〇例えばあなたが集団や仲間に一員として、共通のテーマについて一緒に議論しているとしよう。話し相手たちは思考エネルギーの放射周波数がほぼ同じ対象に同調していて、皆が一斉に同じ旋律を歌うように揺れ動いている。自分のエネルギーの泉にスイッチを入れ、周囲の人々にあなたのエネルギーの中に浸りきってもらおう。自分のエネルギー保護被膜を感じ、そのが広がり、すべての参加者を包み込んでいく感覚を持とう。そうすれば、あなたの発する言葉は非常に重い意味を持ってくる。周りにいる人々はまさにあなたの想念の力を感じることになる。
 相手と一対一で向かい合っているあなたは、相手にとって有益な視覚化を頭になかで始めることが出来る。その際、エネルギーの泉が作動していたら、あなたは相手に最高の印象を与えることだろう。こうした方法は、あなたの個人的な魅力や力量が必要とされるときに、大きな名っととなる。ビジネス上での交渉事、試験、討論会、私的な関係などで、あなたは成功を収めるだろう。
 有益な視覚化を行うと、あなたは最も効果的で受け入れられやすい方法で話し相手の周波数に同調する事とができる。エネルギー・バンパイヤは、痛いところを傷つけたり、無理やり魂に入り込むことで、フレイルと同調する。しかし、あなたはエネルギー・バンパイヤと違い、フレイルを握りしめたりエネルギーを奪ったりはせず、反対に相手に贈り物をする。相手はそのことを必ず評価し、あなたに感謝する。
 もし、目的達成の障害となり得る自分の短所があることを自覚し、必要とされる知識や経験を持っていないと思うのであれば、あなたはそうしたことと折り合いをつけるべきである。あなたが今ある状態を受け入れること。短所を持ち、必要とされる長所を持っていない自分を思い切って認めてあげよう。そうすることはあなたの大きな助けとなり、心を軽く穏やかな状態にしてくれる。もしあなたが自分の短所と戦い、必要な資質の無いことを隠そうとするならば、一番大事な試練の時に必ずや自らを思い知る結果となる。
 自分を受け入れないでいると、障害という形となって必ず思い知る事になる。あなたは自分で自分に障害をもたらしてい寝る。、第一に、罪悪感と劣等感は過剰ポテンシャルを生み出す。そして、平衡力が事態をさらに悪化させる。第二に、魂の意図がそうした懸念を間違いなく現実化させる。あなたが封じ込めようとするものは、無条件にシナリオに組み込まれることになる。例えば、あなたが恐れていた問題は否応なくあなたの身に降りかかる。あるいは、出来ないことをやってみるようにと言われる。だが、致命的なのは、ここぞというときにあなたが精神的な拘束状態や虚脱上に陥ることなのである。
 あなたの自由エネルギーは何に使われるのだろうか、それは、重要性からくる過剰ポテンシャルの維持、平衡力との格闘、一瞬たりともコントロールされまいとする状況のコントロールに使われる。自分の短所に大きな意義を与えれば与えるほど、平衡力による抵抗は凶暴化する。コントロールしようとしてそれを強く握れば握るほど、決してとどまろうとしない事象の流れからの圧力は激しさを増す。結局、意図の全てのエネルギーが使い果たされてしまう。こんな状態のあなたに何が出来ようか。
 あなたが終始子ブタを連れ歩く羽目目になったとしよう。子ブタはあなたの手を振り切って逃げようとしたり、ブーブー泣き騒いだりするから、いつもあなた子ブタを押さえつけたり、なだめすかしたりする事に労力を使うことになる。しかし、あなたが子ブタを自由にしてあげると、すぐにあなたの気分もも軽くなり、自分が解放されたように思うだろう。それまでにこの困りものの子豚を抑え込むことに費やしていたエネルギーは、今やすべてがあなたの自由になり、それを他の目的に向けることができるのである。子ブタに例えるのは少々乱暴では無いかと思われるかもしれないが、そんなことはない。短所を隠す事が本当にうまくいくだろうか。それよりも自分の長所に注意を集中する方が得策である。自分のもっともよい面を見せなくてはならない予定が迫ってくる前に、自分の短所を抑え込むことをやめ、それを受け入れてみると、どれほど気分が軽く自由になるか、あなたは自分自信で納得するだろう。具体的なケースとしては、話し合い、試験、スピーチ、協議会、それにデートも含まれる。自分の内的重要性を放り出そう。自分の短所への免罪符を自分自身に交付してあげると、肩の荷が下りたような気分になるだろう。過剰簿テンシャルが消滅し、意図の自由エネルギーが解き放たれたのである。
 自分の短所との戦いは、物分かりの悪い意思の意図の働きによるものである。それはガラス窓に衝突するハエのような行為である。過剰簿テンシャルの除去とエネルギーの解放は、あなたに大きなメリットをもたらす。
 「案ずるより産むがやすし」とはよく言ったものである。次のどちらが良いだろうか。疑心暗記に陥ったり、自分の劣等感にとらわれてじたばたしたり、願望のとこになったり、自分の短所を隠そうとぎこちなくふるまったり、無気力になったりするか。あるいは、こんがらがった考えをキレイさっぱり捨て去って、穏やかな気持ちで純化された意図による作業を進めるか。もし重要性を投げ出すことがうまくいかないのならば、状況をコントロールしようと強く握りしめているものを緩め、くよくよ悩むのをやめ、積極的な行動に出る必要がある。どのようにでもいいから行動することから始めてみるだけで良い。それが効果的なのか、あるいはそれほどでもないかは意味の無い事である。拙劣に行動してしまう事を自分に許してあげよう。重要性のポテンシャルは行動する過程で吹き散らされ、意図のエネルギーが解き放たれる。すると、あなたの問題はすべてうまくいく。

〇非常に有益な視覚化についてはすでに述べた。その本質は次のようなことである。例えば誰かが問題を引き起こし、周囲を苛立たせたり、攻撃したりするとしよう。または、反対に、あなたが相手から何かを受け取る必要があるとしよう。このような場合は、相手が何に不安を感じているか、何で苦しんでいるか、健康、自信、心の平穏などのうちの何が足りないか、おおよそ断定する必要がある。たとえどんな人でも多少は気に病んでいることがあるのは疑問の余地がない。とりわけ相手があなたにとって問題となる事を引き起こしていたり、逆にあなたが相手にとっての問題を引き起こしている場合は、間違いなく何か不安を抱えているのである。そこで、相手が必要とするものを受け取っている状況をイメージしてみよう。
