〇カギ回しの二つ目の要素は目的とするスライドの視覚化である。鍵を回してから、頭の中でスライドを映し出す。目的が達成した状況にいる自分を想像してみよう。スライドに愛着を感じるよう、自分がスライドの中で味わう感覚を想像してみよう。取り巻いている状況に両手で触り、首尾よく手に入れることになる音、匂い、そりほかの感覚をイメージしよう。あなたの中で数分間スライドを映し出そう。見慣れた場所を穏やかな気持ちで歩いているときに、カギ回しを行うことが望ましい。四方を見回してもよいが、スライドに集中するためには、自分の足元から前方を見る方がよい。
 スライドの中にいる自分をある程度はっきりとイメージすることが出来たら、意識的な視線を前方に向けてみよう。何も思考したり分析したりせず、前方の遠くに見えるものをただ澄んだ眼差しで眺めよう。澄んだ眼差しというのは、カギ回しの三つ目の最後の要素である。
 数秒以内にあなたが見ている前で周囲を取り巻く舞台装置のニュアンスに変化が生じ事だろう。見慣れだ風景を済んだ眼差しで眺めてみると、ほとんど同じに見えても、その中に何か違うものがあると気づくだろう。かろうじてとらえることのできる説明できない何らかのニュアンスが加わっているのである。まるで以前にそれをどこかで見た事があるかのようだ。あるいは、何か新しいこと、普段とは幾分違ったことである。画像の具体的な細部のことではなく、何らかの余韻、感覚、気分・・・・ニュアンスである。
 例えば、あなたが何度も見たことのある家を眺めたとしよう。しかし、今はその色彩や照明などが違う事に気付き、以前に別の状況でそれと似たような体験をしたことを思い出す。ケースによっては、過去にあなたに起きた、何か見慣れたことのはっきりした感覚が生じるかもしれない。おそらくあなたは、過去の感覚が突然記憶によみがえるという不思議な思いを持ったことがあるだろう。過去についての思いではなく、まさに過去の感覚…デジャ・ビュである。
 このような思いを持つ瞬間は大変頻繁にあなたに訪れているのだが、何も気づかないだけなのである。なぜなら、状況をそのまま受け入れている、言い換えると、覚醒状態で眠っているからである。そこで気分転換は、すぐ目の前で世界が変化していく様子にあなたが気づくことを可能にしてくれる。あなたは何か見慣れたものを漠然と感じるか、あるいは逆に、いつもと違う新しいニュアンスが現れたことを感じる。
 されではいったい何が起きているのだろうか。亜空間において、あなたの世界の層の物質的現実化が進展しているのである。あなたは何を見ているのだろうか。あなたは舞台装置のニュアンスの移り変わりを目にしてるいるのである。
 ご存じのように、亜空間における様々なセクターは異なるシナリオと舞台装置を持っている。セクター間の総体的な距離によって、違いの現れ方も強弱まちまちである。物質的現実化の進展は均等に起こるため気付きにくい。物質的現実化の進展は、小さな時計の分針の移動にも似て、捉え難い。ニュアンスの際立った変化が感じられるのは、一つの人生ラインから別の人生ラインへとかなり劇的に乗り移ったときだけである。そのような場合、あなたは明らかに注意を喚起するようなサインと遭遇する。
 カギ回しのプロセスでは、目的とするスライドの視覚化が魂の意図の風を急激に強める。あなたの思考エネルギーの放射パラメーターは、現在いる人生ラインと大きく異なってくる。鍵を回すことで、あなたの思考によって変調された放射エネルギーが強まる。その結果、セクターからセクターへの物質的現実化の進展が促進される。澄んだ眼差しは、あなたが目を覚まして変化捉えるよう、波長を調整してくれる。魂の意図の突風が吹いているわずかな瞬間に、舞台装置のニュアンスの移り変わりに気付くことができるのは、こんな理由からなのである。
 カギ回しは、歯を磨いたり髪をとかしたりするときのように、冷静に行っていただきたい。自転車に乗ることと同じように、すぐにはできないかもしれない。カギ回しを行っているとき、あなたは魂の意図に触れる。という事実を無視してはならない。だが、魂の意図は捉え難くコントロールする事も困難な代物である。あなたの望むことがすぐにはうまくいかなくて身も、軽い気持ちで接するようようアドバイスしておきたい。それでも必ずうまくいく時が訪れることだろう。カギ回しは自然な気持ちで試して見るのであって、努力したり、力をふり絞ったり、技法そのものに大きな意義を与えたりしてはならない。まったく違った自分流のやり方を見つけ出すことだって十分にある得るだろう。あなたの都合の良い時や何らかの合間にでもやってみよう。気分転換の重要性が低ければ低いほど、良い結果が得られるだろう。緊張状態になければ、全ては簡単にいくことになる。

〇事象選択ではたくさんの信じられない事があるが、私は信じてくれるようあなたに頼んでいるのではなく、試して頂きたいのである。勿論、試してみるにはあなたの意図、いくらかの努力、それに忍耐が不可欠である。なぜなら、結果がすぐに表れるわけではないからである。ほとんどの場合、魂の意図はゆっくりと気づかない内に作用する。もしブログをただ単に読むだけで、事象選択の実践を何も行わないのであれば、いつの間にか作用する、謎に包まれた、目に見えない力の存在を信じることは難しいだろう。
