〇とある学生寮での話、確率論の試験を目前に控えていたときのことでした。担当教師は、控えめに言っても、恐ろしい人物でした。試験前夜の学生寮内は不穏な空気が漂っていました。私たちは状況をどうにかして打開しようと頭を悩ませていました。
「確率が何であって、それをどうすりゃ計算できるかなんて、知るもんか」
「それは、ちんぷんかんぷんの謎だね」
「それなのに俺達未熟者は、ただ丸暗記ばかりしている」
「そんなことじゃ、だめだ、俺たちは男だろ、違うか」
その時、私たちの話を盗み聞きしていた別の未熟者の一味である女子学生がドアから頭を出して言いました。
「青二才のろくでなしどもだわ」
「女は引っ込んでろ。俺たちゃ、紳士だ」
「サイテー」
「若き学者様だぜ」
「ただの間抜けよ」
そんな時に誰かが一晩中寝ないでトランプゲームをやろうと言い出しました。しかし、私は「いや、諸君、いくらなんでもそれはあんまりだから、僕寝るよ」と答えておきました。ところが、「紳士たち」は服を着替え、ネクタイを占め、そのうえ、口には安たばこ加え、怪しげな液体の入ったボトルをテーブルに置き、トランプ遊びを始めたではありませんか。
翌朝、私が目を覚ますと、彼らはまだやっていました。
「バカ者どもめ、どうしようもないやつらだ」と私は吐き捨てるように言いました。
しかし、彼らは立ち上がり、大きく伸びすると、敢然と死地に赴いたのでした。
結局、「紳士たち」は本当にろくな事にならなかったのです。彼らの評価は5段階評価の「3」でした。では私はと言うと…まったく問題外でした、なんと私は不合格の「2」を取ってしまったのです。ところが、実は、それが後で幸運に化けるのですが、そんなことなど知る由もありません。いつものように悪友たちはすべてをひっくり返してくれます。彼らが私のことをどれほどうらやましがった事か。皆が私にまとわりつき、顔を覗き込むと、身震いしながら、どうやってそんな素晴らしい結果になったのかとしつこいくらいの効いてきました。
私はというと、誇らしげに後ろに反り返って歩いて見せました。
「ほら、御覧、僕は言っただろ、わかってくれたまえ、紳士諸君。そして、君たちの哀れな評価点「3」がどこかへ葬り去られるよう祈っているよ」
その日、彼らは私の「勝利」を盛大に祝ってくれ、陽気に過ごしました。そして、翌日、私は追試を受けたのですが、なんと「5」の評価をもらって合格してしまいました。この話は以上です。疑ってはなりません。作り話ではないのですから、もしリアリティの反転が質的にうまく出来たら、結果は人を待たせたりしないものです。
ところで、もし最悪の気分で、とてもじゃ無いがリアリティの反転などやって居られない。という場合はどうでしょうか。そんなときには、気分をもっと悪化させ、グロテスクとかナンセンスな所にまで持っていくのです。例えば、スライドのコントラスト調整を最大のところまで持っていくと、ある瞬間、そのスライドがネガに変わるようにですたわしたちは大体そんな風にやっていたのでした。
すっかり気落ちしてしまった女子学生がいました。状況をもっと深刻化しようとした彼女は黒ずくめの服を身にまとうと、自分自身の喪に服すと宣言したではありませんか。みんなが彼女のところへやって来ては、哀悼の意を伝えたうえで、どのような方法で自殺を図るのか、それをいつ執行するのか、などと彼女を質問攻めにしました。やがて、彼女の周りに集まった数人の親しい友人たちが、もの悲しげにゆっくりと哀歌を歌いだし、泣きわめき、吠えたけり、両腕をまげて後ろへ回し、いうなれば、礼儀正しい先住民たちが行う一通りの儀式を執り行ったのでした。先住民たちによる哀歌は次第に、長く伸びた号泣きになり、次に、犬の咆哮そっくりに変わり、ついには、もうそれ以上こらえきれなくなって、喪服に身を包んだ件の淑女を含む全員が、気でもふれたかのように、からからと笑い始めたではありませんか。
