〇自己評価が低下すると、信条は崩れ落ち、魂と理性の間には食い違いが現れる。自分の信条に従って生きることは素晴らしいの一言に尽きる。そして、あなたはその意味を知っている。しかし、もっとずっと素晴らしいのは、信条を定めることも、変えることも、あるいは信条と格闘することも必要としない状態のことである。そうはいっても、多くの人々が、大理石から彫像を削り出すように、自分の信条を作り上げようとする。けれども、そうしてみたところで、自己を掘り下げき、魂がズタズタに引き裂かれれる不毛な結果以外には、何ももたらされない。信条は、戦いや意志の鍛錬の結果として、形成されたり現れたりするわけでも無い。信条はすでにあなたの中にあるのだが、魂と同じく、重要性の箱に入れられ封印されているのである。内的重要性と外的重要性を放り投げさえすれば、信条は解き放たれるから、あなたはそれをすぐに感じ取る。重要性がゼロであれば、あなたには守べきものも奪い取るべきものもない。あなたは自分の信条に従って生活し、穏やかな気持ちで、執着することもなく、自分の目的を達成するのである。
このように、自分の存在意義を求めての戦いをやめ、自分の存在意義を裁いてもらうべき他者の手に委ねることもやめ、外的重要性を放り投げると、あなたは本当の自信を手に入れるだろう。それは過剰ポテンシャルの上に築かれたあやふやな自信などではなく、穏やかな内なる力、調整である。
本当の穏やかな調整は外にあるものと何も関係していないため、確認や証明を必要としない。おそらくあなたは疑いようのない自信を秘めた人物に出会ったり、映画などで見たりしたことがあるだろう。本当の穏やかな自信と言うのは、内に秘めた自分自身への満足感と充実感に基づいている。これはつまり自分を誰とも比べる必要がなく、魂の完璧なバランス状態にあるという事である。あなたが罪悪感、依存関係、優越感、義務感、恐怖感、不安感を感じておらず、魂と理性が一致しているときに、そのようなバランス状態が達成される。言い換えると、あなたは取り巻く世界とも、自分自身とも、バランスを乱していないという事である。自分の信条に従い、取り巻く世界とも、自分自身とも、調和した状態で暮らすこと。もちろんそれは理想だが、理想に向かおうとすることが必要なのである。それは、本当の自信、すなわち調整を手に入れるための唯一の方法である。それ以外のどのような方法で絵たれた自身も、偽りのものである。
調整は、あなたのコマからの自由を与え、よくする方向がどこであれ進み、よくするものすべてを受け取ることを可能にする。もし今のあなたが厄介な義務を果たさなければならないのなら、自分をリースに出し、映画に出演しているところをイメージしよう。我慢が肝心である。自分の扉に入る前に、あなたはこの映画撮影のおしまいまで自分の役を演じなくてはならないのだから。手段についてはあれこれ考えずに、目的とするスライドの視覚化を行ってみよう。そして、魂の意図があなたの扉を開けてくれる時を待とう。
とうとうあなたは過剰ポテンシャルと言う不要なお荷物から解放された。あなたにとっては内的重要性も外的重要性ももう過去のものとなった。自分の優越性を主張したり、自分の至らぬ点を隠したりする必要はない。現在にも未来にも心配事はない。あなたには守るべきものも奪い取るべきものもない。遂にあなたはコマの影響から自由になり、自分自身を気を遣うとができる。もしこんな風であったなら・・・・。
コマの権力は大変強力である。人々がそのことを思ってもみないことから、なおさらそういえる。人類に対する陰謀の悪身を張り巡らせようとしている宇宙人の秘密結社とは言えないが、コマは私たちの世界にとって切り離すことが不可能な一部なのである。コマは人々に影響を及ぼし、エネルギー情報的な作用を用いて操る。この作用は三つのレベルで現れる。精神面、感情面、エネルギー面である。重要性の糸を利用することでコマは人々から自由エネルギーをくみ取る。このようなことが連綿と行われてきたのである。ところが、最近、情報による影響が際立ち、急速なテンポで増大してきている。
文明の歴史は数千年を数える。しかしながら、最近数十年間に情報分野で起こった最新の成果のおかげで、様相は一変した。ありとあらゆる媒体に蓄積されるデータ量は等比数列的に増加している。だが、脅威となるのは、情報そのものの量ではなく、情報を広める手段や方法である。人々は、日一日と危険の度合いを増していく電子通信のクモの巣によってがんじがらめにされている。こうした危険性を知覚できない理由は、情報産業が新たな娯楽や満足感といった気分を高揚させる麻酔作用に隠蔽されつつ発展しているからである。
コマの目的が、信奉者たちを楽しませる事ではなく、信奉者たちを自分に従属させることであるのは、極めて明白である。情報のクモの巣の拡大と手の込んだ充実ぶりによって、コマは一度に信じられないほど多くの信奉者たちを網にかけることが可能になってきた。例えば同じテレビ番組を見る人が多ければ多いほど、それだけ多量のエネルギーをコマは集めることができる。また、コマが強ければ強いほど、影響力も増し、それだけ楽々と信望者たちを「私のようにやってごらん」というコマの手口で服従させることができる。
コマによねる手口は巧妙に機能し、人々を彼ら本来の目的から遠くへと連れ去る。しかし、今やこのプロセスは、人々が選択の自由をすっかり失ってしまう最終段階に差し掛かっている。いつした人は怪物のようなエネルギー情報マトリックスの一つの部品となる。人は制約という箱に閉じ込められ、メカニズムの部品となる。マトリックスの組織単位はその部品がいかに行動し、何を良くするべきかを決めるようになる。ご存じのように、空想小説の中で起こったことは、いつの日にかその通りに現実化するものである。
このプロセスは、気づかぬうちにではあるが着実に進行している。そして、その進行をどうすることもできない。従属させるためには、必ずしも暴力が用いられるわけではない。自分の自由がないことすら知らないという世界観を人に創りのあげてやるだけで充分である。丁度今そのようなことが行われているところであり。こうした条件下で自由を維持していくことは大変難しい。多から私たちはコマから身を守るためのいくつかの心得についてもう一度考察してみたい。