 しかし、とうとうあなたが亜空間を進んでいることを自分の目で確かめられる時が訪れたのである。あなたは時間軸を前進することも交代することも可能であると納得する事だろう。それは空想小説の作家が描くような旅行とは似ていない。私たちは実在する物事だけ相手にしている。いま述べているのは、魂の意図の作用による結果を待たされる事はなく、すぐにあなたはすべてを自分の目で確かめることになる。そして、それはトリックなどでは無いし、アストラル界や夢見空間へ離脱する実験でもない。ほんの瞬間、あなたは時空における移動を現実のものとして感じるだろう。この実践プロセスは、三つの要素から構成される処理と、それほど難しくはない一つの行為にまとめられる。
 一つ目にの要素を実行するためには、自分自身の中心部を通るエネルギーの流れについて思い出す必要がある。もしあなたがすでにエネルギー体操を行っているのであれば、エネルギーの流れる感覚はあなたにとってお馴染みとなっているはずである。最初に、内なる視線を前進にさっと注ぎ、緊張している筋肉を緩め、リラックスした状態になろう。その後、エネルギーが背骨より前を上昇・背骨に沿って下降する動きをあなたの中でイメージしよう。
 エネルギーの泉が勢いよく溢れ出るようになるためには、効果的なやり方を用いることが出来る。身体の中心部から前方と後方へ水平に二本の矢が出ていると想像してみよう。矢は胴体から二十、三十センチ、またはそれ以上出ていることにする。次に思考上で矢の向きを変えてみよう。前方の矢は情報へ、後方の矢は下方へ向け、両方の矢が背骨に平衡になるようにする。すぐにエネルギーの流れが明らかに活発になった感じがしてくるだろう。
 この体操は立ったままでも歩きながらでも行うことができる。あなたはまるで中心部を通るエネルギーの流れを始動させる鍵を回しているようなものである。エネルギーの流れを泉に変えたり、融合させて球体にしたりすることを、どうしても行わなければならないという事はない。大事なのは、エネルギーの流れがあなたを貫いているとイメージすることなのである。だが、もしまだそれを感じなくても問題はない。実践する内に、アリルな感覚が訪れるだろう。散歩中や移動中にこの訓練を行ってみよう。緊張が取れ、快適な気分になるだろう。鍵を回すことは、気分転換の一つの要素である。
 この一つ目の要素は、リラックスした状態に入ることが急に必要な時、どのような状況であっても実行可能である。日に何度もカギを回して見ていただきたい。何か心配事があるときには特におすすめする。カギを回すことで緊張がほぐれて行くことを数すぐに実感するだろう。私たちは皆、常に大小の問題によって抑圧状態にある。重苦しさは無意識のうちに筋肉に現れる。ほうら、あなたは歩きながらでも、何か気分の滅入る、不安で、不愉快なことについてあれこれ考えているのである。そんなときに鍵のことを思い出して、それを回してみよう。筋肉のどこかが凝っていたのに、もう緊張がほぐれて、あなたはほっとしていることだろう。
 一日のうちでできるだけ頻繁にカギを回すという習慣を身につけると、良いことがある。そうすることにより、常に意図のエネルギーを解き放ち、あなたをひっきりなしに苦しめる過剰ポテンシャルから浄化してくれる。それは制約の箱を開けるカギだと思っていただきたい。重苦しい状況によってあなたは制約の箱に終始閉じ込められているのである。鍵はあなたを重要性から解放してくれるわけではないが、肉体的にもエネルギー的にも重要性をずっと軽減してくれる。

〇人生ではだれもが後で後悔すような間違いをたくさんしでかす。あなたはかつて目指していた目的から遥か遠くへ行きすぎてしまったと思っているかもしれない。すべてが失われたわけではないのなら、事象選択によって状況を改善すれことができる。たとえもし、かつての目的を追いかける事が客観的に見て手遅れであるならば、新たな目的を見つけることだって可能である。あなたの目的は一つではない。だから年齢を問わずチャンスがあるわけでそれを利用しない手はない。
 あなたがしでかした間違いは、あなたの肥しである。もしこうしたスタンスを取るのなら、輝かしい成功があなたを待ち受けている。成功をつかんだ全ての人々は、数多くの失敗も経験してきた。「失敗を知るものは、知らぬものより尊い」ということわざも故あっての事である。成功を収めた優秀な才能の持ち主たちには、辛酸をなめた過去がある。彼らの人生のそうした側面については、あまり語られないだけことだ。そんなわけなので、大きな過ちを犯したり、失敗の憂き目にあったら、喜びたまえ。あなたは成功に向かう途中にいるのである。自分を責めてみたり、愚痴をこぼしたり、人生への不平不満を並べ立てたりすると、幾度となく失敗に見舞われることになる。あなたから見て不必要と思われるあらゆる体験は、目的とする人生ラインへ向かうのに必ずや役立つのである。
 新たな希望が現れると、無気力状態から抜け出すことができる。すでに力尽きてよろけながら砂漠をさすらう動物であれ人間であれ、地平線の向こうにオアシスがあるのを目にすると、疲れ果てている事をわすれてしまう。すぐ隣の小窓が開いているのに、ガラス窓にぶつかっているハエを尊像してみよう。目的を目にしながらも、それに向かって一目散に飛んでいくべしという事が、ハエの頭には一生を通じて叩き込まれている。ハエは目的を認識し、ガラス窓にぶつかるが、何の成果も得られない。これと全く同じことがあなたにも起きている。あなたは、どのようにして目的を達成すべきかわからず、選択する自由を奪われ、現状で満足せざるを得ないのである。しかし、すぐ隣にある小窓の存在を知ってしまった今となっては、たとえそれが目には見えなくても、あなたには希望が生まれつつある。希望があれば、意図のエネルギーは解き放たれる。