もちろん、こんなゆかいな仲間たちがいてさえすればですが、全てはあっけ無く片付きます。しかし、仲間が居なければ、一人何とかその状況を乗り越えなくてはなりません。そのやり方には人それぞれ好みがあるでしょう。脱線はこのくらいにしておきます。とにかく本当に自分の状況をグロテスクやナンセンスにまで持っていくことが必要なのです。意識状態を変えてくれる手段をただ単に用いてみるというだけでは意味がありません。さもないと、本当に悪化する恐れがありますから。
しかし、一般的に言うと、コントラストの方法を一人で行うのは感心しませんからあなたには勧めはしません。単に情報として提供するにとどめます。重苦しくやり切れない状況というのは、意図のエネルギーが極めて低いレベルにあるとの証拠です。自分の生体エネルギーを適当なレベルに維持しておきましょう。そうすれば、決してうつ状態には陥らないでしょう。
御覧の通り、リアリティの反転というのは、意図の調整の法則に大変似ています。違いは、リアリティの反転の方がずっとラジカルでユーモアにあふれているという事だけなのです。
最後に、理性の足場をもう少し踏み固めておきたい。なんともはや、事象選択では非常に多くの信じられないようなことが起こり、全てが本当に現実のことなので、常に理性への説明が求められるのである。

〇リアリティは自分の駒を時間のコンベアに乗せて容赦なく前進させます。祭りの日が訪れては過ぎ去ります。祭りの日があっという間に終わってしまうのは、なんと残念なとでしょう。「祝祭日はいつもともにあるべき」と書いているヘミングウェイは正しいのです。しかし、そううまくいくことはまれです。祝祭日はふいにどこかへ消え去り、生活は輝きを失ってしまいます。心の中には虚しさとやり切れない寂したが残ります。この感情は、説明のつく場合もあれば、はっきりした理由がわからない場合もあります。
何より不愉快なことは、世界が暗闇の中に沈み込むときはわき目も降らずにどんどん進むのに、明るくなるときはとてもゆっくりで散々待たせた挙句のことという点にあります。人間の持つ、物事をネガティブに考える傾向は、それにつきものの邪魔な働きをしてくれます。
うつ状態というのは、魂と理性がその人に好ましくないことで一致した状態のことです。その場合、魂の意図はリアリティを亜空間の暗黒領域へと有無を言わせず移動させます。鏡は遅滞なく速やかに反応します。その後、長い間、明るさは戻りません。なぜなら本人にとっては好ましくない状態が起こり、それに対する自分の接し方によって自分の世界の層をますます暗い色調に染めていくからです。
時には状況があまりにひどくて、事象選択などの方法を思い出そうとする気持ちにさえならなこともあります。そんな窮地から抜け出してリアリティを修正するにはどうすればよいのでしょうか。一般的には、かなり難しいと言えます。それでも、リアリティの反転と名付けられたラジカルな方法があるのです。
事象選択の法則にのっとって行われるもので、ゲームのポイントは、状況の接し方を全く逆にひっくり返す、つまり、ある種の反転を行ってみるというものです。もしその人にとって好ましくない状況であれば、コマの法則が本人に作用し、苦しみや不安に襲われたり、重みに屈したり、あるいは乱れた生活を送ったりせざるを得なくなります。私たちが考案したゲームの決まりは、これと全く反対のことをするというものでした。私たちがどのように行ったか、御覧に入れましょう。
「僕は取ってもうれしい絶望を味わっちゃったよ。実は、普通じゃありえない幸運な災難が起こったんだ…」
「取り返しのつかないことが起きてしまって、状況は一気に上向だよ」
「感じのいい紳士が運転する自動車に、うっとりするくらい泥を撥ねかけられたよ」
「すべての努力は水の泡だったけれど、成功の基になったよ」
「彼女は僕を愛していない。いいや、それが本当なら、話がうますぎる。疫病神め、うまい演技をしてくれるよまったく」
「彼に捨てられちゃったのよ。私ったら馬みたいにいなないたわ」