 例えば、相手が好きなことに講じている姿をイメージしよう。そうしているときの相手は、満足感、喜び、心の平穏、心地よさを味わっている。この快適なシナリオについて特に深く考え込む必要はない。あなたの頭に浮かんだどんな光景でもよいから視覚化してみよう。例えば、ビールのジョッキを片手に暖炉の前のソファーに深々と身を沈めているところや、海で楽しそうに泳いでいるところでも良いし、花咲き乱れる谷間を散歩していたり、サイクリングに講じていたり、喜びのあまり飛び上がっている所でもよい、。もし想像上で相手を「喜ばす」ことが出来たら、相手は理由がハッキリとはわからなくてもあなたに好意を抱き、あなたの頼みごとを聞き入れたり、差しさわりのある状況をもっと穏やかなものにしてくれるだろう。
 そんな時、何が起こっているのだろうか。良い映画とは人生の祝日にも似た感覚をもたらしてくれる映画という事である。そんな良い映画を見ていると、どこかしら心は軽く、気分は快適になり、祝日のような気持がしてくる。そんなわけで、いい映画は精神面や感情面における魂の祝日をもたらしてくれる。有益な視覚化というのは、こうした魂の祝日をエネルギー・レベルでもたらしてくれるのである。もしあなたが相手のフレイルにうまく同調し、相手の欲求を推し量ることが出来たら、相手は快適な波を感じることだろう。
 精神面での祝日とエネルギー面での祝日の違いは、次のようなことである。エネルギーのご馳走をもらった者は気分が快適になるが、何がその原因なのかはハッキリわからないという点である。だが、そそんなことはそれほど大事なことではない。大事なのは、相手がほかならぬあなたと一緒にいることによって心地よく感じるという事の方である。そのことから相手はあなたに好意を抱くようになる。有益な視覚化というのは、魂と理性の方向を一致させながら、心から行う必要があることを指摘しておきたい、もしあなたが心から相手の幸せ背を願うことができれば、それによる理効果はハッキリと実感できるものになるだろう。
 有り余るほどの自由エネルギーこそが、魅力に溢れ、周囲を引き付け、カリスマ性を持ち、力強い人格を持つ人にしてくれるのである。しばしば人々は無意識のうちに人の持っている強い生体エネルギー特性を感じる。エネルギーの放射の穏やかさや激しさによって、エネルギー面での個性が魅力あるいは力強さなどとして感じ取られる。いずれにせよ、エネルギーの放射の強さは自由エネルギー量及び魂と理性の一致度合いに比例する。潤沢な自由エネルギーは泉のように周囲の人々へと溢れ出て、人々はそれを感じ取る。自由エネルギーは人の思考によって変調される。魂と理性の思考が近づけば近づくほど,より完璧に変調が行われる。あらゆる強い人格というものが、内面的な充実感や一体性を持っている印象を与えるのももっともなことである。
 既に述べたとおり、一般に魅力とは、魂と理性が相思相愛の状態にある事である。魂が箱から解き放たれたら、人格は人を引き付ける魅力を帯びる。魅力とは力そのものにあるのではなく、魂と理性の一致した状態にある。これこそが人々に足りないものであるため、人々は、虫が灯に集まるように、そのような状態の人格に引き付けられる。エネルギー面から述べると、魅力とは、魂と理性が一致した状態でのエネルギーの清らかな放射である。もしこの時、エネルギーの泉が滾々と湧き出ていれば、そのような人格は独特の魅力で文字通り光り輝く。魅力的な人格は、魂と理性が一致した状態、すなわち自分自身の信条に従った状態であれば、維持されるものである。魅力的な人格は、魂の祝日という状態にあり、生活を楽しみ、うぬぼれの含まれていない自己愛に浸っている。魂の祝日という感覚は周りにいる人々も感じるものなのである。
 このような魅力を持った人はたくさんはいないが、あなたはそのうちの一人に入ることができる。そのためには自分の魂と向き合い、自分自身を愛し、自分の目的ーと続く道に出ていかなければならない。そうすれば、個人的な資質が変わってくるだけでなく、身体付きが魅力的になり、顔だちも感じが良くなり、微笑みまで素敵になってくる。目的とする人生ライン上では、容姿、すなわちセクターの舞台装置は、あなたが自分自身に満足している思考エネルギーの放射パラメーターに合致することになる。思った以上にそうなる公算は大きい。もしにわかには信じにくいというのであれば、あなたがこれまでの人生で不運な時期にあったとき撮影された自分の写真をご覧いただきたい。エネルギー・チャンネルが広がるよう訓練し、生体エネルギー特性を高めることによって、あなたは人々に影響を与え、人々から好感を抱かれるという。普通では考えられない能力を発達させることになる。一般に、集団の中心に位置して一座の花形になるためには、重要性を放棄し、自分のエネルギーの泉のスイッチを入れることで必要かつ十分である。有り余るほどの自由エネルギーを持つ人は、周囲の人と人の関心を引き付け、好感を持たれる。もし自由エネルギーの周波数が周囲の人々の思考の周波数と共鳴するように同調されると、効果は特に顕著に表れてくる。

〇もしあなたが相手に対して、何らかのトラブルから助けてくれるよう求めたり、ちょっとした頼みごとをしたりすると、簡単に相手から行為を持ってもらえる。相手に頼みごとをするという事は、あなたが自分の存在意義を放棄し、相手の存在意義を高めてあげることになる。相手からの助けをあなたが必要としていると相手にわからせることは、相手に本人の存在意義の集りを感じさせることである。また、それは、相手が自らの真価を発揮し重要性を強調するための機会を、あなたが相手に提供していることにもなる。
 求められた役割を果たした相手は、あなたと一緒にいると自分が必要とされていることを感じ取り、そのためにあなたはきっと相手から好意を寄せるられるようになるだろう。自分の存在意義という感情は、大変に貴重なものである。あなたによってそのことを経験した相手は、その感情の持つ惜しみない豊かさを一生忘れはしない。あなただって、これまでに自分の長所ををほめてくれた人のことを感謝の気持ちとともに思い出すことだろう。それと同じことなのである。
