「オマケちゃん、この前借りた本な。凄く面白かったわ。まだ途中なんやけど、ええ本やな。なんや、こういう考え方もあるんやな、と思ったわ。ありがとうな。」


しばらくして、いつものメンバーで「樹海」に行った時にケイちゃんにそう言われた。


「それなら良かった。あの本は物の見方を広げてくれるとてもいい本だから最後までしっかり読んで欲しいな。」


そんな話をしながらいつものようにカラオケで歌った。

だんだんと僕のレパートリーも増えてきて、その場の雰囲気に合った歌も歌えるようになってきた。


その頃よく歌ったのが「さすらい未練」という歌だった。

北海道から始まり、日本列島を南下していきながら恋する心情を歌いつつ、九州まで舞台を繋げて行く軽快な歌だった。

要するに出張族の僕にはピッタリの歌だったのだ。

例えば鳴門の渦潮にかけて、

「恋の渦潮、濡れた頬、何度死のうと思った事か、夢を消された室戸の岬、いやっちゃしなちゃの桂浜…」

といった感じの歌で結構うけたので、調子に乗ってよく歌っていた。


しかし、仕事に関して言えば、一人で回るようになってからはあまり順調な仕事振りではなかった。

人と対面する仕事は、嬉しい事もあったが、不愉快な事をズバズバ言われる事も多く、メゲる事も多くて、僕にとってはメンタルを維持するのは難しい事だった。


数ヶ月過ぎたある時、

「ケイちゃん、店を変わるらしいよ。」

細井さんがそっと小声で教えてくれた。


「えっ?ここを辞めちゃうって事ですか?」


「うん、そうみたい。」


「さみしくなりますね。」


「そうだね。」


みんな知ってる事だった。

僕だけ知らなかったのだ。


「来月から違うお店に行くことになってん。難波のダンボって言うとこやねん。でもな、たまにここにも来るからな、また会えるし。よかったらダンボにもよって。」 


「うん、分かった。でも寂しくなるね。」


そう言うとケイちゃんも少し寂しそうに笑った。

理由はよく分からないけど、ママもケイちゃんも話し合って納得した上での事だったようだった。


小野田さんが、

「お腹が空いてきちゃった。焼きウドンありますか?」

と言うと、

「はいよ、毎度あり!焼きウドン一丁!」

とケイちゃんが笑いながら言った。


残念だな、せっかく仲良くなれたのに、もうあまり会えなくなるんだな。


夜が更けて、小野田さんお得意の布施明の

「そっとおやすみ」を歌って帰った。


いつものように会計は先輩が払ってくれた。

僕は一度もここでお金を払った事がなかった。


自分はそれが心苦しくて、何度も自分も払います、と言ったがガンとして受け付けてくれなかった。


「これが寮生の伝統や。新人には払わさん。その代わり、貴方に後輩ができたら払ってやってくれ。それでいい。」

いつも中井さんはそう言った。


帰り道、細井さんに聞いた、

「なんでケイちゃん、店を辞めるんですか?」


「さあ、よく分からないけど、結局お金の事じゃない?あの店そんなに繁盛してるってほどじゃないでしょ。」


確かに細井さんの言う通りだった。

「樹海」は10人も入ればいっぱいになるような店だった。

でも、満席になっているのを見た事はほとんど無かった。

それではママさんとケイちゃんの給料を捻出するのも難しいのかも知れない。


客としては空いてるのは有り難いが、店にとっては死活問題に違いないのだろう。






僕が大阪にいる一週間は、仕事が終わるとほぼ毎日先輩達に「樹海」に誘われた。 

僕はもともと外交的なタイプではなく、お酒もあまり好きではなかった。 

なのでたまには寮の部屋でのんびり読書したり、テレビを見たいと思っていた。 


しかし、寮での夕食が終わるといつも中井さんが右手で飲むジェスチャーをして、

「そろそろ行こうか?」と誘われるのだった。 


 「はい。行きましょうか!」 

と心にもない笑顔でいつも僕は答えた。

 それは毎月の4分の3は大阪にいないからだった。

少しでも会社の人との信頼関係を作っておきたかったのだ。

僕がずっと大阪にいて毎日誘われたら、流石に時々は断っていたと思う。 

それに先輩が毎日僕をスナックに誘うのは、単なる遊びではなく営業マンの勉強の一つだと思っていたと思う。 

実際、たまに会社の女の子も一緒に行く時は、

「もっと積極的に女の子をリードしなくちゃいかん。」とか、 

「営業って言うのは、ギブ、アンド、テイクじゃない。ギブ、ギブ、ギブ、ギブ、ギブ、アンド、テイクなんだ。」

 という感じで懇々と言われたものだった。