〇自信はあってもなくても、エネルギー消費を必要とする。自信のない場合、エネルギーは主に不安や心配に使われ、自信のある場合は、障害を力ずくで克服することに使われる。これは外の世界との非常に広範囲に及ぶ相互作用である。だが、本当はすべてはずっと単純なのである。あなたが意識して外的重要性を振り払い、事象の流れと戦う事を中止するだけで、すぐに障害はひとりでに取り除かれる。そうであれば、あなたに自信は本当に必要だろうか。いいや、もう自信はいらない。これからは、事象の流れにそって進み、シナリオではなく重要性のレベルを意識してコントロールするよう調整することだけが必要なのである。これまで様々な過剰ポテンシャルを維持することに使われていたエネルギーは、今やバランスをとることと、純化された意図のオールでほんの少し流れを助けてあげることだけに向けられるようになる。
もちろんあなたがどれほど努力しようとも、重要性をキッパリ断ち切る事はうまくいかないだろう。重要性と戦う必要はない。固く握りしめていた物を解き放し、くよくよ悩むことに費やしていたエネルギーを行動するエネルギーに変換するだけでよい。緊張したり固執したりせず、どんな形でもいいから行動することを始めよう。過剰ポテンシャルのエネルギーは行動することで消え失せ、意図のエネルギーが解き放たれ、厄介なはずの問題には簡単な解決策が見いだされる。
不確実性への恐れについてはどうかと言えば、自己暗示、妄信、偽りの自信によっては克服できないだろう。目的達成の手段については考えないようにと私が切に進めていたことを覚えておいていただきたい、達成しがたい目的の実現や百パーセントの成功をあなたは自分自身に信じるよう強制することは決してできない。こうした意味の無い試みはやめておこう。信じようとしても結局何にもならないのである。一時的に自信をつけても、すぐに消え失せてしまうだろう。
あなたに必要なのは、信念でも自信でもなく、調整である。調整とは、あたかも目的がすでに達成されたと考えることから喜びを得て、シナリオをコントロールしようとした握りしめていたものを放し、純粋な意図というオールを利用しながら事象の流れに沿って進むことを意味する。こうした行動であれば、成功を妄信する事とは何の関係もない。妄信も含め、信念のある所には、必ず疑念の入り込む余地がある。過度に圧縮された自身のポテンシャルが物事を見えなくする。あなたが事象の流れに沿って意識して進めば、余計な苦労なしに、すべてがうまくいくのである。
もし調整に従ってこうとするならば、カーブしている流れの向こうから、かつてはいくら信じようとしても信じられなかったものや、不確実なために実現を危ぶんでいたものが、間もなく見えてくる。理性の目の前に事実が突き付けられると、疑念は消え失せる。すると、信念は知識に、不確実性による恐怖は自分の力を実感する喜びへと変わる。肝心なのは、重要性を振り払い、シナリオをコントロールしようとして握りしめていたものを放すことなのである。問題の持つややこしさのレベルを規定するのは自分だという事を認識すべきである。もしあなた自身が容認すれば、シナリオ上の変更はあなたに有利に働くだろう。
さぁ、これでようやく魂と理性が一致した状態での完璧な調整が成し遂げられる。もし意識レベルであなたに願望や自信があると思われるなら、潜在意識レベルでは疑念や鬱状態が残っていることになり、調整はうまくいかない。魂と理性の一致を達成するためには、魂の銘じることに耳を傾け、自分の信条に従って生きることで充分である。自分の魂の声をなぜどのようにして効くのかについては、すでに何度も述べてきた。自分の信条に合致した人生とは、私は自分を愛する、私はあるがままに自分を受け入れる。私は良心の呵責や罪悪感で苦しむことはない、私は理性や魂の命ずることに従って迷いなく振る舞う、という事である。

〇自分自身に対する自信の無さとは、何よりもまず低い自己評価のことである。自己評価をどうやって引き上げたらよいのだろうか。本当はあなたは自分で考えている以上にずっと素晴らしい、などと信じるよう私が進めるとでも思っているだろうか。多くの心理学者たちはくどくど言わずにそうする。もし自己評価がうぬぼれに近いもので無ければ、実際のところ、周囲の人々にあなたへの評価はあなたの自己評価とそのまま比例したものになる。あなた自身が、自己欺瞞なしに、自分の高い存在意義を認めるや否や、他の人々はすぐにそれに同意するだろう。問題となるのは、自分を納得させることがそれほど簡単ではないという点だけである。確かめてみたらいい。もしあなたの自己評価が低いのなら、それと反対のことを自分に納得させることはうまくいかない。一体そんな長所はどこにあるのか。短所なら、ほうら、すぐ目の前にあるのに。
そんなわけで、自分に長所があると信じよう、自己評価を引き上げよう、などと私はあなた訴えたいのではない。そうしても、あなたは自己過信か、あるいはもっとひどい鬱状態に陥るだけだからである。私が提案したいのは、存在意義を求めて戦う事をおしまいにしようという事である。信じることも自分を説得することも必要ない。ただ戦いをやめて、どうなるか見てみればこんな風になる。つまり周りにいる人々は、あなたの事をもっと尊重してくれるようになる。まるで彼らの目から見たあなたの存在意義が高まったかのように、この事実に接すれば、自分を説得して信じ込む必要はなくなってしまう。あなたはそれをただ単に知ることになる。
今述べた逆説は間違いなく聞く、存在意義を追い求めての戦いは自由エネルギーを奪い取り、それを事象の流れとの戦いと平衡力を招く過剰ポテンシャルの発生とに振り向ける。そうしたことの全ては、複雑にもつれた数々の問題をありとあらゆる有害な結果と結びつける。あなたはそんなにもつれた問題を解く事はできない。そこで、ただ自分の存在意義を追い求めての戦いを止めることにしてみよう。すると、それによってもたらされる結果に驚き喜ぶしかなくなるのである。そこまで来ると、あなたから見た自分自身の存在意義はひとりでに上がっていく。あなたの自己評価は上がり、それに続いて、周囲の人々もあなたへの評価を挙げることに同意する。