 人間の存在意義という感情を私がいささか誇張しているとあなたは思うかもしれない。実際、はたから見ると、フレイリングは、まるで誰もが偉ぶっているかのように思わせてくれる。そうはいっても存在意義が人々の振る舞いや動機付けに決定的役割を果たしているのは本当の話である。では、考えていただきたい、他者からのどのような行為が人を一番傷つけるだろうか。無視されたり、侮辱されたり、殴られたり、ケガをさせられたりしたときだろうか。否、人が最も重い傷を負うのは、見下された時なのである。
 人にとって自分個人の人生の次に重要なものは、存在意義以外には無い。肉体的欲求の次に続く最も強力な欲求は権力欲である。勿論これは存在意義を求めての戦いの最高で最終のレベルに該当する。存在意義を求めての戦いがすべての人々においてこうした形に転嫁するわけでは決してない。しかし、もし人があらゆるものを手に入れたとしたら、権力を得る事しか残されてはいない。そうではなかろうか。権力ほど人の心をかき乱してくれる物はない。このことから、自己の存在意義という感情が人の振る舞いや動機付けにおいてどのような役割を果たしているか、あなたは自分で結論を出すことが出来るだろう。
 どんな批判であれ、それは人の存在意義に打撃を与えることになる。これはある種のアンチ・フレイリングである。人々に「あなた方は間違っている」と面と向かって断定するようなことが決してあってはならない。たとえもしあなたが自分自身の正しさにどんなに自信があったとしても、常に中立を心掛けることの方がはるかに有益なのである。そうすればあなたは他人の存在意義に打撃を加えることもなく、平衡力の作用から自分自身を守ることにもなる。
 このほか、相手のネガ・スライドを傷つけた場合も、かなり深い傷を追わせることになりかねない。スライドは重要性というフィルムの上に維持されているため、スライドを機が憑ける事は、弱点を突くことになる。ネガ・スライドとは、自分の中のどこかにある気に入らない部分のことである。すでにご存じのように、ネガ・スライドを持っている人は、それを自分自身が隠し、他者に投影しようとする。しかし、投影された側から同じ告白を行うと、つまり投影を逆向きに行ってみると、嵐のように激しい反発が引き起こされるのである。本人はどんなことがっても他者の正当性を認めようとしないばかりか、あなたの最も手ごわい敵になってしまう。そんなわけなので、他者のネガ・スライドにわずかでも触れたりしないであるのが得策である。ましてや相手の頭の中に存在するネガ・スライドのことを説明してあげようなどとはゆめゆめ考えてはならない。 
 人のフレイルに最もぴったり同調するのは、当然のことながら、恋心を抱く事である。それがなぜどのようにして起こるかについて説明することは、不可能ではないにしても、大変に難しい。このテーマについてはすでに多くのことが語られている。相思相愛となるためには占有権を放棄し、いかなることも期待せず、ただひたすら愛することが必要である。愛する気持ちを依存関係に変質させなければ、維持することは可能である。ところで、首ったけになると、何も手につかなくなることだろう。私が付け加えられることは以上である。
 これまでに私はフレイリングの基本法則についての概略を説明して来た。お気づきのように、意図に沿った関係と流れに沿った関係のどちらなのかという線引きは、状況によっていかようにも変わる性質のものである。流れに沿った関係というのは、意図に沿った関係の観点から検討可能であり、その逆も可能である。しかし、結局のところそうしたことの全てがフレイリングともいえる。あなたが相手の周波数に同調するのは、相手とともに同じ方向を向き、相手の利益のために相手と一緒の流れに沿って行動するからなのである。その結果、あなたは意思の意図による通常のやりかたでは達成不可能なものを相手から手に入れることになる。

〇他者の周波数に同調するためのもっとも簡単で大切なカギとなるのは、相手の名前である。この世に生を受けた瞬間から、人は自分の名前で呼ばれることが自分への問いかけであると受け止めてきた事実を、決して無視してはならない。話し合いの中で相手の名前をより頻繁に用いよう。これはそれなりの効果を発揮する。名前を呼んで問いかけることは、あなたが有効手的な意図をもって近づいてきており、相手の存在意義を認めているという事を知らせるある種のパスワードなのである。
 人は誰でも、程度の差はあれ、自分の存在意義を守る保護フィールドを維持している。もし相手が堅苦しさや不信感という防御壁で囲まれていたら、あなたはその人の周波数に同調することができない。そのようなバリアーは、相手の気持ちを和らげるひたむきさによって取り除けることがある。もしあなたが自分の存在意義の保護フイールドを維持しておらず、攻撃する意図もないことを自分から示してあげると、相手も自分のバリアーを解除する。しかし、両者二分する壁を取り除くための最も効果的な方法は、あなたの偽りない行為をその人に示すことである。
 なぜ私たちは家で飼っているペットを愛するのか。なぜならいつもペットたちは私たちを見て心から喜びを表現してくれるからである。しっぽを振り、のどを鳴らし、跳ね上がり、上ずった声で鳴き、うれしい気持ちをありとあらゆる方法で表してくれる。他にも、人付き合いの良さでは劣るが、例えば水槽で泳ぐ観賞魚のような動物はいる、またはインテリアの一部のようなものである。私たちが愛してやまないのは、「お前さんのからは何もいらない。お前さんと合うことが、ただただうれしいんだよ」とあたかも私たちに話しかけんばかりにして喜びを表してくれる動物である。このことは、私たちが家で飼っているペットを愛する大きな理由の一つである。
 人との交流において、あなたが相手に好意を持ってもらいたいのなら、相手の人に会えてうれしいことをわかってもらうようにしよう。ペットの犬のように大喜びする必要はない。にっこり微笑み、気持ちを込めてあいさつし、名前を呼び、相手の話に熱心に聞き入るだけで十分なのである。しかし、もしあなたが水槽の観賞魚のように振る舞えば、相手との関係もそれなりのものにしかならない。
