〇ときには悲観論者達も、偶然、幸運の波に乗っかっていることがある。そして、しばらくは満足して喜ぶ。しかし、その状態は長くは続かない。なぜなら、間もなく彼らはあたりをせわしく見まわし、おなじみの不幸の黒い帯を探し始めるからである。なぜそうするのか。良い事はすべてじきに終わってしまうものであり、幸運は異常で不自然なものだからである。悲観論者たちは黒い帯をつかもうと懸命に探し始める。自分が慣れ親しんだあのどぶにまた浸かっていたいのである。どぶの中で全てが裏目だが、すべてが予見できる。自分の不満をどこへ持っていこうかと考え、悪い知らせに耳を澄ませ、文句を言いつのり、非難し、要求し始める。もし要求しても埒が明かないのならば、皆が諫めたりなだめたりせざるを得ないような犠牲者の役割を演じ始める。
悲観論者たちが自己呵責に陶酔することを止めさせるのは大変難しい。これは重症のケースなのである。大変困ったことに、彼らは自分たちの人生だけを台無しにしているのではない。自分たちの世界の層を悪化させるとともに、層が重なり合っている自分たちと身近な人々をも惨めな地獄へと引き寄せる。それにしてもなんという逆説だろうか。悲観論者たちというのは救いようがないように思われるにもかかわらず、強い力を持ち、それをフル回転させてしまうのである。その力とは、「人生は唾棄すべきものであり、それは日を追うにつれ一層悪化していく」ということを固く信じている点にある。固く信じるという事は、所有する決意に他ならない。そのため、悲観論者たちの選択は思い通りに現実化してしまう。彼らが本当に選択すると、世界も本当に彼らの呼びかけに応じるのである。
どうやら人はそれほど救いようの無い存在などではなく、たくさんの事に影響を与えられるようである。悲観面じゃたちの悪い予感が現実化するという事は、だれもが事柄の進展に影響を与え得ることを証明している。夢の中だけでなく、覚醒しているときも、シナリオを決定することができるのである。おそらくそのためには、ネガティブな方向性をポジティブなものに置き換えることだけが必要とされるのであろうか。「人生は素晴らしく、日ごとに益々よくなっていく」人はこのようなスローガンに唱和し、雲海の間を飛んでいく。、しかし、一瞬でも疑念を抱き、恐怖で足元を見るや否や、たちまちその人は地面へと落下してしまう。
〇もし侮辱や憤慨をうまく処理できないのなら、どうしたらよいだろうか。そんな弱点のある自分をただ許してあげればよいのである。もし重要性をゼロに抑え込もうとすること自体に過度な意義を与えてしまうと、事態は一層悪化する。ところで、あなたは誰のために働いているのか。他人のためか。それならば、あなたが侮辱や憤慨を常に感じるのは避けれない。自分の目的へと続く道に出よう。そうすれば時間の経過とともにあなたは自分のために働くようになるだろう。その時が来るまでは、時々自制心を失って過剰簿テンシャルを発生させてしまう事を自分に許してあげよう。いつも勝利するよう自分を追い込んではいけない。
そんなわけで、自分で創り出した過剰ポテンシャルと戦う代わりに、純化された意図に基づいて行動する必要がある。また、意図は行動する過程で純化されるのである。それに、所有する決意は、抽象的な思考を巡らすことによってだけではなく、具体的な行動によっても得られるものである。どうにかして目的に向かって足を運び始めよう。あなたの行動は目的へと進む過程で効率化してくるだろう。
所有する決意は三つの段階を経由する。第一段階は、「本当にこれが全部私に?」というように、その状況に不慣れなことから引き起こされるぎこちなさである。あなたが頭のかなで目的とするスライドを映し出しているうちは、目的の達成が可能だという考えをすっかり受け入れることが難しいという事である。第二段階は、無重力の感覚に似た歓喜である。ある瞬間ぎこちなさが消え失せ、目的を自分の快適域へと受け入れ、突如として目的が完全に実現可能と思われることからくる歓喜を感じることだろう。無重力の感覚とは、十分に現実性のある根拠に裏付けられたものである。この意図のエネルギーは過剰簿テンシャルから解き放たれたものでありそれをあなたは感じるのである。
そして、ついに、所有する決意が第三段階である日常性に移行する。あなたはいつもあなたの中に目的とするスライドを映し出し、それに馴染み、スライドの中であなたが所有しているものすべてが徐々にあなたにとってありふれた日常となってくる。スライドは重要性と言うフィルムによって維持されている。あなたが願望や疑念を持つ、手段について考えているうちは、所有する決意は不安定な基盤によって支えられている。重要性が解けて消えるや否や、所有する決意が力を得る。この時大事なのは、行動する決意、つまり目的に向かって足を運ぶ意図をなくしてはならないという事である。もし三段階全てを経過したら、あなたは正しい道にいることになる。
さて、どうすれば問題の重みに屈せずにいられるだろうか。いずれにせよ常に私たちは多少なりとも何らかのことで悩んでいる。そのため、あらゆる重要性と縁を切ろうとすることは極めて難しいのである。そんな場合、事象選択では一つの興味深くかつ非常に強力な方法…意図の調整というものがある。
人は状況に支配され、本人にできることは少ししかないように思う。時折、運がいいと、人は少しの間、幸運の波に乗って疾走する。成功が自分の掌中にあるように感じられる瞬間すらたまにある。しかし、どんなに頑張っても、成功の後には、必ずと言っていいほど失敗が続くのである。