自己評価をわざと高めることが無益であるのと同様に、罪悪感を自分から無理やり絞り出すこともやはり無益なことである。もし罪悪感に引き寄せられやすい素地がいるのなら、あなたはいつまでたってもその罪を葬り去ることも追い払う事もできないだろう。では、どうすればよいのか。
低い自評価への対処法と全く同じである。周りにいる人々に弁明することを止めること。弁明は、自分の振る舞いを説明する必要が本当にある。やむを得ない場合に限って行う事にしよう。もしあなたが誰にも害を与えていないのなら、たとえ何に対してであれ、だれもあなたを裁く権利は持っていないことを肝に銘じるべきである。皆の前で自分を非難するべでもないし、自分を弁明するべきでもない。人形遣いたちにはどこかへ消えてもらおう。あなたは他人の罪を餌食にしたがる人々が集まった法廷にいる。扉をそっと開閉し、黙ってその法廷から立ち去ろう。もしあなたが強い罪悪コンプレックスを持っていたら、始めのうちは自分の良心を少々押し殺すくらいでもちょうどいい。自分の存在意義の評価を他人の手にゆだねてはならない。自分の内部で葛藤するのではなく、今述べたような行動によってのみ、罪悪感から脱することが可能になる。すると、あなたは罪悪感がどこかへ消え去ったことを自分自身で実感するだろう。
このようにして、自分の存在意義を求めての戦いをやめ、弁明することも辞めたあなたは、自分の内的重要性のかなりの部分を精算することになる。罪悪感を持つことや自分の存在意義への不安感は、内的重要性の主な表れである。残る全ての過剰ポテンシャルは、これら二つから派生したものである。あなたはもうこれ以上自分を弁明する必要は無い。なぜなら弁明するべきものが無いからである。他者からの攻撃の機先を制するために。他者を攻撃するという事も、もはや不要である。ここにふさわしい諺がある。「誰も脅かしていなければ、自分も恐れることはない」。
同様に、もし外部にある対象の重要性を引き下げたら、それらが帯びていた重大な意義があなたに重くのしかかることはなくなるだろう。外的重要性には重苦しい二つの変形がある。問題の複雑さと不確実性である。どちらも不安や心配というやりきれないポテンシャルを生み出す。誰でも常に何かについての不安を感じている。自分に自信のない人々は、問題の重みに耐えながら、何とかして重い荷物を運ぼうとする。強い人格の持ち主は、粘り強く断固として困難に打ち勝とうとする。彼れらは強固な要塞を襲撃し、自らの自信による過剰ポテンシャルによって壁に穴を穿とうとする。

〇そもそも自信とは何のためにに必要なのだろうか。勇敢に断固として日の当たる場所を戦い取るためである。コマは私たちに一つの確固たる公理を押し付けてくる。それは「何事もたやすくは与えられないのだから、もし自分の目的を達成したいのなら、戦い、主張し、要求し、競争相手達を追い抜き、肘で人をかき分ける必要がある」というものである。とはいえ、勇敢に断固として行動するためには、自信が不可欠となる。
ご承知のように、戦いや競争が唯一可能な道というわけではない。もしコマのシナリオを諦めたら、目的達成に執着することなく穏やかな気分で自分の目的を達成する事が可能になる。そのためには戦う事は全く必要とせず、主要する決意を得ることで充分なのである。コマにとって選択の自由は破滅を意味する。もし誰もが、障害を築き上げることとそれに続く障害の克服にエネルギーを消費することなく、戦わないで自分の目的を達成する事になったら、コマにとっては何一つ得るものがなくなってしまう。私たちの住む世界をコマなしにイメージすることは難しいが、コマによって作られた偽りの固定観念は、力学法則のようなゆるぎないものではない。意識性と意図とが、コマのゲームを無視し、戦うことなく自分の身く敵の達成を可能にしてくれる。戦わない事由があれば、自信は必要ない。
自信のない状態から発生するのは重要性だけである。自信とは、マイナス符号が付いた自信の無さのポテンシャルである。どちらも根っこは同じ、すなわち外部要因と状況への依存症である。それはちょうど次のような構図となっている。コマは人を人形のように糸で支えることによって自分の道に沿って進ませる。その人は、道を選ぶことができないだけで無く、一人で進むこともできないように感じる。もし何本もの糸がムラなく張ってあればも、人はまるで母親と手をつないでいる子供のように自信を持って歩く。意図が緩み、不安をあおるようにびくびく震え出すと、人は自信を無くし、意図をぴんと張ろうとする。
コマが人をつかんで離さないのではなく、人が自分で重要性の糸を放そうとしないのである。その人は糸を放すことを恐れる。なぜなら頼りになる支えと自信と言う幻想を生み出している依存関係に支配されているからである。子供は最終的に母親の手を振りほどき、一人で歩むようになるのだが、母親自らがそうなるよう子供を促す。ところが、コマの場合は逆で、人が道を選ぶことや糸の助けを借りずに一人で歩む事はできないのだと事あるごとに説得しにかかる。もし人が幻想を振り払い、重要性の糸を放せたならば、その人は行きたいところへ自由に生き、ただ単に自分の目的を選ぶことが出来るようになるのであって、自分の目的を求めて戦うことはなくなる。
自由を得た人は、頼りになる支えという幻想を生み出す自信と言うものをもはや必要としなくなる。その人に必要なのは、転ばないようにするための調整だけである。コマの支配下にある人は、重要性の糸を握っていることこそが安定と支えだと思うことに慣れきっている。しかし、そうすることでその人は常にバランスを崩し、偽物の保険を掛けた状態で、途方に暮れて、オロオロ揺れ動いては、コマにエネルギーを与えているのである。もし人が重要性の意図を手放すと、バランスを保つためにすべきことは、重要性の土壌から新たな過剰ポテンシャルを発生させないようにするだけとなる。