 この場合の仕組みとても単純である。無意識のうちにあなたの話し相手は、次のように思う事だろう「自分に合って喜んでくれる人と私は出会った。つまり私は取るに足りない存在ではなく、この世の中で何かしら意味を持っているという事か。この人はそれを証明してくれる。なんて素敵で感じの良い人なのだろう」
 相手への気遣いや同情は心からのものでなければならない。形だけの同情ほど卑しいものはない。とって付けたような微笑みを終始浮かべている人がいる。それは微笑みとは呼ばない。ネクタイのようなものである。習慣で「調子はどうだい」とお互いに訪ね、紋切り型の返事を期待する。待ち受けていた返事とは異なる返事が来たら、おかしな奴と思われる。だれも他人の問題を心配していない。それなのに、どうしてそんな相手の健康を訪ねるのか。
 人との交流の際には、あなたはその人に特徴的な周波数のエネルギーを放射して、相手と共鳴することが出来る。だれにでも共鳴周波数…お気に入りの話題…というものがある。それは、相手が夢中になっていたり、関心を寄せていたり、誇りに思っていたりすることである。相手のお気に入りの話題は、共鳴周波数で鳴り響く、つまり琴線に触れるものである。もし相手が何に対して熱い思いを持っているか突き止めたら、それを話題に取り上げ、ありったけの思いを相手に語りつくしてもらうための手助けをしてあげよう。これは関係を強固なものにする最も効果的な方法である。この糸をつかむことで、あなたは難なく相手を自分にひきつけられる。

〇人々は互いに交流しながら、ある程度相手に波長を合わせる。その際、性格、気性、知的レベル、態度などが考慮される。もし同調がうまくいかないと、言葉は空気を震わせるだけで意思疎通はできず、相互理解に達することが出来ない。相手の周波数に同調できないと、お互いを理解することはできない。
 「相手の周波数への同調」という言い方は、状況によっていかようにも変わる相対的な意味合いしか持たない。もちろんあなたは、私が便宜こうした簡易モデルを使っていることを理解されている事と思う。物理学上で同調とはいったい何が起こっているのかという問題は、私たちにとって原則的に重要なことではない。重要なのは、各人が個人としての独自なパラメーターの組み合わ・・・フレイル・・・を持っているという事である。
 ある人と緊密な関係を築こうとすることをフレイリングを行う…その人のパラメーターに同調する…という。他者との交流がうまくいくかどうかは、相手のフレイルの本質をあなたがどれだけうまく捉えることが出来るかによる。それは思っているほど難しいことでは無い。上手に同調するための大切な条件は、話し相手に注意を向けることである。注意を向けることなしには、どんな同調もあり得ない。それは当然のことだろう。ところが、通常、人はどのような話し合いの場でも、自分の考え事だけで忙しいのである。
 ある有名な実業家がこう言った。「誰もが私に何かの提案をしようと考えていが、だれも私が何に困っているかは聞いてくれない」。他の人々から何かを手に入れたい人々は、自分達の問題について考え、そして、他の人々からの助けを借りて自分たちの問題をどのように解決できるかを考える。これは純粋に意思の意図の働きである。逆に、何を人々が望んでいるかを考えると、あなたは魂の意図のメカニズムを始動させることになる。
 あなたが欲しいものと他者が欲しい物とをどうやって結びつけるのだろうか。そのためには窓意識して他者の利益に注意を集中する必要がある。内なる視線を自分自身から話し相手に移そう。人は自分自身の問題や関心ごとに関係する質問にしか興味を示さない。あなたの思考は、あなたが何を手に入れたいかに集中している。それでは他者の関心を引き付ける事は絶対に無理である。それと同様に、他の人々も自分たちの心配事を考えていて、自分以外の人々の望みについては心配していない。だから、共通の理解に達するための唯一の方法は、話し相手の個人的利益という文脈の中で対話を進めることにある。
 自分自身の問題について、あなたはすでに十分過ぎるほど考えてきた。今からは自分の注意を相手の利益に向けること。相手の意図の文脈を対話の基本に据え、自部んの問題はしぱらく脇に置いておく。
 例えば、あなたは八月に休暇を取りたいとしよう。そうすることが必要なのだとという具合に、あなたは自分の利益について考えている。では、上司は何を考えているだろうか。上司はあなたの仕事について考えているのであって、決してあなたの休暇についてではない。この問題を解決するには、二つの方法がある。 一つは、あなたが上司のところへ行き、自分の問題や望みについて泣き叫んで頼み始めるというものである。もう一つは、九月に仕事が普段より忙しくなるので、九月に間に合うためには、八月に休暇を取りたいと上司に進言するやり方である。どちらの選択肢が効果的かは明らかである。
 ひょっとすると上司は十月に休暇を取れば良いと応じるかもしれないが、上司があなたに同意する可能性の方が大きい。なぜなら上司は自分の周波数で話を聞いているからである。相手の利益という文脈で対話をすると、あなたは相手の思考エネルギーの放射周波数に同調することになる。
 もしロバからどうしても言う事を効かず、あなたの必要とする方角へ進もうとしないのなら、それはつまり、乗り手は自分のことを考え、ロバも自分のことを考えているという事である。ロバはニンジンのことを考えている。ロバにニンジンを見せると、あなたが行きたい方角へと進むだろう。あなたはロバの意図の文脈に自分の意図を配置していたことになる。他者であるロバの願望を実現させることによって、乗り手は何を得るだろうか。あなたに必要なことを他社に実行してもらいたい時には、常にこの問いかけを自分に向けてみよう。もし答えが見つかったら、すべてがうまくいくだろう。
 話し相手の周波数に同調するには、まず最初に、相手が伝えたいことに注意深く耳を傾ける人用がある。もちろん、もしあなたが自分の話題や見解を押し付けようとする気がなければの話だが、大人数の集いでは、だれもが何かを言いたがっているが、そんなもことをしても無益なだけなのである。なぜなら誰もが誰の話も聞きたいとは思っていないからである。もちろん人々は聞いているふりをすることはできる。しかし、九割の人々が各人の考え事で忙しい、自分を好感の持てる話し相手として売り込みたければ、幾知や博識を引けらす必要はなく相手のいう事に耳を澄ませばよいだけのことである。