人々はまるで両側に切り立った山と深い谷が次々に現れ出る道を歩いているようなものである。忽然としていて自分に自信のある人々は、いつも平らな道から谷に転げ落ちたり、なぜか険しい山をよじ登り始めたりする。山の上にはコマが置いた褒美の品が魅惑的に光輝いている。たまに信じられないほどの努力の末にそれを手にするものもいるにはいるが、失敗に終わる場合が普通である。いずれにせよ、山をよじ登った人も、平衡力の風にあおられ、もんどりうって転げ落ちるのである。そして、以前のように、自分は救いようのない人間だと感じ、自分にできることは少ししかないと思うようになる。
別のタイプの人々は否定的に物事を考える悲観論者である。彼らは自分にできることは何もないと思い、悪い予感の穴の中で気弱に手足をばたつかせる方を選ぶ、悪い予感はすぐに現実化する。悲観論者たちは、自分の寄る辺なさに苦しむだけではない。彼らは自分に出来ることは何もないと思い、悪い余暇間のあなたの中できじゃに手足をばたつかせる方を選ぶ。彼らは無邪気にも自分自身の運命を他人の手に委ねるのである。すべては神の御心、というわけである。彼らは事象の流れに沿って進むのではなく、それに逆らって進もうとするのでも無い。彼はらは、不平不満を漏らしつつ、周囲のエネルギー分布状況を台無しにしながら、ただもがいているだけなのである。彼らにとって唯一都合よくはかどることは、悪い予感の実現である。そのため悲観論者たちは、自分たちの言い分のせめてどこかしらに正しいところがあるとして、悪い予感の実現に喜びを見出す。彼らがただ一つ完璧に習得したことは、自分達のネガティブな態度への確証を探し出すことなのである。
このような人々は、白黒が反転しているネガのような世界の中に、ある種サド・マゾ的喜びを見出す。彼らにかかると、どんなに些細な事であっても悲劇に変わってしまう。彼らの信条とは「人生は唾棄すべきものであり、それは日を追うにつれ一層悪化していく」というものなのである。それは彼らが選択したことであり、あらゆるところで選択が間違っていなかったことの証拠を見つけ出す。なんという受難者たちだろうか。彼らをほぼすべての人々が苦しめ、罰を与える。殉教者ともいうべき彼らは重たい定めを背負っている。彼らは文字通りどん底のネガのような世界つかり、そんな状態に喜びを見出す。なぜなのだろうか。それはネガのような世界こそが、周囲の世界が認めてくれて、彼らの呼びかけに応じてくれる唯一のものだからである。彼らは、自分たちの悪い予感が的中することを自信の支えとしているのである。

〇どうすれば願望を抱かないでいられるか。想定できる失敗するケースと馴染み、行動するのである。願望の過剰ポテンシャルを除去するのは難しい。なぜなら目的を達成すると言う願望と縁を切ることは、ほとんど不可能だからである。けれども、もし前もって失敗するケースと馴染んでおき、予備ルートを探して置けば、願望の過剰ポテンシャルは引き下げられる。いずれにせよ願望は行動に変換することができるのである。ご存じの如く、願望は意図に先立って現れるものである。願望が行動する意図に変換されると、過剰ポテンシャルのエネルギーは称賛する。そして、願望のエネルギーは意図の形成に向けられる。
どうすれば期待しないでいられるか。行動すること。期待の過剰ポテンシャルは行動する中で散らされるものである。
どうすれば自分の存在意義と縁を切ることができるだろうか。もしあなたがすべてを正しく理解していたら、この質問はあなたを当惑させたことだろう。そう、事象選択は、取るに足りない自分の存在と妥協するよう勧めているのではなく、自分の存在意義というものを自明の理として受け入れるよう勧めている。ここで問題なのは、周囲の人々がしかるべく接してくれないと、理性は自分の存在意義を感じないと言う点である。それを頭に入れておくと、自分の存在意義を高める秘訣は非常に簡単でしかも効果的となる。必要なのは、自分の存在意義を高めることに向けられる行動と無縁でいることだけである。
自分の存在意義を守ろうとするときのあなたは何をするか、自分自身を観察してみよう。自分に対する注目や尊敬を求める、自分の正しさを証明する、腹を立てる、ミスから守る。弁明する、いざこざを引き起こす、横柄な態度を示す、軽蔑を示す、一番になろうとする、だれかの長所を見くびる、だれかの短所を強調する、自分の長所を見せびらかす、等々である。こうした自分の存在意義を高めようとする試みを少しずつ無くしていくと、周囲の人々は無意識のうちにあなたの存在意義を感じることだろう。あなたは自分の存在意義を守ろうとしないのだから、あなたの存在意義はすでに高いレベルにあることになる。人々のあなたへの接し方は違うものとなってくるだろう。自分への対応がより尊重されたものとなったことを実感したあなたの理性は、自分の存在意義を自ずと認識することになる。もしあなた自身が自分の高い存在意義を認識するならば、周囲の人々はそれが絶対的に正しいという事に同意してくれるだろう。こうしてあなたは縁を断ち切ったはずのものを手に入れるのである。
どうすれば苛立たないでいられるのだろうか。ゲームの決まりを破りながら、コマとゲームをするのである。不愉快な知らせにネガティブに反応する習慣を断つには、この方法しかない。どうするかについて、すでにあなたはご存じである。これはゲームであり、その決まりを明らかに破ってやろう。つまり、その場に不相応なやり方で反応する事を手遅れにならないうちに思い出すだけでいい。不愉快な知らせや状況に対していやいや反応するのではなく、わざと意気込んで陽気に反応するのである。そうすればあなたは思考エネルギーを幸運の波に乗せて放射することになるだろう。コマはあなたのバランスを乱すことによってネガティブなエネルギー受け取ろうとして、あなたに不快なことを吹き込む。不適当な反応をすることで、あなたはコマのリズムを狂わすため、コマは何ももらえなくなる。こんな風にゲームを行ってみよう。胸躍ることだろう。