支えとしての自信はもう必要ない。なぜなら、もし重要性がないのであれば、守るべきものも奪い取られるべき物もなくなるからである。恐れる事もなければ、心配することもない。もしいかなるものも過度な意味を持たないならば、自分の世界の層は過剰ポテンシャルによって歪むことは無い。戦う事を放棄し、流れに沿って進む。自分は無の状態であるから、つかみかかられることもない。しかし、だからと言って虚しさの中で宙ぶらりんの状態にあるのでは無い。まさに今こそ、もし望むなら、選択の自由を得られるのである。戦う必要性はない。ただ悠然と進み、自分の目的を達成するだけである。これはもう不安定な自信などではなく、穏やかで意識的な調整である。
平穏な気持ちはどこから現れるのか、もし内的重要性がなければ、だれに何かを証明することも求められない。平穏な気持ちもそこからもたらされる。あたが自らを重要人物だと感じると、皆にそのことを証明しようとする欲求が生じ、過剰ポテンシャルが発生する。そうなると平衡力があなたの重要性についての伝説を貶めるためにあらゆることをやってのける。自信がどれほどゆるぎないものか試される条件がひっきりなしに表れることになる。
たとえほんのわずかな凋落の現れであっても、存在意義を高め確認するための戦いへと人を突き動かす。周囲の人々や自分自身に何かを証明しなくてはならない気持ちを放棄し、存在意義を証明不要の自明の理として受け入れよう。自己重要性を求めての戦いを選んでしまうと、あなたはそのために一生涯を費やすことになる。こんな戦いを拒んだあなたは、すぐに存在意義を得られる。

〇自信を得るための別の方法は、自信の基礎を築こうとせず、一か八かの行動に出ることである。自己過信とは臆病の裏返しである。それは何にもないところに、あろうはずの無い見せかけだけのものが生じている状態のことである。もし自信に何の裏付けもなければ、やはり過剰ポテンシャルが生まれる。しかし、ここでの問題は過剰ポテンシャルそのものだけにあるのではなく、自信満々に振る舞っているあなたが誰かの利益を犯しているというところにある。ある人が砂漠のど真ん中にいて、「世界は俺様の足元にひれ伏している」と大声を張り上げているところを想像願いたい、好きなだけ叫ぶが良い。そうしたところで誰の邪魔にもならない。だから平衡力がその人に影響を及ぼすこともない。しかし、もし根拠のない自信が他者の可能性との対比で持ち出されたら、依存関係が生ずる。自分と他者との比較に基づいた自身は、純然たる過剰ポテンシャルである。自信が他者への軽蔑や侮辱に基づく場合は、特にそう言うことができる。こうした偽りの自信はいつか必ず懲らしめのための一発を鼻面か尻に食らうことになる。
この他に、急に自信というものの味を占めた臆病者が興奮することによって引き起こされる熱狂的な自信というものがある。これも一時的な感情の高揚に基づく偽りの自信であり、長続きはしない。
どうしたら本物の自信を得られるのだろうか。あなた自身よく理解されているように、自身の無さと格闘しても無益なだけである。空威張りをしたところで、自信の無さを隠すことはできない。隠そうとしても結局はうまくいかず、空威張りに費やされたエネルギーは自分に逆らって働くようになる。自信を持つように自分を強いることも無駄なことである。勇気や決断力がないのに、勇猛果敢に振る舞おうと自分を強制することは、全く意味の無いことである。自制しようと強いることも不可能である。以上のように、意図のエネルギーは押さえつけられているのではなく、ひたすら操縦桿を握りしめることだけに消費されているのである。だから、行動に向けるべき意図のエネルギーが足りなくなる。
たとえいかなる方法によろうとも、自分が持っている自信を大きく育てようとするのは無駄なことである。果断な行動によって自信がつくように思われるかもしれない。だが本当は、人が戦うことをやめて行動し始めると、意図のエネルギーがそれまで握りしめていたものを緩め、過剰ポテンシャルの維持から行動の実現へと方向を切り替える。そうすると、「案ずるより産むがやすし」となり、すべてがうまくいく、しかし、自信は行動によって育つものではない。行動によって自信がついたように思われるのは、意図のエネルキーが解き放たれたためである。自信を育てることは不可能である。自信とは有るか無いかわからないようなエネルギーだからである。
自信は、信念と同じく、自己暗示によっては得られない。あなたは、自分に自信があるという肯定表現を気が遠くなるくらい何回も繰り返して自らに言い聞かせることはできる。だが、それはとても幼稚で無駄な訓練である。原因を取り除かないまま、病気の症状と戦うのと何ら変わりがない。自分の自信の無さをどうしてみようとも、それは決してどこかへ消えさったりはしない。何とかして自信を得ようとしたところで、得られるものではない。同様に、いつも自信の波の上に居続けようとして、自分の思考がしかるべく伝播するよう維持することもできない。
朝方、自分にこう言い聞かす事はできる。「よし、私は自分に自信がある。何があっても私の自信は揺るがない。私は大岩のように揺るがない」この後、どうなるか見てみよう。一定時間、あなたは本当に自信があるように感じるだろう。そして、それはより大きな自信と喜びとをあなたにもたらすと思う。しかし、すぐさまどこかのコマが卑劣な挑発をはじめ、あなたは自信の波から転げ落ちたことにさえ気付かないのである。またしてもあなたは、苛立ったりしょげ返ったりするか、不愉快なことが起こったり、何かで気が滅入ったり、何かを恐れたり憎んだりすることだろう。遠くに光明を見出したと思ったのに、あなたは再び行き詰ってしまう。
この複雑に錯綜した迷路からどうやって抜けだしたらよいのやら。いいや、あなたはどうしても抜け出すことが出来ない。出口はないのである。この迷路の秘密は、あなたが出口を探すのをやめ、重要性と縁を切れば、迷路の壁が崩れ落ちるという点にある。自信の無さは二つのグループの原因によって生み出される。