 もしあなたが相手が関心を持っていることについて本人と話をしてみよう。その際、あなたが関心を持っていることについては、しばらく忘れよう。それは全く別の周波数だからである。まずは相手の周波数に同調してみよう。自分自身を相手の立場に置いてみよう。そうすることであなたは、相手が何に動かされているかがわかり、相手のとる行動に原因を知り。相手の物の見方を理解するだろう。相手の周波数に同調すれば、あなたが関心を持っている問題へもスムーズに映ることが出きる。

〇人と話し合うときには、まず最初に両社が同じ方向を向いているようにしよう。もしあなたの言葉に対して発せられた相手の最初の言葉が「いいえ」では、その先を説得しようとする試みに徒労になると思って間違いない。相手は別の方向を向いてしまっており、あなたと一緒に流れに沿って進むことはないだろう。相手が最初に「はい」と言葉を発するように持っていくことが肝心なのである。話し合いは、意見がハッキリ対立しているテーマから入ってはならない。なんでもいいから相手があなたと合意できるテーマから始めること。そうすれば、意見の食い違うテーマへと円滑に会話を進めることが出来る。これでずっと大きなチャンスが生まれるのである。なぜならあなたと相手とは慣性により同じ方向に向かって一つの流れに沿って進んでおり、あなたの思考エネルギーの放射は、相手の思考エネルギーの放射と不調和に響いているわけではないからである。
 もしあなたがどこかで失敗をしてしまい、非難されても仕方のない状況にあるのなら、弁解に努めようとしてはいけない。前もって自分の過ちを認めることにしよう。正義の名のもとにあなたに鉄槌を下そうとしていた相手は、きっとすぐに鷹揚で寛大な態度をとることだろう。そんなときに、攻撃は最大の防御などという方針を取ってはならない。自分の過ちを認めたあなたは、前もって相手の方針に同意したので、それによって相手の意思の意図に青信号を送ってのである。自分から先に服従することを持ち出したため、あなたに身の程をわきまえさせ、ついでに自分の存在意義を高めようとしていた相手の意思の意図を現実化させた事になる。しかし、それをあなたは強制されて行ったのではなく、自分の意思で行ったため、そうする事であなたの存在意義を少しも傷つくことはなかった。こうしてあなたは一挙両独となった。相手の存在意義を高めてあげ、それに対して相手から感謝され、そして自分の存在意義は失墜させなかったからである。
 自分の過ちを弁護しようとするあなたは、流れに逆らって漕ぎ進もうとしてコマにエネルギー与えていることになる。何が何でも釈明して見せようとする願望は、内的重要性のレベルが上昇したことによって引き起こされる。こんな手に負えない荷物は放りだし、間違いを犯す権利を自分に与え、間違いを犯す自分というものを思い切って容認してあげよう。自分の間違いを弁護してはならない。自分の間違いをはっきり意識して認めよう。すぐにあなたは生きることがずっと楽になる。
 既に述べたが、他者からの注意はあなたを苛立たせるかもしれないが、実は非常にためになるのである。他者からの提案は、最初は邪険に扱いたい気がしても、結局は有益だとわかることがあるものである。もしあなたがどこかで内的重要性のレベルを高めていると、周囲の人々からの注意や提案があなたの気に障ることがある。重要性を放り捨て、流れに抵抗することをやめ、他者の正しさを認めるか、あるいは、参考意見として心にとどめておく。
 あなたに注意や提案を行った相手に「あの時のあなたの発言は本当に正しかった」と言ってみよう。結果をご覧あれ、そんなことは相手に言わなくてよいことかもしれないが、それでもあえてしてみよう。何しろあなたには失うものが何もないのだから、誰でも間違いを犯す。それは賢者愚者を問わない。だが、賢者は、愚者と違い、自分の間違いを認める。相手が正しかったことを声に出して認めることで、あなたは相手から行為を持たれることになる。
 人々は好戦的なコマの世界に暮らしている。そこでは一瞬たりとも気が抜けず、自分の立場を擁護し、自らを守らなくてはならない。さて、そこであなたは相手の立場を擁護することを自ら申し出るのである。その瞬間、あなたから自分の立場を守るという相手側の問題は解決される。相手はすぐに気持ちが楽になったことを実感するだろう。そし、論戦であなたが加勢してくれたことに対し、感謝の気持ちを抱く。もはやあなたは相手にとって潜在的な敵ではなく見方である。こうした状況は相手の頭の中で無意識のうちに瞬時に展開される。あなたが覚醒した状態で眠っていても、やはり無意識のうちにまったく同様の事が脳裏で展開される。しかし、もしあなたが意識性を高めることを実践しているならば、他者の正当性を証言する役割を自ら引き受けることは難しくなく、興味深くさえあるだろう。
 誰かが正しいと判明したら、ほかの人々は沈黙するが、あなたはその人の正しさを声に出して認めよう。もし相手にとってその瞬間が原則にかかわるような重要な意味を持っているならば、その人はあなたに心から恩義を感じることになる。いずれにせよその人はあなたに感謝する。それもほとんど無意識のうちにである。
 こうした環境に置かれている人々にとって、あなたは滅多にお目にかかれない存在である。いったい何人の見方を見つけることが出来るというのだろうか。実は、そのために行うことは何でもないことなのである。自分の重要性を投げ捨て、他者の正当性を認めてあげることを怠りなく実行するだけで良い。あなたは意識して行動しており、そこにこそあなたの優位性がある。一方、人々は眠っており、あなたに「ありがとう」とは言わないだろう。しかし、もし人々が目を覚まし、意識して自分とあなたとの関係を表現することが出来れば、「有無、こいつは愚か者ではないぞ。気に入った。好感が持てる」という声が聞こえてくるはずである。
 誰もあなたに声に出してそうは言わないし、独り言すら言わないだろう。だが、潜在意識での感覚を表現するならば、まさしくそのようなものとなろう。重要性によって不安に陥り、重荷を背負わされている人々は、そうで無くても普段は何も気づかないものなのである。あなたは途方もない優位性を持っている。それは、高い意識性、重要性の放棄、そして人々への配慮である。この優位性を活用し、他の人々にとっては石ころばかりしか見えないところで、あなたは黄金を見つけるのである。