どうすれば罪悪感から解放されるだろうか。弁明するのをやめるのである。既に述べたように、あなたは自分で自分を法廷内に閉じ込めている。あなたは自分自身で検事、弁護士、被告の役割を演じ、人形使いたちはそれを利用している。法廷から立ち去ろう。だれもあなたを引き留めることはできないのだから。いつもの習慣で法廷に集まった人々は、裁判の行方を傍聴しようとして腰を下ろすだろうが、被告がいなくなれば人々も解散するだろう。こうしてあなたの「事件」は徐々に平定する。別のどんな方法によっても罪悪感から解放されることはできない。
どうすれば侮辱や憤慨を克服できるだろうか。もしなあたが罪悪感から解放され、自分の存在意義を受け入れるのであれば、侮辱や憤慨を感じることはなくなるだろう。自分の戦いをやめにして、流れに沿って進もう。しかし、あなたが流れに沿って進んでいるときに、誰かがなあたをつかんで、流れに逆行させようとする状況が起こり得る。そんな場合は、どのように振る舞えばよいだろうか。
例えば、もしあなたが何かをできると思うのなら、解決策を見出せるという事である。ところで問題ばかりを見つけ出す能力にたけた人々がいる。そんな人々は問題を探し出しては、自分の成果として鬼の首を取ったかのように見せつける。彼らは、自分たちが指摘した問題点に対して、解決方法を示さなければならないのは他の人々の方だと心底から思い込んでいる。そんなわけで、あなたが解決策を探し始めると、あなたの回りにはろくでもない人たちがぞろぞろ集まってくる。あるものは批判し、あるものは新たに問題を探し出し、あるものは忠告を垂れ、またあるものは命令し、要求する。流れに沿って進もうとしても、いつもどこから邪魔が入る。それで侮辱を感じたり憤慨したりするのは当然のことである。

〇所有する決意を得るにあたっての難しさは、初めて二輪の自転車に乗ったときに経験するためらいに似ている。人は自転車を乗りこなす事が原則的に可能だと知っているが、だからといって当人にはすぐにうまくいくわけではないことも知っている。その人は自分の能力を疑っていると同時に、獲得したい願望で満ち溢れている。人の理性は訓練プロセスを自分のコントロール下に置こうとするが、どのように行動すべきかがわからない。すると、すぐに三つの過剰ポテンシャルが生じてしまう。疑念、願望、コントロールである。これらが意図のエネルギーを奪うことになる。
理性は何とかして自転車のバランスを保とうと努めるが、少しもうまくは行かない。魂と理性の一致がなければ、自由エネルギーもないのである。しかし、何かの拍子に理性のコントロールがゆるむと、バランスを維持しなくてはと言う点で、魂と理性の一致が起こる。そして、結局、すべてうまくいく。どのようにしてそうなったのか、理性にはやはりよくわからにない。けれども、そこが問題なのである。常に理性は手段について、つまりどのように行動すべきかについて考えている。理性はコントロールしようとして、様々なやり方を試してみる。その一方で、魂は考えない。魂は所有する準備が無条件にできている。理性も所有する準備はできているが、理解可能で理屈に合っていれば、という条件付きである。魂と理性の不一致は、理性が目的達成の現実性を疑っている点のみにある。コントロールしようとして握りしめていたものを緩めるや否や、理性が突きつけている条件が消え失せて、魂と理性の一致が起こる。
理性のコントロールなどいらないと言う事実に直面した理性は驚く。全てがひとりでに行われてしまうからである。理性にとってはいったい何がどうなっているのかは皆目見当がつかなくても、事実そのものには十分満足している。とにかく自転車のバランスは保たれたわけである。だから理性はそんな事態と折り合いをつけざるを得なくなる。今後、理性は自分によるコントロールを押し付けたりしないだろう。なぜなら、自分によるコントロールは不要だと納得したからである。もう少し実践すると、残っていた過剰ポテンシャルも消え去り、意図のエネルギーが解き放たれ、自転車に乗ることは悩みの種が喜びに変わる。
このように、所有する決意を得るには、魂と理性を一致させ、意図のエネルギーを過剰ポテンシャルから解き放つことが不可欠なのである。魂と理性の一致は、しかるべき扉を通ってあなたの目的へと続く道において達成される。やるべきことは、自分の本当の目的を定め、そこへ続く道に出ることだけである。内的重要性や外的重要性というためにならないお荷物を肩から降ろすと、あなたは亜空間を進むための原動力となる意図のエネルギーを解き放つことになる。そうしないで、自分の内部に内的重要性や外的重要性を維持する事は、九十九パーセントのエネルギーを過剰ポテンシャルの維持に消費していることになる。ほぼ全ての自由エネルギーが過剰ポテンシャルに使わわるというのであれば、自由エネルギーはいくらあっても足りない。
重要性を投げ捨てるためには、まず意識して行動すべきで、次に、過度に重要な意義を何に与えていて、それにどう対処すべきかをハッキリ理解する必要がある。残念ながら、精神面で意識して重要性と縁を切ることはいつもうまくいくとは限らない。そんな場合は、行動するしかない。過剰ポテンシャルのエネルギーは行動する事で消散する。あなたの中に目的とするスライドを映し出し、プロセスの視覚化を行い、穏やかな気持ちで目的とする方向へと歩みを進める…これこそがあなたのとるべき行動である。
