更に当時シャンソン歌手だった美輪昭宏への出演交渉を後に寺山夫人となる九條栄子に手紙で頼んだという

「あなたは丸山(美輪)昭宏さんの友達なんだから芝居に出てもらえるように交渉してほしい」

彼女はSKDにいた頃からの美輪昭宏ファンで追っかけをやっていたから顔見知りだったそうだ

それで「青森県のせむし男」の台本を読んだら醜悪な老女の役だったので
絶対に断られると思ったという

その頃、美輪昭宏は銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」に出ていたので台本を持ってしぶしぶ会いに行った
そうしたら台本を読んだ美輪が
「栄子、やるわ」
と言うから頼んだ本人が驚いた


後日なぜこんな役なのに引き受けてくれたのか聞いたところ
「その作品が上質か上質でないか、それだけが勝負なんです。寺山さんの台本を読んだらこれは面白いと思ったからです」
と答えている

その後、寺山修司に初めて会った時に
「この芝居でなにを表現したいの?」
と美輪が聞くと
寺山がもぞもぞしているので

「あなたは待っているのが嫌だから自分で打って出たいんでしょと言ったんです。どんな文豪といえども客を待たなくてはならないところは、弁柄格子の向こうで自分が売れるのを待っている女郎と同じよ。あなたは待ち続けるのが嫌で客は私が選ぶのよというふうに自分から仕掛けていきたいんでしょ。文字で書くのは飽きて人間を使って、一人一人の人生を一文字一文字、一行一行にして立体的な詩を書きたいんじゃないの。天井桟敷の『見世物の復権』というテーゼは従来の見世物という側面もあるかもしれないけれど一人一人のいろんな人生模様を見世物にしたいんでしょ。そう言ったんです。そしたら、あなたはすごい人だ、恐ろしい人だというから、そうよすごい人よと言ったの(笑)」


なるほどなぁ
成功の裏にはこんな才人と才人の出会いがあったんだ
だからこそ後世に残るようなものが生まれたんだろうな
と妙に納得してしまった


「毛皮のマリー」はその後何度も再演されて海外でも上演された
2001年には美輪昭宏自らが演出、美術、音楽を担当しその集大成ともいえる美輪版「毛皮のマリー」が上演された


う~ん
どんな演劇なんだろう
一度舞台を観てみたいものだ。




仕事帰りに立ち寄った本屋で
寺山修司の特集した本が三種類並んで置かれてあった

思わず手に取って買ったのは

平凡社の
別冊太陽「寺山修司」






寺山修司は早稲田大学在学中に闘病生活を送る

病が癒えてから彼はシナリオライターとして頭角を現す
劇作家として1960年に
劇団四季に書き下ろしたのが長篇戯曲
「血は立ったまま眠っている」
である






「一本の樹の中にも流れている血がある。そこでは、血は立ったまま眠っている」
というみじかい私自身の詩から発想されたこの戯曲は、60年安保闘争との関係を省いて語ることは難しい。
私の中には、その頃から、
「政治的な解放は、所詮は部分的な解放にすぎないのだ」
といういらだちがあり、それがこの戯曲をつらぬく一つの政治不信となってあらわれている。
勿論、処女戯曲だけに、言葉ばかりがあふれ出し、劇であるよりは集団朗読的な様相を呈している。
要するに、この戯曲ははじめから、「文学」を目ざしており、そのことが決定的な弱点となっている。
それでも、23歳という若年で書かれたこの戯曲に、私が愛着をもっているのは、この戯曲の中にその後の私の演劇のあらゆる要素が萌芽しているからである。

(寺山自身による「解題」から)




僕は正直言って寺山修司のことをよく知らない
それでも彼が気になるのは


自分の好きなイラストレーター
宇野亜喜良

自分の好きな歌手
浅川マキ


が多大な影響を受けた才人というイメージが常に頭の片隅から消えることがないからだ



彼はその後「天井桟敷」という劇団を率いて革命的演劇人として活躍する



しかし
1983年5月4日
47歳の若さで亡くなった


もう30年も前のことだ
それでもいまだに彼の名前を時々耳にする


いったい
寺山修司とは何だったのか

寺山修司が伝えたかったのは何だったのか


いま改めて
それを知りたいと思う。