 行動し始めるには希望が必要である。行動に取り掛かれば、リンゴが空へと落下する様子を目にするだろう。希望が自分の役目を終える頃、あなたは選択の自由を自覚するようになる。すると、あなたはこんな独り言口にする。私は欲せず、期待せず、意図する。
 あなたの人生で幸せだった時期を思い出してみよう。そ頃耳にした音楽の旋律が、時折そんな記憶を呼び起こしてくれるかもしれない。希望に満ち溢れ、人生はお祭りとまでは行かないまでも、お祭りへの準備中と思われたあの気分の名残が一瞬訪れることがある。そんなとき、あなたは失ったもの郷愁に駆られる。それはもう戻ってはこない遠く過ぎ去った日のことであると思うと悲しくなる。本当に何も取り戻すことはできないのだろうか。
 「過去へ向かって出発進行」という言葉の意味は、最後まで読み進む事でわかることになる。いままでの事象選択はすでに驚くべき発見を少なからずあなたにもたらしたことと思う。たぶんあなたは「今度は何をやろうというのか?」と興味津々と言った面持ちであろう。あらゆる時間のトリックは空想小説のジャンルにおけるゆるぎない根拠になっている。理論物理学は時間旅行の可能性を排除していないにもかかわらず、その実現性については大きな疑問が持たれている。
 確かな時間移動は非常に疑わしく思われるが、それは観察者がどの地点に存在しているかにかかっている。平面に住む二次元の人間に関するモデルを思い出してみよう。彼らは三次元がどこにあるのか理解できない。四次元空間から見れば、私たちが住んである三次元空間も平面に見えることだろう。合理的な理性はこういう。「すべての理論モデルは私の抽象概念にすぎない。しかし、私は目に見えるものを見るのである」

〇理性に事実が突きつけられた時、リンゴは空へと落下する。そうすると理性はコントロールを手放し、事実が成し遂げられることを容認する。状況が理解不能であることは意味がなく、重要なのはその状況が現実に起こっているという事の方である。私たちは人々が自転車に乗っている世界に住んでいる。もし誰もが空中を飛んでいる世界に、ある人が偶然入り込んだら、その人も飛行し始めるだろう。
 既に述べたように、人は思考エネルギーの放射を自分の目的とする人生ラインに同調しつつ、魂の意図のメカニズムを始動させる。あなたは思考上で目的とするスライドを映し出しプロセスの視覚化を行う。すると、魂の意図の風が事象の空間におけるあなたの世界の物質的現実化というフリゲート艦を徐々にゆっくりと動かす。あなたが思ってもみなかった可能性が開けてくる。そのうえ、魂の意図があなたを目的に近づけるように影響を与え始める。
 注意してもらいたい、時々、状況が大変不可解な形で変化していくように感じることがある。しかし、いったいどの道があなたの目的へと通じているのか、全くわからない。レストランで頼んだ注文の品をどのように調理すべきか、あなたがコックに指導できないのと同じことである。理性には全ての展開を前もって予見する能力がないことと目的の実現方法を知らない事をいつも覚えておくこと。普通のやり方ではうまくいかないのだから、なぜまたいつもの固定観念の枠に押し込もうとするのか、目的達成の手段と道筋についての心配は魂の意図に任せよう。事象の流れを信じること。あなたは知らないうちに目的へ近づくために行動することになる。
 魂の意図は次のように働くのである。もし今のあなたが、雨に濡れながら寒い戸外のぬかるだ道を歩いていて、気乗りのしない職場へ向かう途中であるとしても、心に祝祭の喜びを抱いていれば、間もなくすべての嫌悪感は消え去ることになる。あなた自身それを実感することになる。あなたは今の周囲の状況に自分のパラメーターを同調させることをただ止めるだけである。
 今も私はあなたを説得しようとしているのではなく、希望を呼び起こそうとしている。信念の迷路の壁が崩壊すると言う希望あるはずである。このような希望を持たずに事象選択を実践することは不可能であり、そもそも事象選択を試そうという気にもならないだろう。希望を抱くことで、理性の足場がしっかりし、魂は活気づくのである。
 腹立たしい不快事や厄介な問題の直面した人々は、コマにエネルギーを与え、不安、力の衰え、状況による抑圧感を感じる。人は、戦闘準備の体制にあるか、または両腕がだらりと垂れ下がった状態にあるかのどちらかである。そして、どちらも異常であり、ストレスやうつ状態を招くことになる。心の安らぎは乱れ、支えは失われ、自信は根底から覆されてしまう。心の支えを得ようとして、人々はタバコ、アルコール、麻薬などに救いを求める。しかし、その結果、新たなコマに隷属する羽目に陥る。