まあ、こんな風に考え付く限りの工夫を凝らしていろいろやりました。唯一邪魔をするのは、失敗のこうした変換につきもののヒステリックな大笑いです。講義中は大笑いなどもってのほかですから、押し殺された笑いは、有袋類や両生類が発するような、ごぼごぼ、ブーブー、ふんふん、ひっひっ、あるいは嘔吐のような痙攣の音に変わってしまうのでした。休む時間になると、こうして蓄えられたエネルギーは、カスタネダ風のふざけ狂った猛然たるうなり声に変わってどっとあふれ出るわけです。
その際、事象選択の観点からは、何が起きているのか、あなた自身、お判りでしょう。第一に、一瞬にしてあらゆる重要性が放り投げられ、過剰ポテンシャルは消え去ります。第二にたとえそれがふざけ狂った歓喜というものであっても、そんな思考エネルギーの放射の人生ラインへの移動はすぐに起こります。鏡は瞬時に反応してくれるのです。なぜなら魂と理性がほっとしてため息をつくからです。その結果、リアリティは矯正されます。

※前回続き
〇先ほどご紹介したような儀式を執り行うとで、あなたは自分が持っていたすべての内的重要性をすっかり消去できるのです。しかし、あのような儀式は自分には到底受け入れがたいと思われるかもしれません。それならば、あなたが自分と周囲の人々との対比をただ辞めるだけの方が、もっと良い結果が出ることと思います。自分も他者もありのままでいることを思い切って認めてあげましょう。ぎゅっと握りしめているものを手放しましょう。そうするや否や、分極化は消え去り、取り巻く世界は理解しがたい方法で変貌を遂げ、あなたを邪魔しなくなるでしょう。そうなれば、「現実的事象選択」とはなんであるか、理解されると思います。
質問 「真剣な読者の一人にあなたはお馬鹿さん転がしをするようにとのアドバイスを与えました。ところでお馬鹿さん転がしにすっかりうつつを抜かしている人の場合はどうすればよいのでしょうか? その人が真面目なことをするよう仕向けるにはどうすべきでしょうか?」
答え 真面目な戸をしたくないのは、それが真面目なことだからではなく、それがその人のすべきことではないからです、怠惰は魂の状態なのです。もちろん魂には、関心のない他人のことをしようという望みは全くありません。たぶん魂がこの世にやってきたのは、何らかのコマのために根を詰めて働くためではなく、温かな海辺で日向ぼっこをしたり、アルプスのゲレンデでスキーで滑走したり、旅行をしたりするためでしょう。この世にはありとあらゆる楽しみがあるのですから。
「では一体だれが働くのだ」と怒り心頭のコマが反論する事でしょう。これに対しては、学生時代の愉快な歌の文句で軽妙に答えておくことができます。義務感や必要性というのはコマの発明品なのです。
本当に私たちの世界は大変豊かで惜しみなく与えてくれるので、もし各人が自分の扉を通って自分の目的へと進むのであれば、幸福はみんなに行き渡るようになっています。そうなる日がいつかやってくるのでしょうか。とにかく、個人個人を取り上げてみると、もし本人がそう欲するのなら、自分の世界の層を非常に居心地が良い場所に変えられるのです。
そのためには自分の目的と自分の扉を見つける必要があります。もしあなたが自分の目的に向かって進むのであれば、自分を説き伏せたり、欺いたりする事はなくなります。魂はスキップしながら自分の扉を通って自分の目的へと駆け出します。他の人々にとって、あなたの扉は苦労の多い面倒な仕事に思われるかもしれませんが、あなたにとっては心地よい満足感をもたらしてくれるものなのです。 他人の扉を通って他人の目的へと進んでいるうちは、あなたはコマのために働いていることになります。そんな道の途中では、あなたの魂はいつも「嫌だよ」と言い、理性は「必要なのだ」と繰り返すのです。そんな道は、たとえどれほど筋の通った理由をつけられたり、美しく飾り立てられたりしていても、どこへも導いてはくれません。抜け出す方法はただ一つ・・・・自分の目的を見つけ出して、それに向かって進むことです。
