夏休みに入った。

僕はもやもやした気持ちを引きづったまま日々を過ごしていた。
机の前には一日のスケジュール表を貼っていたが、それは親を安心させる為に作ったものでしかなかった。
それによると朝昼晩と合わせて10時間の学習スケジュールになっていたが、とてもそんな風には集中力が続かなかった。



またプールで泳ぎたい気分だった。

それも月夜のきれいな夜に泳ぎたいと思った。



僕は満月の綺麗な、よく晴れた夜中に再び家を抜け出した。


もやもやしていた気持ちがスッと消えていくような美しい夜だった。

月明かりで影が見えるほどの明るさだった。


いつものように自転車をプール横の目立たない場所に止めるとフェンスをよじ登って中に入った。


誰もいない。


僕はいつものように静かにプールに入るとゆっくりと泳ぎ始めた。

月明かりがプールの水を美しく照らしていた。

不思議な幻想的な光景だった、


気持ちいいな…

勉強の悩みなんて小さな悩みのような気にさせてくれた。


泳ぎ始めて30分ぐらいした頃だろうか

誰かが来た気配を感じた。


松本か?


僕は泳ぎをやめてプールの中で身をひそめた。


「 明く〜ん!」


やった!松本だ!


「 明くん、久しぶりだね。どうしてた?最近来ないから、どうしてるのかな?って思ってたよ。」


嬉しかった。

松本が自分の事を考えてくれていたと知っただけで空に舞い上がっていくような気持ちだった。


「 なんとか勉強しなくっちゃ、って思って机に向かうんだけど、なかなかはかどらなくて。松本はどうしてるかな?ってよく考えてた。」


「 えっ、本当に?嬉しい!」


「 自分が松本みたいに勉強ができたらいいのに、きっと勉強が楽しくなるんだろうな、って。」


「 わたしみたいになっちゃ駄目だよ。わたしだって勉強が楽しいなんて思った事なんてないんだよ。勉強って苦しいよ。みんながわたしの事、ガリ勉って言ってるの知ってる。でも本当はわたし勉強好きじゃないの。いつも思い通りにならなくて、苦しくて、つらくて、泣きそうになりながら机に向かってるの。」


そうだったのか、そんな事、考えたこともなかった。


「 知らなかったよ。なんていうか、松本は別次元の天才かと思ってたよ。それ聞いて安心した。僕ももっと頑張らないと。」


「 全然違うよ。わたしなんてただの凡人。でも本当に勉強のできる人って異次元だと思う。勉強が楽しいって人、わたしがどんなに頑張っても勝てない人っているの。やっぱりそういう人って脳みそが違うんだよ。」


僕は松本が、「 脳みそが違う…」って言うのが可笑しくて笑った。


「 良かった。僕だけ勉強が嫌いじゃないんだ。松本がそんなふうに苦しい気持ちで勉強してただなんて想像もしてなかった。なんだか気が楽になったよ。ありがとう。」


「 わたし、今まで誰にもこんな話したことなかったの。でも不思議ね。明くんには素直に話せるの。」


ドキンとした。

松本がとても可愛い乙女に見えた。


「 わたしも泳ごうかな。」


恥ずかしそうに僕に背を向けると、着ていたパーカーを脱いで水着でプールに入った。


松本はクロールで水の中を滑るように泳いでみせた。

それは息を呑むような美しい泳ぎだった。

月光に照らされた美しい水の中を美しい人魚が泳いでいた。


僕はドキドキしながらその泳ぎに見惚れていた。


松本はプールを軽く2往復するとプールから出て僕の側に座った。


「 気持ちいい夜ね。月がとっても綺麗。」


「 うん。夢の中みたいだ。」


「 うふふ。本当にそうだね。」


思わず顔を見合わせて笑った。



その時、遠くからパトカーのサイレンが聞こえた。












プールから帰る時、彼女はまた僕を見送ってくれた。

自転車をこぎながら、

彼女の優しさに僕の心は温かくなった。



次の朝、僕は上機嫌で学校に行った。

人は恋をすると、退屈な毎日が一変するものだと僕は初めて知った。

青い空も、道端の花も、生き生きとして輝いて見えた。

そんな風に感じたのは初めてだった。


友達にも笑顔で挨拶ができた。

休み時間に同じクラスの山下と話している時に女の子の話になった。

誰が可愛いか、といった他愛のない話だった。


山下は隣りのクラスの仲井が可愛いと言った。

ショートカットで目のクリッとした女の子で、確かに可愛い子だった。


「 明、お前は誰が可愛いと思う?」


山下に聞かれて


「 あのさ、一組の松本って結構可愛いくない?」


「 え〜、お前趣味悪くないか。あのガリ勉の松本のどこがいいんだ?顔だって真っ黒だしな。」


「 いや….、なんていうか、健康的でいいと思うんだよ。」


「 まあ、人それぞれで好みは違うから、いいけどな。俺はちょっとパスかな。あっ、でもアイツ付き合ってるらしいぞ。」


ドキンとした。


えっ?誰と?