 もし目を覚まして問題含みの状況が生じた経緯を認識すれば、支えとなるものは自分自身の中に必ず見つけ出せる。問題はコマによってもたらされた。そこに不可解な点は何もない。危険なのは問題そのものではなく、問題に対してあなたが取る態度にある。もし問題の重要性を受け入れると、それはつまりコマにエネルギーを与えることになる。問題含みの状況では、全力を振り絞って戦ったり、または両腕をだらりと垂れ下げて鬱状態に陥るよう、必ずコマがあなたに要求するどちらの要求にも応じてはならない。しかし、心の支えが失われ、自信も根底から覆されたら、いったいどうすればよいのか。その時は、コマがあなたを支配し、エネルギーを頂こうとたくらんでいることについて、自分は理解しているのだという認識の中に、支えとなるものを見出せるだろう。
 単なる知識がどうやって助けや励ましになるのか不審に思われるかもしれない。もっともな話である。希望というのは、全てが失われたわけではなく、出口はあるという事についての知識でもある。問題をはらんだ状況のメカニズムに関する理解は、希望と同じくらいの値打ちを持っている。あなたはもう操り人間でも紙の船でもない。あなた自身、何が起こっているのかを理解でき、意識して腹の中でニタリと笑い、こう言ってやることができる。「コマよ、いい加減にしたらどうだい。お前さんにあげるエネルギーはないんだよ。私に掴みかかりたい性分なのはよくわかるが、無駄だ。その問題が重要だと思わせようったって、そうはいかない。私には選ぶ権利がある。お前さんからの自由というものを選ばせてもらうよ」

〇さてさて、この辺りで目を覚まし、意識性を高めてみよう。たった今、私があなたを納得させようとしていたのは何だったのだろうか。信念を探し出そうとして迷路の中を私が引っ張りまわしているような気がしなかっただろうか。もしあなたが私を「信じた」のなら、あなたはまんまと罠にはめられたことになる、親愛なる読者の皆さん、どうか怒らないでいただきたい。私はただこの望みの無い迷路の中で理性がどのようにして彷徨っているのか試しにお見せしたかっただけなのである。私たちが放浪を始めたのは、「だからこそ大変重要な一歩を踏み出す必要がある…」という言葉からである。その後、「信念」とまだ得られてはいない「知識」とをこっそりすり替えようとする試みが続いた。しかしながら、本質はこんなことをしても変わりはしない。コマがあなたの信念獲得使用うとするとき、まさしくこのような働きかけをしてくるのである。
 心配ご無用。事象選択は理性を補足する罠などではなく、私がブログで述べていることも思索を鍛えるための産物ではない。そして、もしあなたがこれまで読んできた文章を、信じるようにとのアピールではなく、自由を手に入れる希望として受け止めてくれるのなら、たった今ほんの少し彷徨い歩いたことも罠てはなくなる。自分と無縁であるはずの信念は、コマのみに必要であって、事象選択にとってそのような信念抱くことは無益なだけなのである。
 私はあなたを説得しようとはしていない。それどころか、全く別の目的を追いかけているのである。それは、制約という箱から脱出し、覚醒した状態で見ている夢から目を覚ますために、慣れ親しんだ固定観念を打破するという事である。目が覚めたあなたは、自分の夢を操ることができると認識するそのためには、信じる事は必要とされていない。行動してから、どうなるか見てみよう。信じるのではなく、試してみるのである。事象選択が実際に効き目を持つと納得したら、そのことを知るという事にもなる。
 自分の力や勝利を断固として信じれば、すべてを達成することができる。おそらくあなたはこのようなことを一度ならず聞いたことがあるだろう。「あなた方の信仰通りのことがあなた方に起こるように」というのは優しい。ところで、そんな振興や信念をどこで手に入れたらよいのか。疑念から逃れるにはどうすればよいのか。やはりどうしてもあなたは疑念から逃れられないのである。信念を得ようとするのは、無駄な努力である。もしあなたの心に疑念の影が差したら、どのように説得されようが、その影を追い払うことはできない。自分の理性を騙すだけならできる。理性は疑念について思い出さないふりをするのである。しかし、疑念は依然として心の中に住み続けるだろう。
 絶対的な信念を得るという実りのない努力はやめること。別のもっと現実的な道がある。目的の達成手段を考えず、頭の中で目的とするスライドを映し出し、目的のある方向へと足を運ぶのである。これは、根拠のない夢想などではなく、自分の思考エネルギーの放射を同調させるための具体的作業なのである。あなたの悪い予感は実現するのだから、そうであるならば、次のような具体的作業なのである。自分の思考エネルギーの放射を良い予感の実現へと意識して狙いをつけて切り替えるのである。
 もしあなたには目的があるのに、うまくいくかどうかわからないという疑念もあるとしたら、疑念の方が邪魔をすることになる。しかし、そんな疑念を振り捨てようとしてもうまくいかない。また、その必要も無い。目的達成の実現性を裏付けるために、理性には信念が必要なのであり。信念についてはわきへ置いておき、達成手段についても考えないようにしよう。そして、目的がすでに達成されたという内容のスライドになじもう。これこそが説得を必要としない具体的作業なのである。大きな満足感を味わうこと。すると魂の意図が役目を果たし、リンゴはひとりでに空へと落下していくことになる。