さて、それまでの間、義務感や必要性を治療してくれる薬となり得るのがゲームです。子供のころに、大人達を真似て、お店ごっこやお医者さんごっこをしたとを思い出しましょう。そして、今も、働きづめにならないで、ごっこ感覚やゲーム感覚でよいのだとイメージしてみましょう。
もしあなたがそんなゲームにどっぷりつかってしまった場合だけは、義務感や必要性に苦しむことになるわけです。プレイする観客という役割を自分に割り振りましょう、少し距離を置いて行動しましょう。やり遂げなくてはならない仕事にひたすら打ち込むとはやめましょう。これはゲームなのだという振りをしましょう。自分をリースに出しましょう。

〇質問 「僕の問題はこうです。とても高い目的を決めて自分に課しましたが、いつもコマに囲まれていて邪魔されます。自分の目的や自分に興味のある事についてだれとも話すことができないし、肉親までが、僕の考えることなどうまくいくわけがないと言います。みんなを観察していると、ほとんど全員が同じ顔をしているように思えてきます。どうか僕に何か助言を与えてください」
答え コマがあなたの邪魔をするのは当たり前のことです。コマはすべての人々の邪魔をします。コマによる抵抗を最小限に抑えるには、重要性のハードルを低い位置にとどめる、即ち何に対しても大きすぎる意義を与えてはならない、という事になります。このようなアドバイスは聞きなれないかもしれませんが、ほとんどの問題は、媽祖市区内的重要性や外的重要性が高すぎるレベルにあることから発生しています。
「とても高い目的」というのは、決して達成困難だと定義されるわけではありません。とても高い目的を達成困難にしているのは、理性のありふれた固定観念で、そんな固定観念は、意図の調整の法則を用いることで打破することができます。
どんな目的でも、それがもしあなたのものであるなら、達成することが出来ます。もし目的が他人のものであるなら、目的がすでに達成されたかのようなイメージを頭の中の映し出した時に、あなたは魂の不快を多少なりとも感じる事でしょう。
あなたの目的の選択と具体的な達成方法についてはどうかというと、人々が言う事は参考までに聞くにしても、それ以上に重視する必要はありません。行動指針となるのは、心が命じることであって、他者からの助言ではありません。とりわけ「あなたの幸福を全身全霊で望んでやまない」身近な人々からの助言ではないのです。
しかし、全体として、あなたの質問では、どこに問題があるのかが正確にはわかりません。特に、「みんなを観察していると、ほとんど全員が同じ顔をしているように思えてきます」という一文は理解できません。
質問 「説明させてください、両親や友人たちを含め、僕の周りにいる人間たちは、僕自身のことや僕の望みについては理解してくれず、自分達の都合の良いことを僕が行うようにゴリ押しします。あの人たちは僕の考え方をわかろうともしてくれません。僕という人間は、自分の目的を達成するときには、厳しい規律を守り、決めた通りに一日を過ごし、積極性、忍耐強さ、粘り強さを発揮する性格で、新しい知識を追い求めようとする性格です。ところが、僕の両親はそんな目的を達成する事など頭から拭い去って、自分の仕事を見つけ、静かに暮らすようにと言います。これは目的が低いと僕は思います。僕の友人たちの人生哲学は、僕の目にはどれももっとひどいものに映ります。彼らの考えることと言ったら、何とかして授業を抜け出そう、だれかをいじめよう。それに、教師を侮辱することもやりかねず、口から出てくるのは僕には面白くも何ともない話です。また、授業中の僕の邪魔もします。ついでに言うと、両親の間では口喧嘩が絶えません」
答え これで事情が少しはっきりしました。私の助言をに気に入っていただけるかどうかは分かりませんが、提案するだけはしておきます。あなたはご自分で判断してください。私は誰にも何も押し付けるつもりはありません。あなたが質問されるので、私はお答えするというわけです。