一つ目のグループは、あなたの内側にある原因である。自分の個人的な資質についての過度な心配がこれに当たる。ここから生じるのは、短所ばかりで長所の無い自分に対する不満、他者との比較による劣等感、引っ込み思案、失敗することや格好悪い状況に陥ることへの恐れ等々の感情である。
二つ目のグループは、外部要因の評価を不相応に高めたことからくるあなたの外側にある原因のことである。結果として、自分の内側の低い資質と外側にある高い要求とがつりあわないことによる根拠のない不安、外部要因に対する畏怖の念、自分を大都会の中のちっぽけな存在と認識する感覚、果ては、取り巻く現実に対する恐怖までもがもたらされる。
そこで、次のような逆説を述べたい、自信を持つためには、自信を持つ事を諦めるべし、迷路の壁は重要性で出来ている。自信喪失の状態から抜け出て、自信を持とうともがきながら、あなたは迷路に沿って歩いている。自信とは妄想である。それはコマによる発明品の一つ…偽りの蜃気楼、重要性が取りつくための罠なのである。自信とは、コマが常に勝利するコマによるゲームのことである。信念のある所には、必ず疑念の入り込む余地がある。同様に、自信のある所には、必ず迷いとためらいの付け入る隙間がある。自信とは、ある種、成功することへの信念である。いかなるシナリオにもネガティブな変更を加えることができる。自信の壁を崩すには、一つの小さな変更だけで十分なのである。
自信の概念は、過剰ポテンシャルと依存関係上に築かれる。次のような場合に、自信が関係しているといえるだろう。「私は決断力に満ち溢れている」「私は毅然としており、大岩のように揺るぎない」「私なら他の誰よりもうまくいく」「何事も私を押さえることはできない」「私はどんな障害も克服する」「私は誰よりも強く勇気がある」等々。
自信とは単なる一時的な過剰ポテンシャルにすぎない、という事なのである。それをどんなパッケージで包もうとも、過剰ポテンシャルであることにかわりはない。落ち着きぶりというものでさえ一時的に講じた緊張以外の何物でもない。自信とはマイナス符号のついた自身の無さなのだから。どちらであってもそのようなポテンシャルはエネルギー消費を必要とする。自身のポテンシャルも平衡力によって確実に破壊される。そのため、自信を追い求めることは、どこか遠くの未来に見える幻の幸せを追い求めるように不毛なことである。
こうしてまた私たちはもう一つの固定観念を打ち砕いてしまった。それにしても自信を持たずにどうやって生きればよいのだろうか。そこで、事象選択は代わりに別の選択肢…調整…を提案している。調整とはいったい何なのか、これから説明しよう。

〇必要な扉を通ってあなたの目的へと続いている道では、あなたの他には、だれも何も邪魔することは無い。より正確に言うと、信念の欠如や自信の無さだけが障害となり得る。一般に、新年の欠如と自信の無さは、同じ次元の話である。どちらも、意思の意図を非効率にし、魂の意図に至ってはほぼ不可能にしてしまう。
自信のない状態では何をやっても全てが裏目に出てしまう。うまく行動しようとする願望の緊張が高まれば高まるほど、結果はより悪いものとなる。自分の可能性への信念が欠けていると、外聞の問題のややこしさを過大評価することにもなり、精神的な拘束状態や虚脱状態になる。虚脱状態の本質とは、自縄自縛に陥った拘束状態のことである。目的の持つ外的重要性が、それを達成したいとするやりきれない願望を生み出す。内的重要性は自分の可能性への疑いを生み出す。そして、すべてが相まって自信の無さとなる。
自信の無さは、目的を達成しようとする意思の意図をあらん限りの力でぎゅっと締め付ける。平衡力の作用を考慮に入れなくても、こんな風に締め付けられたら、その効果は意図したものと全く正反対になる。エネルギーはいくつもの過剰ポテンシャルを維持するためだけに消費されてしまう。いくつあるか見てみよう。内的重要性、外的重要性、やりきれない願望、自分自身と状況とをコントロール下に置こうとする欲求。そのための自由エネルギーはいくらあっても足りない。人は自分が押さえつけられ固くなっていると感じ、不器用にぎこちなく行動する。そのため、何とかコントロールしようとしてさらにきつく締め付けようとする。
このようにして虚脱状態にまで行きつく事があり得る。そうなると人は動く事も、まともなことを口にすることも出来なくなる。その人の意図が万力で締め付けられているかのように感じられるかもしれない。しかし、本当は、意図が全く欠けている状態なのである。意図のエネルギーは全て過剰ポテンシャルの維持に使われているからである。不安や心配という形をとった自身の無さは、そのままコマの餌になる。不安は「もし…なら、どうしよう」というタイプの予測から生み出される。通常、自信のない状態にあると、予測は悲観的なものとなる。するとエネルギーは、ネガティブな筋書きを思い浮かべることと、それについてくよくよ思い悩むこととに向けられる。その際、意図のエネルギーも消費される。だが、この場合、意図のエネルギーが消費される事実そのものはそれほど恐ろしい事ではないのだが、この場合、意図のエネルギーが消費される事実そのものはそれほど恐ろしい事ではないのだが、問題はエネルギーの行先である。不安、心配、恐怖というのは、悪い予感を生み出す強力なジェネレーターなのである。そして、悪い予感は、ご存じのように、実現されることになる。
他にもう一つ、容易に私たちの自信を失わせる源泉がある。それは罪悪感である。罪悪感は、劣等感、凋落感、屈辱感からなる花束で輝いている。罪悪感は何と強い確信によって裏付けられていることか。罪悪感はそれと結びついたあらゆるものは、エネルギー・チャンネルの幅を狭めてしまう。そうなると、意図のエネルギーは不足し、煮え切らず元気なく拙劣に行動するくらいがせいぜいとなる。加えて、もしあなたに罪悪感を持つ傾向があるのなら、ランプの周りに集まる蛾のように、人形遣いがいつもあなたに付きまとって離れようとしないだろう。彼らはあなたの弱みを察知し、あなたを利用して自己肯定し、大喜びで無防備状態にあるエネルギーをむさぼる。人形遣いたちは常にあなたの罪悪感を弄ぶので、あなたは彼らにいつまでも弁明や釈明をし続けることになり、ますますあなたの自信喪失の度合いは深まっていく。