〇さあ、やらなければならないことがホンの少し残っている。その知識を受け取ることである。そのためには、その知識を受け入れればよいだけだ、人々は、時間の経過とともに、それまで信じられなかったことに慣れてしまうものだ。電話、テレビ、飛行機・・・・「全く信じられなかったこと」はこれだけではないと思うが、いかがだろうか。スライドの技法を用いてもらいたい。魂の意図がその知識を事実にしてくれるときまでは、その知識を自分の頭の中にかくまって、大切に世話してあげよう。しかし、あなたがやるべきことは、自分を説き伏せることではなく、将来、目的が達成されるという知識について、自分が知っていることを時々思い起こすことなのである。
 自分の目的について考えているときには、長年の習慣でつい疑念にとらわれたり、またもや手段について案じている自分に気付くようにすること。もちろん疑念の根は生じるだろうが、それをすぐに摘み取り、たしなめよう。「成功は自分の選択次第だと私は知っている。私が選択を行った。ためらいはあり得ない」。疑念は徐々に消え去るだろう。信念がなく、ただ知識をあるだけのところで、疑念が生じることはあり得ない。疑念から逃れようと懸命になる必要はないし、ましてや疑念という存在と格闘するなどもってのほかである。いよいよとなったら、疑念がありからと言って、必ず失敗するわけではないと思う事で、自分を安心させることはできる。ただその場合は、あなたの目的に通じる道では若干ぎくしゃくすることがあるだろう。
 もう一度強調しておきたい。自分の目的を達成するかしないかは、あなた自身が決めることなので、何も心配することはないという事が大事なのである。疑念が生じたら、その都度、このことを思い題して欲しい。忘れてしまって、半ば無意識状態で存在するという悪い習慣にもう一度注意を喚起しておこう。新しい知識は簡単に忘れられてしまい、古い習慣は頑固に居座るものである。常に念頭に置いておこう。あなたは自分の運命の支配者である。
 キリストが水の上を歩くように、水の上を歩くことが当然のことであった。もし水の上を歩くことについての疑念、不安、感動をすべて振り払ったとしたら私たちも本当に水の上を歩けるかもしれない。まさかと思われるだろうか。しかし、人類の歴史とは、全く信じがたい事についての驚きの連続である。例えば、「鉄の船は水上を走ることが出来ないし、ましてや空を飛ぶなんてもってのほかだ」と言われていた時代があった。ところが、鉄の船で水上を曳航し、重たい飛行機で空を飛べるようになった途端、目の前で繰り広げられていることの可能性と現実性については、だれも議論しようとしなくなった。
 いつも疑念を引きずっていると、成功へのチャンスを大きく損なわせてしまう。亜空間には二つの人生ラインがある。一方を行けば目的は達成され、他方を行けば失敗を喫する。自分の疑念の中であくせくしていると、不運な人生ラインの周波数でエネルギーを放射することになる。そんな状態で、果たして成功を期待できるだろうか。あなたの思考エネルギーを放射した結果として現れる状況によって、失敗が引き起こされる。
 質問は別の形で行うべきである「うまく行くか、だめか」または「私の選択は成功か、失敗か」というようにである。このようなやり方になれるのは難しい。「リンゴは地面に落下するのであって、空へ飛び去るのではない」という事をあなたは一生を通じて確信している。しかしながら、もし疑念を抱いている自分にいつも気づき、成功は単に自分の選択次第だがなぜか空へと落下しはじけることをイメージしよう。始めのうち、それはとても驚くべき事のように思われるだろうがしまいには平気になっていき、慣れてしまうだろう。仕方がないのではないか。空への落下はリンゴにつきものなのだから、空へと飛び去って行く風船を見ても驚かないのと同じことである。

〇自分を説得したり、何かを信じようと努力したりしてはならない。さもないと、あなたはいかにも本物らしく見える偽りの信念を抱くという危険を冒しかねない。あなたが心のさざめきに耳をすまそうとすると、幻想の正体は暴かれる。理性によるコントロールを緩め、それを魂の不快によるひそかな兆候の有無を見つける方向へと向けよう。もし魂の不快を見つけたら、もうそれ以上自分を説得したり納得させたりする必要はなくなる。魂と理性の一致が達成されたら、自分を説き伏せる必要はなくなってしまう。
 アファメーションを使って自分自身に話しかけることも無駄なことである「私は目的を果たす」と自分に繰り返しても、疑念は消えるどころか、逆にどんどん大きくなる条件を整えているだけである。あなたが魂を説得しようとしても、魂は信じてくれない。魂は理性の理論も言語も理解しない。また、魂はあいまいさも許さない。魂に「私は自分の目的を達するだろうか」と聞いたら、魂は「はい」か「いいえ」で答えるのであって、「多分」とか「きっと」とは決して答えない。少しでも疑念の影があれば、答えは「いいえ」となる。
 もし魂が疑念を感じているのなら、魂を説き伏せることは不可能になる。では、どうすればよいのか。答えは前述した部分にある。つまり魂は曖昧さを受け入れない、と言いうこと。疑念とは、ある程度は信じられるが、すっかり信じられるわけではないという事である。魂はこの「すっかり信じられるわけではない」というのを「全く信じられない」に変えてしまう。魂は信じることも疑う事もせず、どうなるのかを「はい」か「いいえ」でただ知っているのである。