 ただ、ほとんどの場合は単純に楽しい時間だったので誘われる事は嬉しかった。


僕はビールよりウイスキーの水割りの方が好きだ。

グラスを持って琥珀色の酒を眺め、口に含むと大人の世界に入っていくようだ。

グラスの中の氷が溶けてカランとたてる音が好きだ。


カラオケのレパートリーも増えていった。

先輩の歌う歌や他の客が歌う歌で気に入ったものを密かに練習した。


「大阪ナイトクラブ」

「恋する御堂筋」

「昨日の女」

「星降る街角」

「夜の銀狐」

「さよならは五つのひらがな」


中にはこんな歌聞いたことがない、という歌もあった。

その中の一つが

「三つで五百円」

という歌だった。


この歌を歌ってくれたのは細井さんだった。

「上司の宮本さんがよく歌う歌なんだけど、変わった曲なんだわ。」

と言って歌ってくれた。


「いかがでございましょうか?いかがでございましょうか?三つで五百円でございます。演歌、フォークからコンチネンタルタンゴまで。三つで五百円でございます。いかがでございましょうか?いかがでございましょうか…」


酒場にギターを持ってふらりと現れ、酔った客に好きな歌を三曲聴かせて500円をもらう、そんな流しのギター弾きの悲哀を歌った歌だった。


「初めリクエストされて、そんな曲あんのかなぁ?と思ったら、カラオケにあったわ。」

ケイちゃんが笑いながら言った。


「ほんまになぁ、うちらよりお客さんのほうが良く知ってるわ。」

とエキゾチックなママも笑った。


「オマケちゃん、もう仕事慣れた?」

ケイちゃんが言った。


「う〜ん、まあ少しは慣れたけど、いろいろ失敗もあるしね。日々勉強かな。」

と笑うと、


「せやなぁ、毎日勉強。死ぬまで勉強やな。うちも最近、勉強したいなぁ、って思うねん。接客業だからこれでも毎日新聞をよく読んで店にくるんやで。でも、それだけじゃもの足らなくて、なんか哲学の勉強がしたいと思うねん。」


「えっ?いきなり哲学?」


「うん。オマケちゃん、なんかわかりやすい哲学の本知らん?」


「う…ん、ちょっと調べてくるわ。」


「悪いけど頼むわ。」


いろいろ調べて悩んだ結果、僕が持っていた高橋庄司さんの「ものの見方考え方」という本を選んだ。

僕が大学時代に先輩から勧められて、読んで感動した本だ。

とても分かりやすくて、しかも新しい考え方を教えてくれる素晴らしい本だった。


次に店に行った時にケイちゃんに渡した。

「ありがとう、オマケちゃん。しっかり読ませてもらうわ。」

ケイちゃんは嬉しそうにそう言った。









酔っ払ってしまった二人をなんとか起こして寮に帰ろうと思ったが、どちらも起きてくれなかった。

「ええやん、無理に起こさんでも。少し寝かせてあげれば、そのうち起きるで。」
ケイちゃんはあまり気にせずにそう言った。
細井さんも諦めてケイちゃんの持っていたゲームをやり始めた。

「二人とも、コーヒー入れようか?」

ケイちゃんの入れてくれたコーヒーを飲んでしばらく様子を見ることにした。

「ケイちゃんの叔母さん、いい人だね。」
僕が呟いた。


「せやろ、うち、叔母さん大好きやねん。一番頼りにしてるねん。」


「ケイちゃん…家族は?」


「………..、………、うちなぁ、お母さんもお父さんも知らんねん。小さい頃から叔母さんに預けられて育てられてん。」


「…… そうなんだ。」


僕は予想してなかった返事に返す言葉が見つからずに困ってしまった。

どういう事?

死別?生き別れ?

叔母さんってどっちかの姉妹?

一番触れて欲しくない話題だった?



「叔母さんな、和歌山で芸者さんをしてるねん。そんでな、いまでも時々電話してるんや。」
しんみりとした口調でそう言った。

「ふぅん、そうなんだ…」
続ける言葉に困った僕は
「さっきの電話で励まされたわ。オマケはオマケじゃない。頑張れ、って。」

ケイちゃんがニッコリと笑った。
「あはは。叔母さんらしいなぁ。うちもいつも元気をもらうねん。」


そんな話をしたり、テレビを見ていると12時近くになった。

突然、中井さんがムックリと起き上がり時計を見て驚いた。


「ケイちゃんごめんな。もう帰るわ。ほれ小野田ちゃん、起きて。」


なんとか小野田さんを起こして帰ることにした。


「ありがとうな。楽しかったよ、ケイちゃん。」

中井さんがお礼を言って千鳥足で寮まで帰って行った。


寮に帰るとすぐに布団を出して寝てしまった。

いつも元気いっぱいの笑顔だったケイちゃんの知らなかった人生を覗いてしまったような気持ちだった。


深い眠りに落ちていきながら、今日の会話が頭の中を駆け巡っていた。