〇論争であなたが勝ったからと言って、良いことは何もない。敵を作ることは明らかである。もし誰かが自信たっぷりにたわごとを口にし、あなたがその人を正そうとしても、相手は決してそれに同意しようとはしないだろう。ただし、もしその人に自己呵責の傾向や強い罪悪感があれば、同意することもある。だが、そんな人を論破する必要があるだろうか。もしあなたの利益が全く侵害されないのであれば、相手の不同意を認めてあげよう。そうすればあなたは過剰ポテンシャルを発生させることもなく、流れと戦う事もない。
 論争している人々は頭までどっぷりとゲームに使っている。彼はら熟睡しているのである。自分がゲームに引きずり込まれないようにするには、目を覚まして、内なる見張り役の働きを活発化させなければならない。もし論争に何人かの人たちが参加しているのなら、観客席へと降りていき、そこからゲームをしばらく観察してみよう。あなた自身が良識ある観客の役割を引き受けると、大変有利な立場を得られる。どの参加者も、自分の見解の正しさを証明することによって自分の意思の意図を現実化させようとしている中、あなたの頭には、どの参加者も思いつかないような解決方法を全員に押し付けようとしてはいけない。大事なのは提案することであって、激論をかわすのは他の論客たちに任せよう。
 もしあなたが論争に勝ってしまったら、それは敗北を喫したも同然と考えてもらいたい。たとえもし相手が表面上はあなたの正しさを認めたとしても、相手は心の中で自分たちに有利な数多くの非公式な論拠を見つけ出そうとするに違いない。いずれにせよ論争で負けた側は自分の存在意義に打撃を被った。では、この打撃は誰がもたらしたものか。自分の見解をあくまで主張し続けた誰かさんがもたらしたのである。
 相手の顔に泥を塗るつもりはなかったとあなたは言うだろう。それとともに、相手の個人的な存在意義という感情に打撃を与えてはならない、あなたは自分を戒めておくべきであった。しばしば人々は互いにこのような屈辱を与えあう。こうした屈辱はいつも隠されているという特徴がある。なぜならそれは黙って耐え忍ぶ性質のものだからである。人々は自分の存在意義を確認したい気持ちを公言しようとは思わない。存在意義というものがあることは明らかであり、たとえ四六時中誰もが自分の存在意義を高めようとして躍起になっているにもかかわらず、だれもその事実をあからさまにしたくないのである。
 もし人が自分の存在意義に打撃を受けて黙りこくったら、その人は少しも傷ついていないとか、打撃の痛手と折り合いをつけたなどと考えてはいけない。屈辱は意識上だけで無く、潜在意識レベルでも生き続ける。あなたは論争に打ち勝ち、それによって自分の存在意義を高めたわけである。あなた自身、覚えがあるだろう。ひそかな侮辱というものは常に存在をとどめ、良いことは何ももたらしはしないことを。ついでながら付け加えておくと、論争に相手が勝利した場合、相手はあなたの存在意義については何があろうと決して認めないという事も承知しておこう。
 他者があなたに反感を抱くようにする偉大な方法があるる。それはあなたが相手と比較してどれほど素晴らしいかを思い知らせるかというものである。しかし、偶像も敵も作るな、これこそが流れに沿った関係を築くためるのモットーである。他者の存在意義という感情を傷つけることは絶対に避けよう。このことを一種のタブーとしよう。そうすることであなたは、他者の存在意義に加えられた打撃の持つ隠された本質部分から生じる数多くの不可解な問題や不快事から逃れることになる。
 あなたと論争中の相手は何をしているのだろうか。何らかの形で自分自身の存在意義を擁護しているのである。相手に共鳴してあげよう。相手が述べることに同意しよう。同意する事で、あなたは相手が手に入れようとしていたものを与えることになる。これであなたは自分の見解を穏やかに話すことが出来る。押し付けるのでも説き伏せるのでも無く、ただ話すのである。この場合、あなたは流れにそって進んでいるだけでなく、魂の意図を利用してもいる。その結果、あなたはこの上ない成果を手に入れるだろう。それはどれほど知恵を絞った策略によっても得られるようなものではない。

〇人々に生じる問題のかなりの部分は、理性が事象の流れと戦った結果である。批判とはこうした戦いの現れの一つである。批判は意思の意図の直接的な産物である。人の肯定的な資源を励まし期待を欠けることは外的意図に関係する。人を批判することは、取り巻く世界との戦いと全く同じである。もし敵対者に当たり散らしたり、苛立たせたりすること自体が目的ではないのなら、人を批判してなにもよいことはない。反対に、人の肯定的な資質を励まし期待をかけることは、人々に対して活動を促す原動力となる。人を非難したり批判したりすることは、その人にあなたの意思の意図によって影響を及ぼそうとすることである。相手の長所を引き立ててあげることは、あなたにとって何も失うものがないばかりか、自分のためになる方向へと状況を展開させることが可能になる。
 どんなことであっても他者を非難してはいけない。自分で自分をなじり、罪悪感を抱く傾向を持つ人は多い。しかし、だれも他者から自分に向けられた叱責に耐えるようにはできていない。自分で自分を責める人の場合、サディズムやマゾヒズムにまで達することもある。けれども、他者から非難を受ける場合は、常にひどい苦痛を伴うものである。
 人は、自分が間違っていて、非難が正当なものであっても、いずれにせよ屈辱を感じる。では、非難する側にあるあなたにはどんな徳があるのか。怒りを爆発させられることが得なのか。だが、そうすれば過剰ポテンシャルが発生して、あなた自身がされによって嫌な目にあうことになる。もし他者を非難する主な目的が、他者の間違いを認めさせることにあるのなら、あなたはその目的を達することすらできないだろう。あなたからの非難に耳を傾けている相手は、たとえ言葉の上ではそれに同意したとしても、自分が間違っていたことをおそらく心底からは認めようとしないはずである。ところで、他者を非難することによって自己肯定ゃ支配をもくろむとすれば、何らかの結果は得られる。しかし、その場合、あなたは人形遣いになってしまう。