どうすれば怖がらないでいられるか。保険となるものを探すのである。最も克服しがたい過剰ポテンシャルとは恐怖である。あなたは怖がらないよう自分に強制することはできない。もし生命、職業、住宅などあなたが縁を断ち切ることができない何かがあなたにとって過度に重要な意義を持っているとして、こうした貴重な価値が脅威にさらされているのなら、過剰ポテンシャルを投げ捨てる唯一の方法は、守ってくれるもの、予備の選択肢、迂回路を見つけることである。
どうすれば不安にならず心配せずにいられるか。行動するのである。不安や心配の過剰ポテンシャルは行動することで消散する。あなたが活動に行動し始めないうちは、行動を伴わないものぐさな不安や心配にさいなまれ続けるだろう。どのような種類の行動をするかは不安の対象と何の関係もないことさえあり得る。自分に何かをさせることで充分なのである。すると不安が小さくなっていくことをすぐに実感するだろう。

〇自分が握りしめているものを放そうと努力して、あなたはもっと力をいれる。努力や熱意は過剰ポテンシャルを高める。努力や病的な執着の原因は重要性である。もしあなたが食らいついているものと戦っているのであれば、それを放すことはできないだろう。重要性と縁を切ると、執着はひとりでに弱まる。
重要性を引き下げると、ベクトルの方向を意思の意図の領域から魂の意図の領域へと転換させることになる。どんな根気も重要性によって生み出されている。根気強く行動するあなたは意思の意図を働かせている。障害とは重要性という基礎の上に築かれている。あなたが重要性を引き下げるや否や、障害は砕け散るため、障害を克服するための意思の力はもういらなくなる。重要性がなくなと、達成する決意は所有する決意に変わり、魂の意図が働き始める。
あなたには選択する権利がある。そしてその権利を奪い取る必要は無い。もしあなたが、自分の選択する権利を獲得する決意でみなぎっていたら、失望を覚悟していただこう。決意満々であるという事は、つまり断固たる態度ということになる。またしてもぎゅっと握りしめて、絶体に放すまいとしているのである。まもなく平衡力がその情熱に水を差すことになる。また、あなたの重要性を察知したコマは、すぐに挑発行為に取り掛かるだろう。まさにこうなることをあなたは身をもって知ることになる。
冷静な決意を得ようとする試みがうまくいかないくても、不安になったり落胆したりしてはいけない。人々がエネルギーを目的そのものではなく、コマの餌に振り向けることは習慣化している。最終的にあなたはここでいう「決意」と「決断力」との違いを学び取るだろう。所有する決意とは、無条件にあなたのものである物を手にする冷静でありふれた意図にすぎない。「私は自宅のポストに届いた郵便物を取ってくる決意に満ち溢れている」という表現は何とも狡猾に響くことと思う。そんなわけで、穏やかな気持ちで固執したりせず、あなたは自分の選択する権利を行使するべきである。
人生においては、試験、コンクール、テスト、ありとあらゆる適性検査などに合格しなくてはならないときが常にある。しかし、所有する決意はひとえにあなた次第なのである。あなた自身が試験管の役割を演じるのである。人は自分を能力のないつまらない者とみなすか、または目的を達成困難なものと決めつけてしまうか、そのどちらかが大方の相場と決まっている。惰性でそんな風になってしまうのである。なぜならそうすることが習慣化してしまったからである。必要なのは、とにかく所有することを自分に認めてあげる事である。慣れていないと感じるのはもっともな話である。それでもあなたは所有することを思い切って自分に認めてあげることだろう。ニュートンやほかの人々のリンゴが地面に落ちるならそうさせておけばいい。それにもかかわらず、あなたのリンゴが空へと落下するのを認めてあげよう。
あなたは所有する決意を得ようと必死になって望んではいないだろうか。願望を断ち切ること。望むのはもうたくさん。あなたはそのままでも必要とするものを受け取るだろう。自分の目的を達成すると、ただ思うだけである。要求せず、執着もせず、穏やかな気持ちで目的を達成するのである。「それを欲しいのだけど、何か問題でもあるか?それは私のものになるんだよ」
所有する決意は、意図の自由エネルギーによって形成される。所有することを自分に容認する際に、二つのことが邪魔している。一つ目は、魂と理性との間の不一致である。二つ目は、内的重要性と外的重要性の過剰ポテンシャルである。過剰ポテンシャルは自由エネルギーを奪い取ってしまうのである。
所有する決意を「欲するとそうなるだろう」という類の普通の想念であると思っているならば、それは間違いである。本当は、そのような想念は意図のエネルギーで満ち満ちていなければならない。そうでなければ、それはよくある理性の独り言であって、それ以上のものではない。言うまでも無く、想念は魂と理性が一致した状態から生じるものでなければならない。さもないと、意図のエネルギーの変換が純度の高いものではなくなってしまう。もし自由エネルギーのかなりの部分が過剰ポテンシャルに奪い取られると、意図は力を持たなくなる。

〇大金持ちの家柄に生まれた者には、所有する心構えがすでに出来上がっている。彼らにはそのような事を考える必要がない。一方、あなたはスライドに取り組まなくてはならない。理性は目的達成の現実性や手段について心配するだろう。だが、それは戦いの道であり、その道はどこにも通じていない。その道にあるあなたは十分なお金を稼ぐことができず、いつもお金に不自由することになる。獲得すべきはお金ではなく、所有する決意である。