 だからこそ大変重要な一歩を踏み出す必要がある。自分のパターンから「信じる」という言葉を捨て去り、それを「知る」という言葉と置き換えるのである。もし何らかのことが起こるのを理性がただ知っているのであれば、魂は説得されなくても理性に賛成する。あなたは今このブログを目の前にしている状態については、ただ知っているだけで、それだけのことである。ところが信念というものが生まれると、そこには必ず疑念の余地も生まれてくる。
 さあ、これからは信念についての考えは捨て去り、あなたの願望が執行されることを知っているのだと自分に認めてあげよう。あなたはそれを知っている。なぜなら、それが法則だからである。もしあなたが所有する決意を持っていて、あなたの扉を通って進みながら、行動する決意を現実化することができるならば、目的は達成されることになる。選択するのはあなたである。あなたは当の本人なのだから、自分自身で選択を行ったからには「もしうまくいかなかったら・・・・」という類の議論は意味がなくなってしまうだけのことである。
 物事の展開には、うまくいく場合とうまくいかない場合との二つの事象があると仮定しよう。あなたの関することはうまくいくという事について、自分自身を説得したり納得させたりすることは無駄なことである。しかし、今のあなたには、あなた自身が自分の事象を選択する。という知識がある。知識とは、その上に自信を築くことができる礎である。

〇調整の秘訣とは、手に握りしめているものを放し、それと同時に状況を把握することにある。理性がぎゅっと握りしめているうちは、状況が事象の流れに従って展開する事を理性が妨害していることになる。シナリオへのどんな変更も当然のこととして受け入れることにより、あなたは自分によるコントロールの押し付けを断念することになる。それはつまりコントロールの放棄を意味すると同時に、自分の関与を維持し、したがって、状況をコントロール下に置くことをも意味することになる。
 結局のところ、あなたは問題を避け、すべてが順調にいくように暮らしたいのである。もし調整の法則を利用し始めたら、そのようになる。それは自分の魂の意図で出来事に影響を与えようとすよりも効果的ですらある。問題は、すでに述べたように、理性には全ての展開を前もって理想的に予想する事ができない点にある。なぜなら、あなたはこの世界に一人だけで暮らしているわけではないからである。あなたの世界の層はほかの人々のたくさんの層と交差しており、彼らも常に何かを達成しようとしている。しかし、理性にとって、物事を前もって予見しておく必要はない。必要なことは、目的とするスライドを映し出し、調整の法則にしたがう事だけなのである。そうすれば魂の意図はあなたを目的へとうまく導いてくれるだろう。
 調整は実践によって身つくことを指摘しておかなければならない。もしあなたがたが観念的に調整の法則を理解したのであれば、それだけではまだ十分といえない。その能力を常に発達・向上させる必要がある。あなたの見張り役は常時働いていなければならない。あなたが思わずネガティブなゲームに引っ張り込まれそうになっている瞬間を見逃してもらっては困るのである。
 調整とは、亜空間を進むための最も効果的な方法なのである。あなたがそれぞれの出来事をポジティブな物として迎え入れると、そうすることでいつも好ましい方の分かれ道に入り、幸運の波と遭遇する事がより一層多くなることだろう。しかし、幸運の波に乗っかっても意図的かつ意識的に行動するのであって、現実を忘れて空想に耽ってはならない。そうすればあなたは幸運の波の上でうまくバランスをとることができる。ここに事象選択の核心がある。
 聖書に「あなた方の信仰通りのことがあなた方に起こるように」とある。実際、これはその通りである。あなたは常に所有する心構えの出来ているものだけを受け取る。魂の意図はあなたの注文を非のうちどころなく実行する。あなたは、自分の世界観のパターンやこの世界における自分の居場所のイメージにしたがって、所有しているものを所有する。いまやあなたは事象選択の主な法則の全てを知っているのだから、自分の選択によって自分の運命を操ることができる。あなたの運命は自分自身の選択と信念に従ってた形作られていくことになる。
 どうやって選択するかは、すでに御存知である。その方法の全てをどうやって信じたらよいか、という疑問に答えることが残されている。すでに述べたように、理性に事実を突きつけないと、納得させる事はできない。理性が信じたふりをすることはあり得る。また、理性がやみくもに狂信的に信じることもある得るが、それは極めて強い過剰ポテンシャルに基づく偽りの信念である。確信自体に過度な意義が与えられた場合がそれにあたる。理性は狂信にとりつかれ、何も見えず、何も聞こえない。理性は、魂だけでなく、自分自身をも箱の中に追い込んでしまったのである。だから、そんな信念は分別を欠き、妄信的となる。
 偽りの信念の帆が魂の意図の風によって膨らむことは決してない。偽りの信念とは、自分喪失の迷路でコマが仕掛けた罠なのである。あなたが迷路から脱出したいと思っても、実はそれは幻想にすぎない。心の奥底では疑念を抱いているのだが、あなたはそれを疑う事すらしない。なぜなら、信念という防護壁によつて疑念とは仕切られているからである。