 もしあなたの見張り役が眠りこけていないのなら、あなたが避難しようとしている相手がなぜそのように振る舞うのか、常に説明を探し出す手助けをしてくれる。あなたの内なる観察者である見張り役は、ゲームに溺れてしまったり、争いや喧嘩の種を思いつくことを許さない。観客としてゲームを脇から眺めつつ、批判や避難は有害なだけで何ももたらさないことを思い出そう。そして、流れに沿って進むのである。
 批判や避難は肯定的な役割を演じる事はできない。なぜなら、そうする事でそれまで流れに沿って進んでいた人の調子が狂い、流れから逸脱してしまうからである。流れは人を決まった目的へと導く、すべての人々がそれぞれの動機や嗜好に従っている。反対に、人を励ますと、あなたは、流れから逸脱することなく、相手の動機や思考とも矛盾することなく、その人を自分にとって有益な道へと向けることになる。こうしてあなたと相手の望みが同じ方向を向くパラレルの関係となる。だれの権利も侵害されず、だれのプライドも傷つかず、利益は共有されることになる。
 ところで、あなたは自分に対する批判を受け取ることを好ましいと思うだろうか。あなたは自分への批判に我慢ならないか、それとも批判が正当なものであることを自分に言い聞かせようとするだろう。どちらの場合も、あなたは批判を受け入れてはいないことになる。もちろん、もしあなたの中で罪悪コンプレックスが膨れ上がらなければの話ではあるが。批判は人をせき立て、「しかるべく」行動するようにと強いる。しかしながら、理性を強いることは可能だが、魂を強いることは不可能である。いつも魂は良くすることを行うか、あるいは強制されたことを理性がやらないよう邪魔するかのどちらかである。批判は魂を理性の敵とするが、激励は魂を理性の見方とする。
 このように、激励は建設的な力であり、批判は破壊的な力である。まさにそうした理由から、企業の管理職には、どんなわからずやでも務まりそうな仕事のあら捜しばかりするタイプではなく、平社員自らが進んで良い仕事をしたくなるようなやる気の出る雰囲気を醸し出せるタイプを将来のリーダー候補として選出しておくわけである。良いリーダーの下では、社員たちはたとえ雑用を行っていても、自分個人の存在意義を感じているものである。
 もし自分に敵を作りたければ、自分正当性を論争によって何が何でも証明すればいい。「事象の流れ」を題した章では、自分の正当性をいかなる犠牲を払っても証明しようとすることがどれほど無意味で有害でもあるかについて述べた。もし論争があなたにとって原則的に譲れない意味を持ちものであって、あなたの利害関係上、自分の立場を譲ることがどうしても抱きないのなら、とことん論争すればいい。しかし、そうでないのならば、両手で水面をたたきつける権利は相手に譲ってあげること。

〇一般に、あなたであれ、あなたの会社であれ、結局は、他の人々によって消費されるものを生産している。そんな製品を買いたいという気にさせるにはどうすべきか。人々は製品がただただ素晴らしいという理由だけでで買うのだとあなたが思っているのであれば、それは思い違いである。典型的な間違いは「我々は傑作を生産しているのだから、必ずや人々は買ってくれるだろう」という意思の意図の立場から生じる。
 意思の意図の立場では三重の間違いを犯すことになる。第一に「我々は傑作を生産している」というフレーズは内的重要性を強調している。あなたが自分の製品を完璧だと思うなら、それはあなたにとって重要となる。そうなると製品を客観的に評価できなくなる。なぜならあなたはその製品に対して平然とした態度では向き合えないからである。第二に、意思の意図はあなたの製品を人々に売ることに向けられる。人々は製品を買いたいとは思わない。なぜなら人々から見れば、その製品は決して傑作などではなく、その製品を売ろうとする誰かさんの意図は人々の関心を少しも引き付けないからである。そして、第三のもっとも大きなは違いは、意思の意図の指向性が狭すぎるため、あなたは完璧な製品を作っているのに、だれからも見向きもされないという結果になってしまうのである。これは非常によく見られる現象である。
 魂の意図は、人々化何が欲しいか、人々には何が不足しているか、人々は何を必要としてるか、人々は何に突き動かされているか、人々は何に引き付けられているか、という疑問への答えを求めようとする。魂の意図は事象の流れに沿う。あなたは、自分自身の理性が思いついた「傑作品」の生産に携わりながら、流れに逆らって進もうとしている。理性は常に自分の能力を理想化する傾向にある。理性は周りを見回すことをせず、創作の過程にどっぷりとつかりきる。理性はあらゆることを自分のコントロール下に置こうとしてしきりに機を伺っている。しかし、消費者側の需要とは、コントロールできる物ではなく、いつも流れに沿ってそれ自身の道を進む、需要の流れの方向を何とかして変えようとするには、巨額の広告宣伝費がかかるが、必ず効果があるとは限らない。
 理性は需要の傾向を予知することが出来ない。そして、そうする必要も無い。あなたに必要なのは、流れに遅れずについていき、流れの方向にわずかな変化が生じてもそれに気づくという事である。需要の対象を新たに想像する必要はない。時代の先を行く発明品のほぼすべては、受け入れてもらえない。根本的に新しいものを絶体に創ってはならぬという事では無い。もし事象の流れを先んずるような傑作をあなたが作り、それで儲けようと期待しているのなら、おそらく的外れに終わる公算が強いという話をしている。もちろん、もしその傑作が天才的なものであれば、市場を席巻するかもしれない。しかし、そういうケースは稀なのである。
 成功が保障されているのは、現在ある需要を満足させようとする企業だけである。さて、ここで、あなたの製品を買うという気にさせるにはどうすればいいか、という先ほどの質問に戻るとしよう。どうしたってできない、というのが答えである。人々をその気にさせるのは不可能ではないとしても、大変難しい。あなたは意思の意図によって自分の商品を押し付けようとする。魂の意図は、流れに沿って進みながら、人々が何を欲しがっているか、そして、人々が何に飽き飽きしているかを突き止めようとする。需要は事象の流れによって決まってくる。事象の流れは、その中に全ての答え持っているから、事象の流れだけが成功を保証してくれる。