そんなわけで、この問題の解決には、「お馬鹿さん転がし」という方法を試めしてみる必要があります。文字通りの意味で、という事です。私はからかっているのではなく、大真面目に話しているのです。
「お馬鹿さん」となる対象の選択は、入念に行うべきです。ここであなたは自分が持っている肯定的な資質…厳格主義、几帳面さ、明確な目的意識というものをいかんなく発揮しなくてはなりません。願わくば、対象となる物は、気詰まりを感じたりしないように、生き物でない方がよいのです。そのために何を用いることができるか、よく考えてみてください。私が一つ提案するのは、毛のフカフカした子熊のぬいぐるみです。
適当な「お馬鹿さん」が見つかったら、しっかりとした計画を立てましょう。いつ、どこで、どのようにしてそれを「転がす」かについての計画です。方法を詳細に記述した取扱説明書を作ってみるのも非常に結構なことです。こんな風にです。「上述のお馬鹿さん転がしとは、お馬鹿さんを縦軸に沿って回転させることである。その際、お馬鹿さんは、転がされるのに支障の無い平らな面に置かれていなくてはならない。転がされるお馬鹿さんの回転は、転がす人か両手で連続して力を加えることによって実行される…」まあこんな具合に続くわけです。
全体として、取扱説明書と計画は、極めて綿密に、安全規則を含め、あらゆる詳細部分が正確に期されていなければなりません。この仕事には真剣に取り組んでください。その結果、感動的な企画書が出来上がる事でしょう。それを立派な装丁にして、事務用ファイルに閉じましょう。
企画書が完成したら、その実現に取り掛かりましょう。取扱説明書を厳格に守りつつ、念入りにこの計画実現を準備し、すべての必要な行動を一生懸命に行ってください。すべての行動を、時折、取扱説明書を見ながら、真剣にきちんと実行してください。表情はあくまで賢そうに、ひたむきさが伝わって来るようでなければなりません。もし馬鹿げた笑いがこみあげてくるようであれば、一時的に実行を中断し、荒く息を吐き、心を落ち着かせた後に、また続けます。
あなたはまだ私がからかっているとお思いでしょうか。実をいうと、あなたの問題の原因の多くは、内的重要性の高められたポテンシャルに潜んでいるのです。あなたは次のように書かれています。「僕と言う人間は、自分の目的を達成するときには、厳しい規律を守り、決めたとおりに一日を過ごし、積極性、忍耐強さ、粘り強さを発揮する性格で・・・・いつもコマに囲まれていて邪魔されます」
あなたは自分に対して非常に高い要求を突きつけるのでしょう。断言できないので、推測するだけですが、あなたは「重要な物事に全責任をもって真剣に携わる」人物の役割を自分に背負わせているのでしよう。もしそうであるならば、あなたの回りには全く正反対の性格の人々がいつも騒々しく動き回っていなければならなくなります。例えば、無責任で無節操でだらしなくていざこざを起こしやすい人々などが、あなたを苛立たせることでしょう。総じて、ありとあらゆる役立たずたちが入れ代わり立ち代わり現れては、きちんと立てられた計画を台無しにしようとするのです。
名なぜこんなことが起こるのでしょうか。なぜなら、あなたの内的重要性の過剰ポテンシャルが強い分極化を引き起こしてるからです。あなたと正反対の性質を持つ人々は、鉄くずが辞職に引き寄せられるように、あなたーと引き寄せられます。平衡力は、ぼてしゃるを所記しようとして、そのように働きます。取り巻く世界はあなたの鏡です。しかし、もしあなたが内的重要性や外的重要性の過剰ポテンシャルを発生させると、その鏡は歪曲されてしまいます。あなたを邪魔するコマたちに取り囲まれている環境では、リアリティが歪曲されて現れてしまうのです。