 偽りの信念と本物の真の念とを見分けるにはどうすればよいか。本物の信念とは、信念というよりも知識といった方が的確だろう。もしあなたが手段を選ばずに自分を説得したり納得させたりする必要があるりというのなら、熱狂的または強制的にそうするわけで、それはつまり偽りの信念といううことになる。知識は、説得によるのではなく、事実によって形成される。あなたの理性の前に事実が突きつけられたら、あなたはただ単にそれを知ることになる。一方、偽りの信念は理性の監督下に置かれている。迷路の中にある幻想の間にいる理性は、そこへわずかな疑念さえも入り込むことの無いよう監視する。理性は、期待を託したいと思うと、何も聞きたくなくなるのである。

〇さて、ここでは別のシナリオをイメージしてもらいたい。あなたは何らかの忌々しい状況に出くわしたとしよう。ネガティブな態度をとる事で、カキガイのように何の工夫も無く反応するのはちょっと待って欲しい。自分にこう言おう。「ストップ、いいか、これは粘土人形を相手にする単なるゲーム、まあいい、粘土の人形ども、いっちょうでやるか」何があってもポジティブな調子に合わせ、あなたがその出来事に喜んでいるふりをする。なぜなら「悪いことにも良い反面がある」とが不幸のおかげで幸福もある」といった諺は、それなりの理由があって生まれたわけなのだから。
 腹立たしい出来事の中にポジティブな欠片がないか探してみよう。もし何も見つからなくても、とにかく喜んでみよう。もし何も見つからなくでも、とにかく喜んでみよう。失敗を喜ぶという「バカげた」習慣を身につけるのである。原因が何であれ、腹を立てたり愚痴をこぼしたりするよりも気持ちがずっと楽になる。ほとんどのケースでは、不愉快な出来事が本当にあなたの利益になるように働く事を納得するだろう。たとえそうではなくでも、自分がポジティブに対処したことによって、あなたは分岐点で好ましい方の道を選んでいて、ほかの不快事から逃れられたのである。安心願いたい。
 一般に、不快事とは状態が満たれることである。それはあなただけにとって不都合なのである。なぜなら均衡状態から大きく外れ、余分なエネルギー消費を必要とするからである。このエネルネギーは、あなた自身が自分のための障害を作るときにに使われ、その後、その障害を克服しようとしても使われる。反対に、あなたが満足しているときには、幸運な常態である。不満であるときとは、一般に、あなたが自分のシナリオから乖離した状況と出くわした時のことである。理性は自分で採用したシナリオ通りとなってないないことに気付くと、すぐにそれをもネガティブな変更であるとみなすため、それに見合った態度を取り、自分が理解できる以内で状況をコントロールしようとする。
 そんなわけなので、これからは自分の理性に新しいゲームの決まりを説明してあげよう。理性にはこう言おう。理性はこれまで通りにコントロールのための舵棒を握ってはいられるけれど、今度のゲームでの舵取り役の役割はどんな出来事もポジティブに打入れる点にあるのだと、戯曲が幕を開けるとき、つまり一日の始まりには、見張り役の働きを活発化させよう。普通、あなたは物事がどのように展開すべきかを大まかにイメージする事だろう。あなたから見て、シナリオが変わりつつあったらその変化を受け入れて、それに同意することが必要なのである。そうでないと、あなたはその変化があなたのシナリオに書かれていないというだけの理由で、その出来事をネガティブに受け入れてしまうだろう。まるでその変化こそが必要だったというふりをしてみよう。
 このようにすれば、シナリオに変更を加えることに対するコントロールが円滑でダイナミックなものになる。慌てて不満を表したり、状況と格闘したりしてはならない。なぜなら、戯曲が進行する過程でシナリオへの変更を受け入れたからである。シナリオのコントロールを断念するれば、シナリオをコントロールできるようになる。コントロールは、事象の流れとの戦いに向けられるではなく、事象の流れに従うことに向けられるようになる。

〇人はこの世に生を受けて以来、世界は自分に敵対するものだと思い込むことが当たり前なため、ネガティブな気分というのは頑固なまでに維持される。誕生間もない赤ん坊は、すぐに大きな力による攻撃にさらされる。さっきまで赤ん坊は母親の胎内にいたが、そこは心地よく暖かく安心していられる場所だった。ところが、かわいそうなこの子は何かに捕まれると、快適この上ない胎内から乱暴に引き出された。叫び声を聞き、自分自身が母親の苦しみの原因かもしれないという思いが小さな胸をよぎった。これで罪悪感コンプレックスを持つための基礎が出来上がった。閃光が両目を穿つ。瞼を閉じて、何も見たくない。潤いに富んだ温かみは消え失せ、肌に突き刺さる乾いた風に置き換わる。身体を小さく丸め、この惨状から身を守らねば。しかし、躊躇なくへその緒は切断され、これで生命の源との唯一の絆を荒々しく断ち切られてしまった。赤ん坊は致命的な衝撃を受けた。赤ん坊は苦しさにあえいでいるが、まだ呼吸するすべを知らない。一生残る傷よつけ、とばかりに背中を強くたたかれる。空気が鋭利な剃刀のように肺に突き刺さる。呼吸をすると胸が痛むが、他にどうすることもできない。突きつけられたのは過酷な条件である。生きるために戦うか、それとも死ぬか。
 けがれない無邪気な理性は最初の教訓を得る。生きるための戦いはこの世界から切っても切れないものなのだと。赤ん坊は苦痛と恐怖に襲われ、挙句の果てに、母親から引き離され、固い箱に閉じ込められる。力尽きた赤ん坊は、この世界から行方をくらまそうとする夢を見る。