自信の無さというのは悪循環をもたらす、重要性と願望が強ければ強いほど自信の無さもの強まる。自分自身や状況をコントロールしようと強く握りしめれば握りしめるほど、それだけ精神の拘束状態は強まる。不安や心配が大きければ大きいほど、より早い時期に現実となる。一般に、罪悪感は人生を惨めで虚しいだけの落後者の生活に変える。
こうした迷路から抜け出そうとして、人はどんな手段でもよいから自信を得ようとする。そんな手段の一つが、取り巻く世界に対して攻撃に出るというものである。攻撃の際、人は機先を制する形で力を誇示し、自信ななさを隠そうとする。取り巻く世界に対して粘り強く果断に作用すことで、人は自分の自信という壁を高く築こうとする。こうしたやり方は膨大なエネルギーを消費するのだが、自信の壁は築いたそばから崩れ落ちていく。力を及ぼさんとして消費される大量のエネルギーは、過剰ポテンシャルの発生と事象の流れへの抵抗に向けられるのである。こんな人はいずれそのうち失敗を期し、再び格闘し、自信の壁を築かざるを得なくなる。

〇面接の場では、求職者が考えることの全ては、自分を最もよく見せようという事に向けられる。あなたはどうすれば自分を最高に見せられるだろうか。魂の意図の焦点は、雇い主の問題に心から関心を示すことに絞られる。雇い主の問題に関心を示すことだけが、あなたを最高に見せることを可能にしてくれる。
あなたがとるべき姿勢は、質問に答えながら、常に雇い主の問題という文脈の中で話を進めると言うものである。その際、与えられた質問に的確に答えるべきであって、無駄口をたたいたり脱線したりしてはならない。面接相手が質問に具体的に答えなかったり、くどくどした説明を始めたりするのは、雇い主をいらだたせるだけである。
ところで、機会が与えられたらそれを逃すことなく、その企業が何に従事し、何に優れ、どんな問題を抱えているか、あなたの方から水を向けてみよう。その文脈の中で話を進めるべきである。あなたの長所はその企業の問題という観点から浮かび上がってこなくてはならない。企業の問題についての話を雇い主と語り合い、あなたの職業上の資質によってどうしたら問題の解決を手助けできるかについて相談しよう。それは魂の意図による物ともなろう。もしあなたが面接での話題を雇い主の抱える問題へと切り替えることが出来たら、ゲームはもうあなたのシナリオに沿って進んであると考えてよい。
もし最終的にその仕事に採用されなかったのであれば、それはなあたの仕事ではなかったという事である。どれほど嫌な問題からこんなに運よく楽々と逃れられたか、あなたはただ知らないだけのことかもしれない。気持ちを落ち着けて、自分の仕事との巡り合いを持っていると、きっと手に入れられる子だろう。けれども、もしあなたが得た仕事が他人のものであったら、問題が待ち構えていることを覚悟しておこう。だからこそ、自分の仕事を探すのが一番である。それをどうやって探すのかについてはあなた自身がすでにご存じのはずである。その仕事のことをあれこれと思いめぐらしても、魂の不快がいささかも引き起こされないことが肝心である。お祭りに出かけるような気分で出社できるとしたら、それがあなたの仕事という事である。

〇さぁ、ついに面接への呼び出しが来た。これからは自分の意図の方向を特に念入りに見守るべきである。この企業での仕事は自分に何をもたらすかという考えは、視野が狭まった意思の意図による。一方、自分はこの企業に何をもたらすかと言う思考に集中することは魂の意図による。目的とするスライドをあなたから放り出し、自分自身と向き合うのを止め、雇い主が求めていることに完全に集中するときが来た。いまこそ、ほかならぬ雇主の意思の意図があなたに対して関心を示してくれなくてはならないのである。
広告パンフレット等からその企業について出来るだけ多くのことをあなたに入れておこう。その企業と他のライバル企業とを比べて、どこが特に優れているのか、どんな違いを強調しているのかも、調べておこう。そうした情報をしっかりと理解しておき、面接週に必ず触れるようにしよう。あらゆるコマと同じように、どんな企業にも独自の共鳴周波数というものがある。そうした共鳴周波数はたくさんのパラメーターによって特徴づけられているからである。
またどのような企業倫理を待っているのか、起業精神を見極めよう。厳格に規定されたものなのか、それとも自由なものなのか、社内の雰囲気はどうだろうか。堅苦しいものか、それとも打ち解けたものか。仕事への姿勢としてはどれが重要視されるだろうか。熱意やイニシアチブか、それとも規律や処理能力だろうか、仕事は集団で取り組むのか、それとも個人主義や創造性が求められるのか、等々。これらすべては従業員たちを規制し、彼らの行動様式を定め、その企業の従業員として特徴づけている。もしあなたが企業精神に感化されたならば、面接時点ですでに仲間として受け入れられたことになる。
面接を受ける前に、自分の短所や取柄のなさに対しては自らに免罪符を交付しておこう。もし就職にとっての障害となりそうな短所があなたにあったり、必要とされる知識や経験を持ち合わせていないと自覚しているのであれば、そうした状況と折り合いをつけておこう。自分をあるがままに受け入れよう。隠しておきたいようなこともすべて自分で受け入れたうえで、落ち着いた気持ちで面接に臨もう。理想的な雇い主が存在しないのと同様に、理想的な求職者も存在しない。だから、勇気を出して、内的重要性も外的重要性も放り出してよい。あなたには自分に対しても他の誰かに対しても釈明すべきことは何もない。もちろん、だからと言って、自分の短所をそのまま放置しておいてよいと言っているのではない。しかし、面接時の時には、自分の短所の存在を思い切って受け入れておくことが必要なのである。