もっと正確に言うと、邪魔をする人々というのはコマではなく、コマの手先である人形使いたちのことです。コマがあなたのポテンシャルのエネルギーを感じ取り、あなたが苛立つような振る舞いをするような人々を仕向けるのです。あなたは苛立ち、道化役はますます盛んにのさばり、はびこります。コマはあなたの苛立たしさから、エネルギーをもらい、道化を演じる人形遣いたちに勢いをつけているのです。
ければとも、重要性のポテンシャルを投げ捨てると、取り巻く世界の様相が少しずつ変わっていきます。人々は同じなのですが、あなたに対する振る舞い方が全く違ってます。分極化が消え去るや否や、鏡の表面が滑らかになり、リアリティは歪む前の状態に戻ります。
それにしても、そうした分極化を引き起こしたのは、いったい何でしょうか。あなたの肯定的な資質が引き起こしたのでしょうか。いいえ、決してそうではありません。あなたの資質はとても素晴らしく、あなたの誇りであり、あなたの人生において間違いなく助けとなってくれることでしょう。実は、分極化は依存関係の結果として発生したのです。
あなたの資質は、それをあなたが他社と比較しようとしなければ、あなたを取り巻くエネルギー分布にいかなる変化も引き起こしたりはしません。例えば、「自分は規律正しいのに、奴らはぐうたらだ」、「自分ははっきりした目的意識を持っているのに、奴らはさっぱり訳が分かっていない」などとあなたが思っているとしましょう。こんなたい肥を行うと、分極化を引き起こしてしまうのです。
※次回に続く

〇質問 「人が幸運の波に乗っかっているとき、その人はすべての面で幸せでツキがあり、何より大事なことは、破壊的コマの影響に屈しない、とあなたはおっしゃいました。ところで、普通は、万事うまくいくようなことがあり得ないのはなぜですか? 大抵の場合、すべてがうまくいってほしいとは思うのですが、職場での昇進、成長、成功をとるか、それとも、家庭での居心地よさ、安らぎ、愛情を取るかの、どちらかになってしまいます」
答え 全てがうまくいくわけはないと言っているのは、あなたの方です。それはあなた個人の選択です。なぜなら、あなたがそう思うから、つまりそうなるわけです。常に世界はあなたが選択した物をあなたのために現実化しています。あなたはこう書いています。「大抵の場合、すべてがうまくいって欲しいとは思うのですが…」。世界はここでも選択されたものを現実化しています。世界は、すべてがうまくいくようあなたが欲していると言う事実を申し分なく反映してくれます。しかし、それ以上のことをやってくれるわけではありません。何しろあなたがそう欲しているのですから。そんなわけで、あなたは、欲している状態の自分というものを受け取るのです。
ただ欲することはやめにして、所有することを意図するようになると、あなたはそれを受け取るでしょう。事象選択のモットーに注意を払ってください。「私は欲せず、期待せず、意図する」
質問 「恐怖。不安、パニックを避けるにはどうすべきか教えてください。そのためには実際にどうすればよいのでしょうか? 例えば、娘や息子が遠出したときがそうです。飛行機は無事についただろうか、なぜ電話をよこさないのだろうか、と不安に駆られて、ほかのことが手につかなくなってしまいます」
答え あなたは興味深くて複雑なテーマに言及されました。恐怖を避ける万能の方法はありません。もし意識を変化させることなく、恐怖を緩和してくれるような単純で効果的な手段が現れたら、それは歴史始まって以来のもっとも偉大な発明の一つに数え上げられることでしょう。
事象選択の用語上で恐怖というのは、過剰エネルギー・ポテンシャルの事です。これは恐怖の対象に過度に大きな意義が与えられたときに発生します。過剰ポテンシャルはエネルギー場における均衡を乱すことから、それを排除しようとする平衡力が生まれます。
例えば、あなたが断崖に沿って歩かなければならなくなり、落ちてしまうのでは無いかとパニックになるほど怖がっているとしましょう。平衡力はどうすればこうしたポテンシャルを取り除くことができるでしょうか。最もエネルギー必要としないやり方は、あなたをがけ下へ放り投げ、それでかたをつけるというものです。自然はいつも一番エネルギー消費の少ない方法を取ります。