 この世界との最初の遭遇はこんな風に起こる。恐怖、孤独、やりきれなさ、悔しさ、怒り、完全な無力感。それらは理性の真っ白な紙の上に残酷に容赦なく刻み込まれる初めての教訓である。コマによるやり掛けの仕事はこれで形が整った。今日、こうした衝撃的な出産方法は広く普及しており、これで十分に文明化されていると考えられているのは、コマがらみの理由あっての事なのである。このような生まれ方が、人間の潜在意識に深い傷の一生残る悪夢のような衝撃を与えることに思い至るものは、残念ながら、まれである。動物界は誕生の瞬間に人間の場合と似たような体験をする生き物は一つとしてない。人間界では大変高額な費用を必要とするわずか一握りのクリニックに限っては、出産が「人間らしく」行われているのである。
 コマが支配するこの世界での初めての教訓は十分に習得され、それに続く人生において一層鍛え上げられていく。ある日、子供は母親の手を振りほどき、喜びと信頼にあふれた勇気を発揮し、人生との出会いに向かって駆け出す。しかし、コマに支配された世界は決してそんなに安全なものでは無い。すぐに子供はパタリと転んでしまう。母親の方も車に轢かれたりはしまいかと心配し始める。私がこんなことを述べるのは、人間には全てを否定的に考える悲観面的傾向がどれほどしっかり根を下ろしているかを示したいがためである。その一方で、すべてを肯定的に考える楽観論的で善良な意図は、人が雲間へ飛び去ったり、空中楼閣を築いたり、地上の要害を征服するために余力を尽くしたりすることに変容することが多い。
 深い谷に飛び込んだり切り立った山をよじ登ったりすることなく、調整を心掛け、平らな道をただ進むには、いったいどうすればよいのだろうか。たぶん、重要性を投げ捨てて、意識して流れに沿って進めばよいのだろう。そう、その通り、それこそが必要なのである。しかし、そうするのはとてもむすがしい。なぜなら、重要性から完全に自由になることは不可能であるし、流れに沿って進もうとしても、心配症の理性が、流れをコントロールしてやろうとスキを伺ったり、肝心な時に覚醒したまま眠りこけたりして、邪魔をしてくれるからである。
 このような状況から抜け出すための簡単でしかも完璧の方法はあるだろうか。全てをコントロール下に置こうとする理性の習慣を利用して、新たなゲームを理性の提案すればいいのである。このゲームの本質は、どんな不愉快な状況でも目を覚ましていて、意識して重要性の評価を行い、自分の接し方を変えると言うところにある。このゲームならあなたの理性が気に入ることを、自分自身で納得できる。ゲームの法則についてはすでに検討済みである。粘土の人形を相手にする滑稽な戦いである。しかし、これで全てでは無い。調整の主な法則を述べよう。この法則に従う事で、悲観論者たちが悪い予感を実現させてしまう所を、あなたはポジティブな面での成功を収めることができるだろうその法則とはこういうものである。シナリオ上のネガティブに思われる変化をポジティブなものとしてみなそうと意図することで、全てはまさしくそのようになるだろう。馬鹿げたとまではいかなくても、それほど説得力があるようにも思われないだろうか。明らかに敗北を喫したのに、どこがポジティブなものになり得るというのか、また災難に見舞われている最中にも、どこがいいことだというのか。そうはいっても、この法則は本当に間違いなく働いてくれるのである。私はあなたに信じるよう求めているわけではない。あなたはただ手に取って確かめてみたらいい。ところで、理性のために説明も用意してある。
 ご存じのように、全世界は二元論の法則に基づいて成り立っている。二元論とは、すべてのものはそれと対立する面を持つ、というものである。光があれば、闇がある。黒と白、肯定と否定、蜜と疎、等々。自然の中におけるどのようなバランスもどちらかの方向へ偏る場合がある。あなたが丸太の上を歩いていて、バランスを崩した時、傾きを修正するため、一方の手を挙げる事だろう。人生ラインにおける一つ一つの出来事は、良い方と悪い方への二つに分岐している。何らかの出来事に遭遇する都度、あなたはそれにどう対応すべきかを選択する。もし出来事をポジティブなものと考えると、人生ラインの好ましい方へと済むことになる。しかし、ネガティブに考える傾向を持っていると、不満を表してしまい、好ましくない方を選ばざるを得なくなる。朝っぱらからつまらないことで苛立っている人は、その日一日、不愉快な出来事ばかりに遭遇し続ける。些細なことでもバランスを崩すことがあり、そうなるとネガティブなシナリオが劇的展開を見せることは、あなた自身もよくご存じのはず。何かが原因であなたが悔しい思いをすると、その後、新たな不快事が続く。災いは決して一つだけではやってこないといわれる所以である。しかし、不愉快な出来事は災厄そのものに続てい起こるわけではなく、災厄に対してあなたがとった態度に続てい起こるのである。あなたが分岐点で行う選択によって法則性が出来上がる。何か些細なことであなたが忌々しく思う、もうあなたは好ましくない方の道の周波数で思考エネルギー放射ししている。そのうえ、ネガティブな態度は緊張のポテンシャルを創り出し、そのおかげで意図のエネルギーの一部が奪われるため、あなたの行動は非効率となり、すぐにもっと大きな不快事に直面することになる。このように各分岐点での度重なるネガティブな選択が一生を通じてあなたをどこへ連れていくことになるかは想像に難くないだろう。世代の転移もそこから起こるのである。