面接時には動揺してはいけないことくらい誰でも知っている。多くの人々は意思の意図の力で動揺を抑え込もうとする。しかし、落ち着いていようとどれほど自分に言い聞かせてみても、あるいは動揺しないようにしようとどれほど自分に繰り返してみても、すべては無駄なことである。原因を取り除かないまま動揺をおさえようとしてもうまくはいかない。動揺を押さ鵜用としてやり過ぎると、虚脱状態にまで行きつくことすらある。そうなると、あなたは古代エジプト王朝のファラオのミイラのようにふるまうことになる。動揺から逃れる唯一の方法は、失敗した状態と前もって馴染んでおくことである。
採用されようとする願望は過剰ポテンシャルを生み出す、良い結果を得ることに大きな意義を与えれば与えるほど、また、その職につくことがあなたにとって重要であればあるほど、うまくいく機会は小さくなる。願望を取り除いて意図を純化することが必要なのである。あなたが面接に臨むのは、採用されるためではなく、面接を受けるためである。面接で降格するのではない、まさに面接を受けるのである。目的に向かうのではなくも、プロセスに注意を集中するのである。元気を出して面接のプロセスを楽しもう。そこでは誰も取って食おうとしたりはしない。あなたに失うものは何もない。面接は、リラックスして満喫すべき時間である。自分をそれに同調させよう。面接とは自分を最高に見せる素晴らしい機会なのだから。そんな至福のひと時を思い切って楽しもう。つまらないへまをしでかして相手に笑われるかもしれないなどという考えは捨て去ってよいのである。失敗した状態と既に馴染んであるあなたには、失うものなど何もないのである。

〇理性は需要を予見することができない。理性は自分のイメージの中であなたを「傑作」として見せようとする。しかし、市場は全く別の基準を押し付けてくる。自分の裁量の面を見せようとすることは可能であり必要でもある。もちろん誇張しすぎてはならないのだが、ところで、そのように自分を見せながら、自分の思考や動機を雇い主側の問題の方へとむけてみよう。雇い主はあなたから何を受け取りたいのか、雇い主は何を必要としているのか。常に自問してみよう。自分を雇い主の立場に置いてみるのである。
あなたがとるべき行動は非常に簡単なことである。あなたのプロフィールに適した求人情報がないかとうかよく調べ、様々な掲載文から求職者に求められるすべての職責や資質を書き出してみよう。重なる点が多い事に気付くだろう。書きだされた全ての項目から、あなたに当てはまるものを選び出し、自分の職責や資質として並べると、雇い主が期待する履歴書と言うものをあなたは作り上げている事になる。雇い主が求職者に求めるものを、あなたは自分の履歴書にそのまま書き写しているのである。自分を適度に美化し、あなたが考えたフレーズではなく、雇い主自身が語る言葉で表現するようにしよう。
あなたが求職者でなく、雇い主であり、自分の会社で働く従業員の理想的な履歴書を作成していると想像してみよう。その場合、履歴書はあなたの基準ではなく、雇い主の基準に答えるものとなる。そのためにはたくさんの求人広告の全てに目を通し、広告主の身になって考える必要がある。また、求められていること以外のあなたの能力をすべて記しておくことは可能であり必要でもある。しかし、求められていること自体は特に強調して目立つようにしておくべきである。あなたの履歴書は雇い主側の要求と見事に響き合うものであなければならない。
インターネット上などで履歴書を書き送る前に、自分を雇い主の立場において、あなたのようなプロフィールを持つスペシャリストの履歴書を検索してみよう。きっと少なからぬ発見があり、非常に参考になるだろう。大部分の求職者は、意思の意図だけに基づいて、しゃにむに採用担当部署へ直接出向き、そこで履歴書蘭に記入してしまう。しかし、あなたはまず最初に自分が希望するような役職を探しているスペシャリストの履歴書を検索してみよう、そして、あなたが雇い入れる立場にあると想像しよう。すると、自分のライバルたちの長所も短所もすべてが見えるようになり、それらの履歴書から雇い主はどのような感想を持つのかがわかり、自分の履歴書のどこをどう手直しすべきかがハッキリしてくる。
履歴書を作成したら、様々な企業に送付しよう。無理やり押し入ろうとせず、扉が明けられるのを待つこと。つまり執着せず、呼び出しがあるまで待つのである。起業側の方からあなたを選んでもらおう。例えば、あなたの履歴書を様々なメディアで公開しておくという手もある。自分の願望や欲求によってこの世界に圧力を加えてはならない。仕事を探すという事から労働市場への自分参加表明へと重心をシフトしよう。出来るだけ仕事の方からあなたを見つけてもらおう。同じ内容の履歴書を何度も送ったりしてはいけない。自分のプライドを尊重し、自分の値打ちを知っておくべきである。もしあなたが他を寄せ付けないほど専門分野に精通しているのなら、自分の履歴書を求人機関などに送った後は、獲物が釣り針にかかるのをゆっくりと待とう。
即座に反応があるはずと期待してはならない。あなたの注文が履行されるまでには長く待たされることもあり得る。それはあなたの意図の純度による。もしあなたの願望が赤々と燃える炎になっているのなら、平衡力があらゆる手であなたの邪魔をするだろう。希望が尽きてしまった頃に、注文が履行されることはよくある事である。あなたが自分の注文に平然とした態度を取っていれば、その分早く注文が履行されることになる。願望がない状態ではまだ起きてもいないような失敗について気をもむ代わりに、行動する意図に集中することが自由にできることになる。

〇誰もが悩むであろう応用問題で、フレイリングを含む事象選択の法則の実践方法であるが、たぶんあなたはさまざまな情報源で、履歴書の作成や面接の席での振る舞い方について読んだことがあだろう。次に述べることから、自分にとってためになる新たな結論を導き出すことができるかもしれない。