しかし、こんなやり方はあなたのお気に召さないわけですから、平衡力の強さに打ち勝つしかありません。すなわち、しっかり両手でつかんで離さないという事になります。恐怖のポテンシャルを相殺するには、さらに努力することが必要になるわけです。その結果。あなたのエネルギーは、ポテンシャルそのものと、それを押さえるためとに、二倍も多く消費されるのです。自由エネルギーはほとんど残らないので、ある種の精神的虚脱状態が起こります。
もし恐怖のポテンシャルが十分に強ければ、それをコントロールする事はできず、そうなると平衡力があなたを思いのままに翻弄することになります。言い換えると、パニックが起こり、あなたはポテンシャルを打ち消そうとする努力に我を忘れあなたの身の破滅へと向かうのです。
もし意識して状況の重要性のハードルを低くすると、恐怖は消えます。しかし、問題は、意識して重要性を放り投げようとしてもうまくいかないという事にあります。そのため、唯一効果的な方法となるのが、保険をかけたり迂回路を確保したりすることです。具体的な各々のケースによって、保険や迂回路に相当するものは異なります。
もし保険となるものがないのなら、そんな場合に実行可能なこと、不安と戦わないという事です。怖がらないよう自分を説き伏せることは無駄です。自分を欺いても助けにはなりません。どんな形であれ恐怖と戦うことはもあなたのエネルギーを奪い去り、過剰ポテンシャルを強めるだけです。もし怖がらずにいることが不可能なら、怖がってください。可能な範囲で行動するのもよいでしょう。しかし、自分の恐怖心と戦う事だけはやめるべきです。
例えば、もしあなたがスピーチを前にして不安におののいているのなら、好きなだけおののいてよいのです。存分に満喫するかのように自然に任せて心配してください。その素晴らしい感情にすっかり任せましょう。何なら気が変になったってかまわないのです。あなたがそうすること思い切って自分に容認した途端、あなたの不安は奇跡でも起こったかのようにどこかへ消え去る事でしょう。こんなことが起こるのは、エネルギーのかなりの部分が不安との戦いに費やされていたためなのです。
不安や心配は、恐怖という感情の幾分弱い現れです。ここでは、先が見通せないことから、重要性が生まれます。その場合、意識して重要性のハードルを引き下げる余地があります。もしあなたが何かに不安を感じているのであれば、そんな不安はあなたにとって悪いことしかもたらさず、何のためにもならないと自分自身を説明ししてあげましょう。通常、不安や悪い予感は現実化されるのです。
不安を払拭する方法の一つとして、行動することがあげられます。どんな行動をするかは重要ではありません。不安や心配のポンシャルは、行動宇する中で消散します。行動し無いまま不安に陥っていると、あなたが積極的に行動し始めるまで、その不安に脅かされます。どんな行動をするかは、不安の対象と関係がないとすらいえます。自分に何かさせることで充分です。すると、不安が小さくなり始めたことをすぐに実感するでしょう。
重要性のハードルを引き下げるためのちょうどいい足掛かりとなり得るのが、意図の調整の法則…万事うまくいく、なのです。物事がどのように展開するのかをあえて知らなくてもよいのだと思ってください。シナリオをコントロールしようとして握りしめているものを手放し、うまく解決するよう状況に任せましょう。
もしあなたが水面を両手で叩きつける事をせず、意識して流れに沿って進むのならば、状況はひとりでにうまく変化し始めるでしょう。意図の調整の法則が働き、あなたはそれを確信できるのです。世界は誰にも嫌がらせするつもりはありません。とはいえ、あなたのことを気にかけてくれる力があるというわけではないのです。ただその方が少ないエネルギーで済むからです。