もし目的に、まるでそれが達成されたかのようにして、注意を集中するならばあなたの扉は開き、手段はひとりでに見つかる。これこそ、私たちに眩暈を起こさせるほどまぶしい、自由というものなのである。もしあなたがこの自由を受け入れなければ、再び自分の選択を行うことになる。全てはたわごとだと言ってしまい、辛くて単調な自分の仕事を一生涯続けるくらいたやすいことは無い。だれもが自分の選択を行い、所有する心構えのできている事だれを受け取る。あなたの選択…それは絶対的な法則である。あなた自身が自分の現実を形成する。
亜空間における選択とは、おおむね次のようなものである。人々がスーパーマーケットにやってくると「何をお望みですか」と聞かれる。ある客は「ポップスターはありますか?」と答える。店員は「お安い御用ですよ。ほらここにとてもいい見本があります。あなた用の特別誂えです。全世界が認める輝ける豊かな才能。いかがですか?」客は驚いてこういう。「まあ、なんて言って良いか…だって、それはそんなに簡単な話じゃないから、ほんの少しの人しか成功なんてつかめないでしょう。そんな選ばれた人たちにはずば抜けた才能があるでしょうけど、私は並みの人間なの店員は両肩をすぼめた。「それでしたら、そこにあなたの才能をお付けして、ええと…はい、どうぞ、商品です。お求めくださいこれがあなたのです」客「ショービジネスは勝ち残るのが難しいという事でしょう。弱肉強食の世界だわ。実力者ぞろいだから…」店員「かしこまりました。では、マオケとして、お客様を抜擢してくれる実力者を付けて差し上げます。お決めになってはいかがですか、後悔なさらないように」客「こんなスターたちには、豪邸、高級車、社交界・・本当にそれら全部が私のものになるのかしら…どこか信じられないのよね」店員「そうですか、それは大変残念です。それならば、当店としては何もお手伝いして差し上げられません」店員はこういい終わると、商品をもと遭ったショーケースの中に戻した。
同じスーパーマーケットで、ある人が別の人に心配そうにこんな質問をするかもしれない。「君、飛行機に乗れるかい」「朝飯前だよ。ただ座席に腰かけて、シートベルトをしたら、飛行機は勝手に空へ飛びあがるさ」と相手は答えた。目的の達成はあなたの選択の問題の過ぎないことを容認すべきなのである。質問した客の心配がどれほど馬鹿げたことかとあなたは感じたことだろう。所有する心構えだ肝心なのであって、それだけのことなのである。
所有する決意を求めての戦いを自分と始めてしまうこともあり得る。どんなことがあっても所有する事を自分に強制してはいけない。目的とするスライドを無理やり映そうとしてはならない。努力する必要はない。力を込めて粘り強く行ってはいけない。なぜなら、そうすればまた戦うことになってしまうからである。ただ祝祭の時の思いによって自分に喜びをもたらそう。重要性を断ち切り、自分の戦いを中止しよう。戦いからは何も得られないのである。あなたが戦い続けるのは、周りにあるすべてが不当に高められた重要性を美ているからである。日の当たる場所を求めて猛然と戦っていては、あなたは所有することを自分に認めてあげられないだろう。
あなたは毅然として、自分の目的を達成するのだという自信で満ち溢れ、選択するのは自分であるという事を自分自身に向かって精力的に断固として言い聞かせようとしているとしよう。断固たる態度で行動することは、過剰ポテンシャルを発生せていることを意味する。必要なのは断固たる態度ではなく、祭りの日のような屈託のない決意なのである。肩の力を抜いて、握りしめているものを放し、自分の目的を達成することをただ念頭に置いておこう。散歩がてら売店へ新聞を買いに行くためには、断固たる態度も粘り強さも必要ない。もし新聞が売り切れていたとしても、それであなたが落胆するとはなく、別の売店へ足を運ぶだけのこととなる。一旦着手したら目的を達成するまで何が何でもくらいついていようという姿勢はやめめること。

〇あなたは一生を日の当たる場所を求めての戦いに費やしている。その戦いによって多くのことを達成できただろうか。いまもあなたはうんざりする職場や学校へ、苦役に服するかの如く通っている。その同じ時に、スキーのできる保養地でくつろいでいたり、南の海で日光浴をしたりしている人々がいる。しかし彼らは自分たちの戦いに勝ったから、今、人生を満喫しているという事なのだろうか。
戦いに参加している人々の大部分は、どんなに努力しても、スキーのできる保養地へ行くための十分なお金を貯めることが一生かけても出来ないのである。もしあなたが一年がかりで数日間分の旅行に充てるお金を貯めることが出来たら、それだけで幸せ者と思わなくてはいけない。だが、旅行先へ到着しても、悪天候に見舞われたり、エレベーターが故障したり、その他の不愉快や出来事が起こることもある。そんな事が何も起こらなくても、頭の中では、自分は贅沢が出来ないから万事倹約しなくてはといつも思っていたり、この数日間の気晴らし旅行のためにどれほど苦労したかと思いだしているとあっという間に旅行は終わってしまう。あなたはおおむね満足しているのだが、またあの灰色の日常に戻り、あくせく働かなければならないのである。
あなたは戦いに勝ち、休日を手に入れた。それなのに時折脳裏には憂鬱な影がよぎる。なぜだろうか。短い喜びを得るためには長い間粘り強く苦労しなくてはならないとあなたは確信している。あなたは所有することを自分に容認する呼心構えが完全にはできていないのである。