 数多くの基礎的発見が、ほぼ同時に別々のところにいる複数の人々によってもたらされるというのは、故あっての事である。そんなところに事象の空間における物質的現実化の運動という現象が現れている。起こるべき事は、しかるべき時が来れば起こる。レオナルド・ダ・ビンチはたくさんの発明を予見したが、それらはようやく現代になって物質的現実化される運びとなった。
 全ては非常に明白なように思われる。しかしながら、理性は絶えず居眠りし、市場の小流から抜け出し、事象の流れ全体を自分のコントロール下に置こうとするる。すでに述べたとおり、事象の流れは理性にとっての豊かな贈り物である。そのことをいつも思い出し、そんな幸運を利用すべきである。そうすれば、問題や障害の大半はよけて通り過ぎてくれる。

〇もしこの世界での自分の存在意義が小さければ結局、だれもがふさいだ気分になる。もし人が自分を取るに足りない存在だと思うなら、また、人々に影響を与えられるものが少ししかないのなら、その人は自己の存在意義のハードルが上がって行く。そのようにして人は内的重要性を追いかけながら一生を送る。これは決して悪いことではない。自分の存在意義を高めようとする事に対しては、誰をも非難すべきでは無い。各人がその人なりのやり方で存在意義を得ようとする。すべての人々がそうしようとするのである。反対に、もし人が自分の成長途中で立ち止まり、何も望まないようになってしまうと、それこそ困ったことである。だが、そんなことになるのはまれだ。通常、人は何かを目指し、その人を取り巻く世界で占めている状況のどこかが気に入らないものなのである。
 そこで、どうすればその人の行った事が本人の自己重要性という感情を高めるのか、考えてみよう。次に、その人の存在意義を高めてあげる事を念頭において、本人に課題を提示してあげよう。その人の存在意義が高まることを受け合うと、本人もそうしてみたくなることだろう。その人が自己の存在意義を高めようとするときには、本人の長所をほめちぎってあげよう。
 このような法則に基づいて、あなたは他の人々があなたの利益のために行動するよう容易に促すことが出来る。これが意思の意図によってであれば、あなたは他の人々があなたのために行動するよう強制するか、あるいは頼み込むしかない。ところが、魂の意図を用いると、あなたの望みを表明するだけでよい。あなたの利益になるよう、ひとりでに事が運ぶのである。魂の意図の現実化のためには、いつも自分のことばかりを考え自分のことで忙しい他の人々が、あなたの利益のために行動してくれるよう取り計らう必要がある。そのためには、目を覚まし、自分の利益について考えることを中断し、他の人々の利益について考えてあげるだけでよい。
 例えば、もしあなたが小売業を営んでいるとしたら、目の前の客にどうやって商品を売りつけようかと考えるに違いない、客の方は、その商品を購入することで、あなたを喜ばそうなどとは決して考えない。客は売りつけられることを嫌う。客は買いたいのである。この違いを分かっていただきたい。だれもが客に品物を押し付けようとしてしきりに気を伺っているが、客はそれが嫌いである。客は自分に必要なものを自分自身で選びたいのである。
 あなたはどうやって商品を売りつけるべきについて考えてはいけない。客が何を手に入れたいと思っているかについて考えよう。売ろうとすることは、意思の意図によるものである。魂の意図は全く別の方向…客が買いたいものを知ること…へとむけられる。だが、客がどんな商品を購入したいかについて知ることがどうしても必要というわけでもない。
 もし客がリューマチの不安を抱いているのなら、あなたは心からその症状に関心を示し、医者や薬を教えてあげよう。客は必ずやあなたが売っている商品を買ってくれることだろう。例えばあなたは煉瓦を売っているとしよう。客はあなたのレンガがほかの店のレンガより優れているからではなく、煉瓦を売っているあなたが客のリューマチの症状を心配してくれたから、あなたから煉瓦を購入するのである。これは単純化された例であるが、その中に与まれている法則は間違いなく働いてくれるものである。
 あなたが望むものを他者から手に入れる必要のある時、またはあなたが何かを他者に行ってもらいたいときは、自分の意思の意図を放り投げること。次に、相手の意思の意図がどういうものなのかを考えてみる。そして、相手の意図の現実化を助けてあげるように行動する。相手の意図が現実化するようあなたが助けているときに限り、あなたが相手から受け取りたいものについてチラリと考えよう。相手の意図の現実化にかかわりながら、あなたの頼みごとをついでに挿入しよう。まさか自分の頼みごとを口にするときは、言葉がつかえてしまったりしないと思うのであるから、まあすべては自然の成り行きに任せること。そんな所に魂の意図の持つ魔力がある。 
 人々の影響を及ぼすさらにもっと効果的な方法としては、彼らの意思の意図を誘導する試みがある。わかってしまえば、これはとても簡単にできることである。意思の意図はほとんどいつも内的重要性によって動機付けられる。誰でも、多かれ少なかれ、何らかのやり方で自分の存在意義を守り、強調し、高めようとしている。もしあなたが他社から何かを獲得する必要があるのなら、どうすれば他者が本人の存在意義を高めることが出来るか、考え出してあげるだけでよい。この方法は「誘い掛け」と名付けられる。
 「さて、だれが一番優れているかな…」と言って人々の集団に誘いを欠けることもできる。それとも「顔に泥を塗らないようにしよう」というようにプロとしての誇りを刺激するやり方もある。「みんなの前で我々の真価を発揮しよう」と行って単に内的重要性に訴える事もできる。もし人が自己の存在意義が問題となっている文脈でこのような挑戦を受けたら、その人はあなたの意思を自分自身の意思とみなして果たそうとすることだろう。そうなるのは、あなたが自分の意思の意図を断念し、相手の意思の意図に注意を向けたからに他ならない。自分自身の意思の意図ではなく、他の人々の意思の意図を利用すること。