手始めに、どのようなものがあなたの仕事となるのかを決める必要がある。それについては、あなたの目的とあなたの扉の選択に関する方法論のところですっかり述べてあるので、ここで繰り返すことはしない。あなたは選択する権利を実際に持っていて、可能性は自己の意図と重要性のレベルによって制限されるという事を思い出すだけでよい。あなたの仕事を決める過程では、職業の格式の高さ、達成手段、自分の短所については考えず、あなたにその仕事が本当に必要かどうかだけを考えよう。
あなたが自分のために選んだそんな良い職業に、自分の座るべき席が果たして見つかるだろうかとの疑念が生じたとしよう。そのような場合、コマはあなたのために不安、失望、果ては絶望に至るまでのあらゆる条件を取り揃えて、手ぐすね引いて待っていることを承知しておかなければならない。あなたは今述べたことを肝に銘じるとともに、自分は選択する権利を持っていて、もし注文を出したら、それは遅かれ早かれ履行されるという事を、いつも繰り返し口に出してみるべきである。
夢の中ではあなたの意図は瞬時に作用するが、物質的現実化には慣性が働き、タールが流れるようにゆっくりと実行されるため、時間と忍耐、それに自分には選択する権利があるというゆるぎない確信が必要とされる。サービスの良くないレストランでは休止係が現れるのを長く待たなければならないが、注文が履行されることはいつも確かである。そこで、次のようなスライドを利用してみるようアドバイスして置こう。あなたがどのような仕事をするかについては自分自身で選択、決定し、その仕事がどこからもたらされるかについてはあなたが心配するには及ばない、というスライドである。バリアントの空間には全てがある。あなたの理性に「そんなはずはないさ」と吹き込むのはコマなのである。あなたがすべきことは、選択する事とも、注文したものを受け取るという強固な意図を持つことだけである。
もちろん、もし待つことができないのであれば、現状に満足するしかないことは、理解してもらえると思う。だが、最低限の生活を保障してくれる仕事を手に入れた後でも、最高のものを注文し、心穏やかにその注文が履行されるのを待っていること花脳なのである。
もし仕事を気に入っているのに、何かしら魂のぎこちなさを感じるのであれば、あなたが仕事を立派にやり遂げ、大きな満足感と喜びに浸っているというスライドを頭のなかで映写し続けてみよう。もし時間が経過してもぎこちなさが消えないのであれば、つまりそれは魂の不快である。その場合は、別の事象を試してみるべきである。
自分の仕事を決めた後は、目的がすでに達成されたというスライドを頭の中に映し出してみよう。この時、何もしないで座っているのではなく、あなたに求められていることは当然行わなくてはならない。しかし、履歴書の作成や面接の準備に取り掛かる前に、自分の意図を必要な方向に集中する必要がある。
仕事に採用されるという目的に注意を集中するのは間違いであろう。目的は、あなたがすでに採用され、すべてはとっくの昔に起こった出来事となっているという状態のスライドとして頭の中に存在しなくてはならない。採用の可否について考えていると、あなたが失敗のシナリオを創り出すことは避けられなくなってくる。乗り換え用の鎖について思い出してみよう。この鎖に最初の輪となるのは履歴書の作成である。この作業には意思の意図を集中させることも必要なのである。
履歴書を作成する際には、どんなことをする能力があるのか全て列挙するべきだが、狙いを定めている役職は一つだけ記しておこう。こうすることには説得力のある理由がある。第一に、あれもこれも行う心構えがあることを見せようとすると、かえって自分の自信の無さを示してしまい、雇い主に不信感を呼び起こしかねない。あなたという人は、採用されさえしたら、どんな仕事でも引き受けるに違いないと、雇い主は思うだろう。第二に、一度にいくつもの目的を持つことは、平面状を四方へ広がることになり、意図は一つのまとまった状態からアメーバ状に変容してしまう。第三に、非常に多くのものを掴み取ろうとすると、自分の回りに過剰ポテンシャルを創り出し、つまるところ、全く何も得られない事になってしまう。選択することは可能だが、一度に一つの価値だけを選択しなくてはならない。あなたがおもちゃを選ぶときに、それが人形、ボード・ゲーム、水鉄砲の価値を兼ね備えているよう要求したりはしないのと同じことである。
本当のところ、どんな仕事をしたいのか、どんな役職があなたに最もふさわしいのか、考えてみよう。遠慮してはならない。あなたが自分自身に選んであげる仕事なのだから、あなたには選択する権利があり、日の当たる場所を求めて戦ってはならない、という事を思い出そう。あなたが選んだ職種を書き入れてみよう。その仕事が人手不足かどうかという事で頭を悩ます必要はない。もしあなたが思い切って所有しようとすればまさにほしいものを受け取ることになる。それがどのようにして現実化されるのかについては、あなたが悩むことはない。そうした心配は魂の意図に任せること。
履歴書を作成する際に、意思の意図は、あなたがどれ程優れたスペシャリストであるかを示すことに向けられる。一方、魂の意図は、雇い主が受け取りたいものに向けられる。この違いが分かるだろうか。もちろん優れたスペシャリストは誰からも求められる存在である。ところで、もし雇い主があなたのような光り輝くスペシャリストよりも、もっと控えめな長所を持つ候補者の方を選んだら、仕事探しに不慣れかもしれないあなたはすっかり当惑してしまう事だろう。
ライバルのパラメーターが雇い主が抱いている役職についてのイメージにあなた以上に正確に同調していると、ライバルはあなたを追い抜くことになる。だが、あなただってパラメーターを同調させることができるのである。それもライバルよりもっとぴったりと…しかし、これが曲者である。「もっとぴったり」同調すると、「あまりレベルが高いとかえって成功を妨げるという諺のような状況になることがある。雇い主は自分で設けたパラメーターに合致するスペシャリストを選ぶという意思の意図にすっかりのめり無んでいる。すぐ隣にあなたという換気用の窓が広く開け放たれているのに、雇い主はそれに見向きもせず、閉ざされたが来窓にぶつかっているという事もある。