所有することを自分に容認した人は、戦いに加わらない。そんな暇はない。例えばここに幸せな二人がいる。先週、彼らはスイスの保養地で休暇を過ごした。心行くまで休暇を満喫した。どんな休暇にも終わりが来るものであるが、終わり方も人それぞれである。いま、二人は次にどこへ出かけようかと口喧嘩している。彼はオーストリア・アルプスへ行きたいのだが、彼女はフランス・アルプス行きを望んでいる。こんな光景をあなたが目にすれば、猫の目のように移ろいやすい筋書きのメロドラマを連想するかもしれないが次の行き先を決めるのは二人にとって重要な問題なのである。ただ所有する心構えのレベルが人によってさまざまなのである。あなたは一年間あくせく働かないとバカンスに出かけられないが、二人の方はまた一週間後にバカンスが始まることになる。
「どうせ彼らは大金持ちの家に生まれたんだろう。私は稼がなければならない。旅行に使う金はどこから持って来いというのか」合理的思考の持ち主なら憤慨してこう言うだろう。何度も言うようだが、お金について考えてはいけない。もし自分が行っている戦いを中止し、所有することを自部に容認したら、外的意図があなたに必要とされるものを与える方法を探し出すだろう。私はこのことを今すぐ証明して見せることはできない。自分自身で確かめてみたらよい。ちょっと試すのではなく、実行するのである。明日ではなく今すぐに。この瞬間から所有することを自分に容認すること。それも、疑うことなく無条件に。一回きりではなく、ずっと。もしあなたが瞬時に成果を期待するのではなく、所有することを自分に容認し続けるのであれば、ある日、人々が奇跡と呼ぶようなことが起こるだろう。

〇マスメディアによる精神心理への影響はどうかというと、ここではまず何よりも意識性が必要とされる。あらゆるネガティブな情報は聞き流してしまうこと。四方八方からあなたの興味を引こう、夢中にさせよう、何かを押し付けようとしてくるだろう。どんな人間集団の影にもコマがある。コマの意思を執行する信望者たちは、コマの真の目的を知らない。これは誰にとってなぜ必要なのか、また、これはあなたにとって必要だろうか、と常に自問しよう。その一方で、あなたの目的に関する情報は積極的に探して、すべて自分の中に取り込もう。「いい加減にしろ、そんなことは私もよくわかっている」とあなたの理性がじれったそうに口をはさむかもしれない。では、あなたの理性はそのことから何をわかっているのか。理性はすべてわかっているのだけれど、コマが自分のゲームを始めるときになると、いつものんきに眠って、大事なことを忘れてしまうのである。コマがあなたの手を取り、自分の方へと引きずっていくようなことを許してはならない。
要するに、あなたがやらなければならないのは、意識してゲームの決まりを破るである。そのためには二つの方法がある。重要性を投げ捨て、無関心でいることによってコマから身をかわすようにするか、あるいは、その場にふさわしくないやり方で反応することにより、コマが消え失せるようにするかである。もしあなたが重要性にてこずっているのなら、二つ目の方法を試しいてみよう。コマからの挑発に対して、どんな形でもいいからふさわしくない反応をすることは、ゲームの決まりを乱暴に破ることになる。
選択の自由は不可解なほど単純なある事実の中にある。目的達成のために戦う必要はない。あなたに必要とされるのは、所有する決意である。あなたが所有することを思い切って自分に認めてあげるや否や、穏やかな気持ちで目的のある方向へと足を運ぶことができる。コマはあなたに全く違ったシナリオを押し付けようとする。コマは目的達成のために戦うよう強いる。あなたはそのために自分自身と世界に対して宣戦布告する羽目になる。コマはまずあなた自身から取り掛かるよう提案する。コマは、あなたが不完全だから自分自身を変えないうちは目的を達成できないだろうと吹き込む、自分を変えようとするあなたは、日の当たる場所を求めて戦いに参加する。の全てのシナリオはたった一つの目的のためにある。それは犠牲者であるあなたからエネルギーを奪うという事である。自分と格闘するあなたはコマにエネルギーを与える。世界との戦いに参加することも、全く同じことなのである。
戦いとは、息つく暇のない緊張、戦闘、規律を意味する。常に臨戦態勢である必要がある。この世界のどこかに自由があるとおぼろげに理解している戦士たちは、そんな風に振る舞う。だが、彼らの間違いは、自由は戦いと必要があると考えている点にある。戦士たちは一生を戦争状態の中で過ごすが、一番大切な自分の戦いは後に延期する。戦士たちには、自由というものをただ行ってとって来ることは不可能と思っている。自由をつかみ取ることは極めて困難であり、そのためには苦労と戦闘を何年もの間粘り強く続けなくてはならないことを戦士たちは自分にも他の者たちにも言い聞かせる。
事象選択の修行者たちは、自由を求めての戦いには加わらない。なぜなら自由をすでに手に入れているからである。だれも戦わせようと強制する事はできない。しかし、もしあなたが内的重要性や外的重要性でいっぱいになっているのなら、戦う以外に出口はない。事情選択における戦いというのは、非の打ちどころなく行動する意図のことである。だが、そのために必要なのは、戦う覚悟でも規律でもなく、意識性なのである。
もしつかみ取ることや所有する事を自分に容認することがうまくいかないのなら、後に延期するのもよいだろう。しかし、どれくらい後まで延期すと言うのは、人生のこの一瞬一瞬をよりよい未来への準備期間としてみなすことになる。人はいつも現状に満足せず、間もなく良くなると言う希望によって自らを慰める。こんなことでは目指す未来は決して到来せず、常にどこか遠方に見えるものとなる。それは沈む太陽を追いかけようとするのと何ら変わりはない。