彼女と話した時、そんな話は出なかったけど…


「 生徒会長の二組の三浦だよ。松本も生徒会やってるからかな。優等生同士のカップルってとこだな。まあ、噂だけどな。」


ショックだった…。


噂だけかもしれないけど、

本当かもしれない。



確かに生徒会長の三浦ならお似合いかもしれない。


それに比べて松本と僕では、月とスッポンだ。

学年トップクラスの松本なら、志望校は当然市内最難関のE高校だろう。

僕なんかは逆立ちしたって行けない。

もし僕がE高校を受験したいと言ったら、担任は全力で止めるだろう。


三浦か…。


朝の高揚感はわずかな時間で吹き飛んでしまった。

こんな事なら女の子の話なんかしなければ良かった。

どうせ叶わぬ恋なら少しの間だけでも夢を見させて欲しかった。


暗い気持ちで廊下を歩いていると女の子のかたまりがいた。

あっ、松本だ!

そう思った時に彼女と目が合った。


彼女は一瞬だけ僕に微笑んだ。

でも、次の瞬間にはまた女の子達の会話に戻っていった。


でも僕は嬉しかった。

僕らは秘密を共有した仲間なのだ。

学校では知らないフリをしても、

彼女には付き合ってる人がいても、

僕らは二人だけの特別の存在なのだ。


そう思いたかった。

そう思っていたら幸せだから。



そういえば、昨夜は何故彼女はGパンだったのだろう?


風邪でもひいていたのか?

いや、そんな話はしてなかった。

何故…。


いろいろ考えた末に出た結論は、

彼女は昨夜、「 あの日 」だったのではないかという事だった。

もしそうなら泳げないもんな。

僕だってそれぐらいは分かる。

来年は高校生だからな。


まてよ、もしそうなら

そんな時でも、僕に会いたいと思って来てくれたのではないだろうか。


もしそうなら…

その気持ちだけで充分じゃないか。

数学の授業中、僕はそんな事をずっと考えていた。


「 坂道の途中で、拾ったような恋…」


昨夜聴いたラジオから流れた、歌手もタイトルも分からない歌が、僕の頭の中で流れていた。


そう…

僕の恋は、歩いていて偶然拾った石ころのような恋だ。


でも、いまでは大切な宝石のような石ころだ。

どうなるか分からないけど、

大事にしたいな。


授業中、外の風景を眺めながら

僕はそんな事をボンヤリ考えていた。










今度はいつ行こう?


そんな事ばかり考えていた僕は

夜中の勉強がだんだんと身が入らなくなっていた。


気持ち的には次の日にでも行きたいと思っていたが、彼女が来るとは限らないではないか。

第一そんなにガツガツしていたらドン引きされるのではないか。

それでは、せっかく芽生えた恋の若葉が…


あっ!自分で恋って言っちゃった!

駄目だ、駄目だ、一回打ち解けて話したぐらいで女に恋しちゃあ。



勉強机に座って参考書を手に、僕はそんな風に自分で自分に突っ込みを入れていた。


いろいろと悩んだ末に僕はまた3日後の夜中に部屋を抜け出した。


深夜の道路を自転車を飛ばしながら僕はドキドキしていた。


来るかな、来ないかな、来るかな、来ないかな、

来て欲しいな、でも会ったら何を話そう。

来なかったら、もう会えないような気がする。


プールに着くと僕の心臓は爆破寸前だった



プールには誰もいなかった…


僕の心臓は一気に萎んでいった。

そりゃそうだ、そんなドラマみたいな話がある訳がない。


こんなものだ、

現実はこんなものだ、

恋愛ドラマのようにはいかないのだ。

こんなものなのだ。


そうだ彼女が悪い訳ではない。

むろん僕が悪い訳でもない。

これが現実なのだ。

これが人生というものなのだ。



そう自分に言い聞かせながら、

僕は平泳ぎでゆっくりと水の中を泳いだ。

少しだけ涙が出た、

プールの中だから水が涙を消してくれた。

「 雨が降る日を待って、さらば涙と言おう…」

森田健作の歌の意味がよく分かった。


もうこんな事は辞めようか、

初めは一回だけのつもりだったのだから、


こんな事をやっていたらいつかは見つかってしまうだろう。

文字通り頭を冷やしたら帰るとするか…



そんな事を考えながら泳いだ末にプールから上がった。



「 待ってたよ。明くん!」


暗がりから現れたのは太田だった。


僕はみるみる自分の顔が笑顔になっていくのが分かった。

情け無いほど僕はニヤけていただろう。


「 太田、また会えた!」


「 また会おうって約束したじゃない。」


太田は笑顔でそう言った。


彼女はGパンと白いTシャツだった。


眩しかった。

普段の制服姿と違って少しだけ大人っぽく見えた。


彼女は無邪気に沢山喋ってくれた。

僕はウンウンと頷きながら彼女の顔を見て聞いていた。

生き生きしてるな。

彼女の表情は輝いて見えた。


なんだか僕よりお姉さんみたいだな。

不思議だ。


女の子はちょっとした事で大人に感じることがある。

きっと男より精神的にずっと大人なのかもしれない。


僕は彼女に見とれながらそんな事を考えていた。