この先にはまだまだ多くの時間が残されているという確信は幻想にすぎない。よりよい未来を持っているうちに、人生は幕を閉じる。「刹那以上の永劫はナシ」という諺はここからきている。本当に待っている時間などない。だから、未来をの待つのではなく、未来の一部を今この瞬間に組み入れるのである。今ここで所有することを自分に容認しよう。そうすることであなたの目的がすぐに実現されるというわけでは無い。今話しているのは所有する決意。つまり所有する意図についてであり、永久に続く自分との戦いのプロセスとは対極に位置するものである。所有する決意は、行動する決意よりも比較にならないほど大きな力を持っている。

〇コマからの挑発に対する自分の反応と戦ってはいけない。その反応を別の角度から見てみよう。感情とは、自分が取った態度が原因となっている結果のことである。ネガティブな要因に対する自分の反応を意識して変えるべきである。その場にふさわしくない態度を取るのは難しいことではない。なぜなら、あなた自身がそれをゲームにすぎないと認識しているからである。ピエロには飛び跳ねさせておこう。まるであなたは鏡しかない部屋の中で見えない敵と格闘しているようなものである。コマはすぐ隣にいるように思われる。だが、実際は、あなたが見ているのはコマそのものでもなければ、鏡に映ったコマの姿でもない。鏡に映し出されているのは、あなたの重要性である。何かが過度に重要な意義を持っているうちは、あなたには敵が存在し、その敵は常に鏡の中でちらつく、もし重要性がゼロであれば、何も恐れたり守ったりすることがなく、だれかを攻撃することもない。存在意義を映し出す鏡は粉々に割れてしまうため、あなたは粘土の人形が砕け散るのを目にするだろう。
コマとの戦いで強硬姿勢をとる必要はない。無の状態の方がずっと効果的である。「何物にも屈しない鋼のような神経、強靭な意思、頑固さ、忍耐力、自制心」などの表現は、防御、緊張、撃退を意味する。防御フィールドを維持するには膨大なエネルギーを必要とする。ご存じのように、こうしたエネルギーは全てコマの餌になる。しかし、もしなあた無の状態にあれば、防御フィードルを維持する必要はない。エネルキーは消費されず、粘土の人形は砕け散って消え失せる。必要なのは、常にゲームの決まりを思い出し、意識して重要性をゼロに保つことである。
重要性をゼロに保とうとして、攻撃を撃退するために常に戦闘準備していてはいけない。この場合のあなたは、ゲーム自体に過度に重要な意義を与えていることになる。肩の力を抜いて、ときには負けることも許容しよう。何が何でも打ち負かそうとしてはならない。握りしめているものをは放さないうちは、コマかあなたを好きなように操る。コマは、ステッキで犬を弄ぶようにして、あなたを悩ませようとするのに、そのステッキを犬が放したがらないとしたら、どうだろう。もしゲームが面白くなかったら、最大限の無関心を示し、平然と負けてしまうこと。
もし今、コマが勝ったら、これに固執しないで、この勝負はあなたの負けだと認めよう。あなたはバランスを失い。自分自身をも見失ったので、今の勝負で負けることには何の不思議もない。負けることで自分を攻めてはならない。次の勝負はあなたのものになるのだから、これで最後だ、自分に言って、最後通告を自分に送り、罠を自分に仕掛けてしまってはいけない。最後通告を突きつけるべき相手は、自分ではなく、コマであるはずである。実は、コマはこんな機会を待っていた。あなたが自分で自分につきつけるこのような最後通告こそ、強力な防御壁に他ならない。防除壁をを築くことで、あなたはゲームをし、敗北が避けられない戦闘へと変質させている。
コマは愛そうよく取り入るようにして挑発することがあるので用心してもらいたい。多くの人々が問題の重みに耐えかねて、たばこ、酒、麻薬に頼ることがある。もし、この次から有害な習慣を止める事にして、「これが最後だ」と自分に言い聞かせているとしたらそう言わせているのは決してあなたでは無い。それはコマなのである。コマはあなたの思考エネルギーの放射をすっかり乗っ取ってしまい、あなたにコマの考えを文字通り押し付けることができるのである「あと一回で最後だ。もうそれきりだ」とあなたが自分に誓いを立てさせる時には、必ず目を覚まして幻想を振り払おう。そんな風に言わせているのはコマなのだと。この事実を認識することは、平然と有害な習慣がら足を洗う事の助けになるだろう。断固としてではなく、まさに平然とである。
コマは信奉者を引き付けるためにはどんな手段もいとわない。コマは、道徳規範から宗教に至るまで、ありとあらゆる神聖なものを骨抜きにする。神が人々に自分の存在を示した途端、コマは宗教を自分のコントロール下に置いた。もしあなたが旧約聖書の十戒に目を向けたならば、納得がいくだろう。
一番目の戒めはさまざまな解説によと、次のようなものになる。「私は唯一の神であり、ほかの神があってはならない」。この戒めは、あらゆる宇宙を支配する唯一の神の存在を信じるよう人間に求めている。人々はすぐにこの戒めに背き、たくさんの宗・・・コマ・・を作った。というよりは、むしろ人々は宗教のコマが自分達を服従させることを容認したのである。宗教のコマは神という名によってカムフラージュされている。実の所、聖職者たちは神の言葉と行いを心から伝道しようとしている。だが、彼らはコマの信奉者となっていて、コマに牛耳られている。だから彼らが自由にできることは少ない。それにしても、宗教がらみの戦争や対立が神にとって本当に好都合なのだろうか。
二番目の戒めはこうだ。「自分のために刻んだ像を作ってはいけない。天にあるもの、地にあるもの、水の中にあるものの、どんな形あるものも作ってはいけない。それにひれ伏してはいけない。それに仕えてはいけない」。やはりこれもコマについて述べたことである。コマは、信奉者たちをコマに意思に服従させ、すべてがどれほど素晴らしい意図によって覆い隠されているかには関係なく、いずれにせよ信奉者たちがコマに利益のために行動するように強いる。
ところで、要するにすべての戒めは次の二つのことに行きつく。一人の信者がイエスに質問した。「先生、立法の中で最大の掟はどれですか?」。イエスはこう答えた。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、想いを尽くして、あなたの神なる主を愛しなさい」これが第一で最大の掟である。第二もこれと同様であって、こうなる。「あなたは隣人を自分自身のように愛しなさい」立法全体と予言者たちとは、これら二つの掟にかかっている」自分や他の人々の中にいる神を愛し、コマに屈してはならない。戒めが訴えているのはこういう事なのである。

〇ご存じのようにコマがつかみかかる事の出来る唯一のものが重要性である。あなたが重要性をゼロに保つ必要性そのものに大きな意味を与えているとしたら、コマはそのことにすら取りつきかねない。コマについて述べたことはどれも非常に深刻なことである。そうかといって、「もし今あなたが大真面目にコマへの宣戦布告をしたら、あなたは前もって敗北を認めたも同然。」という逆説がある。コマとの戦いにおける大事な原則は、コマと戦わないことなのである。それは、蝕知可能な敵との戦いではなく、粘土の人形との戦い、すなわちゲームであることを理解しなければならない。より正確に言うと、それが何なのかを決めるのは、あなたなのである。もしそれを先頭として認識すると、敗北の危機にさらされることになる。コマは戦って倒せる相手では無い。あなたは粘土の人形に挑戦状をたたきつけてこう言う。「お前が粘土の人形でしかないことは知っているぞ。痛い目に合わせてやる」。勝敗はそこで決まり。あなたは既に負けたも同然と思って間違いない。もしあなたがそれをゲームと認識しているならば、悪くても一回くらいは負けるかもしれないが、戦い全体を通して負けることはない。
あなたがコマのゲームの本質を認識し、コマの決まりに屈しない限りは、コマは粘土の人形なのである。コマは、あなたが自信を持つたびに、餌食にしてやろうと待ち伏せする。コマはあらゆる方法であなたのバランスを乱そうとすることを覚悟しておいてもらいたい。そこにこそコマのゲームの本質がある。コマの罠にはまったあなたは、バランスを崩し、自分を見失いコマにエネルギーを与えることになる。
今のあなたが落ち着いていて、喜びにあふれ、安定した状態にあるとしても、長続きはしない。コマが挑発して来るからである。例えば、望ましからぬ状況に陥ったり、悪い知らせを受け取ったりのすることがある。コマのシナリオに従うとなると、あなたは不安に駆られたり、恐怖におののいたり、パニックに陥ったり、しょげ返ったり、不満や苛立ちを表したりしなくてはならない。あなたがなすべきことは、ちょうど良い頃合いに目を覚まし、どんなゲームが行われているかを思い出し、すぐに重要性を放り投げることである。もしあなたが意識してこれを行えば、コマはどこかへ消え失せる。
もしあなたが覚醒した状態で眠ったりしていなければ、ゲームの決まりを破る事が出来る。無自覚の夢見状態にいる人は、常に状況の犠牲者である。夢は偶発的に起こるものであり、あなたはそれをどうしようもできない。現実の生活では、ネガティブな作用に対して無意識に普通のやり方で反応することを、だれもがずっと前から習慣としている。この後に何が続くかは、説明しなくでもいいだろう。だが、あなたはカキガイではない。その場にふさわしくないやり方で反応することが十分可能である。意図的にそうしてみると、コマの計画はとん挫することだろう。手遅れにならないうちに思い出して、ゲームの決まりを破る必要がある。
コマが全力であなたを挑発しようとしているのに、その挑発に自分は屈しないだろうとハッキリ自覚しているのは、どれほど痛快なことか。心地よい感覚は強い自分に対する誇りによるだけでは無い。コマにエネルギーを与えてしまうと、あなたは弱体化する。反対に、コマがあなたを挑発しても、あなたがそれに屈しなければ挑発に向けられたコマのエネルギーはあなたに移り、あなたをもっと強くする。この補われたエネルギーが心地よい感覚として現れることになる。今やあなたは以前の自分からエネルギーを奪い取っていたコマが、どれほどの高揚感を味わっていたか、想像できるだろう。コマにそんな機会を与えてはいけない。コマは何度もあなたにうるさく付きまとうだろうが、あなたはそれに屈してはならない。コマにはあなたに向けて勝手にエネルギーを浪費してもらおう。
決まりを破るやり方でコマのゲームに参加しているとき、ゲームそのものに腹を立ててしまいたくなる誘惑に負けてはいけない。意識して、しかし陽気に屈託なくプレイししている間のあなたは、粘土の人形を相手に砂糖で出来たおもちゃのサーベルを互いに手にして戦っている。粘土の人形はあなたをどうすることもできない。もしあなたがゲームの決まりを破り、バランスを保つことが出来たら、粘土の人形は砕け散る。だが、あなたが自分を見失い恥じた途端、粘土の人形の持つおもちゃのサーベルは本物の鋭利な刃に変わる。その場合、ゲームは本物の戦闘になり、あなたには誘導移転に引き込まれる結果が待ち受けている。