自然は無駄にエネルギーを費やしません。自然にとってあなたのためにエネルギーをつかうのは割に合いません。不快な事は常にエネルギーの過度な消費と関係しています。反対に、幸運なことは常態であり、最小限のエネルギー消費しか必要としません。人間の理性は、最小限の抵抗しかしない方法について知らないので、事象の流れと戦い、自分にとっての障害や問題を自分で積み上げてしまいます。ところで、そうした障害や問題はどこから出てきたのでしょうか。エネルギー保存の法則はまだ誰によっても取り消されてはいません。調整の法則を文字通り理解するだけではいけません。大事なのは、最も熱くなっているときに割って入り、万事うまくいく、と繰り返すのです。とにかく、細かいことはさておき、一般的には、安心してこの法則を信頼してよいのです。

〇質問 「私の質問はこうです。事象選択の法則は、ほかの人々に対して作用するのでしょうか? 例えば、母親は自分の子供たちを治療することができますか? あるいは、もしあなたに日本を豊かな国にするという意図があれば、そこに住む人々は幸せに暮らせるようになるでしょうか?」
答え 意図は何でもやってのけます。問題は、いったい何が意図の力なのかという事です。もしあなたがキリストの意図を持っているならば、奇跡によって病気を治す事もできるでしょう。しかし、意図の力は、願望の力ではありません。もしあなたが何かを強く望むとしても、本当にそれを受け取ることにはならないでしょう。それは信念でもありません。なぜなら、信念のある所には、常に疑念の入り込む余地が見つかるからです。
意図とは、自分の意思が現実化された物を受け取るという。平然としていて絶対的かつ無条件の決意であり、まさにそうなるだろうという冷静な認識です。願望、恐怖、疑念、その他重要性のポテンシャルから自由であるものは純粋です。例えば、郵便受けから郵便物を取ってこようとする意図とは純粋なものです。
もし自分の子供たちの病気を治療しようとする心構えが純粋なものであれば、あなたはそれを成し遂げる事でしょう。ただし、力を尽くすことによってそれが達成されると考えてはなりません。麻痺した人は、いくら本人が努力したとしても、微動だにしません。その一方で、もし偶然に動かし方を「思い出したら」、その人は運動能力を取り戻すかもしれません。
意図を持つよう教え込むことは、私にも他の誰にもできません。しかし、事象選択には、あなたの意思にかかわりなく、意図が働くようにさせる方法があります。それはいわゆる、魂の意図と呼ばれるものです。
このケースでは、もし治療が何の助けにもならないのであれば、あなたは子供たちを治療する試みを断念する必要があります。精神疾患とはいったい何なのでしょうか。それは人間の魂が亜空間の現実化されていない領域と同調した時に起こります。正常な人間は私たちの住む現実化された世界と同調しているのですが、精神疾患を患っている人は決して病人ではなく、ただ現実化されていない領域で、「遊んで」いるだけであり、そのため私たちの観点からは「正常でない」とみなされているわけです。
あなたの子供たちをあるがままに受け入れてください。彼らは病気ではなく、ほかの人々と違うだけなのです。人がみんなと違うという事は大変すばらしいことであって、それこそ正常なことです。みんなが同じことを考え、同じ行動をする現在の状況の方が正常ではありません。
あなたの子どたちを正常にしようと努力しても、あなたはそれを達成されないでしょう。すでに述べたとおり、意図によって力をることはできません。あなたは、努力し、苦労し、嘆くことで、強力な過剰ポテンシャルを発生させ、それが状況をますます悪化させるだけとなります。
しかし、子供たちあるがままに受け入れ、彼らの正常さを認めてあげると、そんな遠回りのやり方で、あなたは意図を得る事でしょう。その場合、あなたの意思の意図は魂の意図に変換されます。
子供たちを思いやり、配慮し、できる限り自由にしてあげましょう。「正常」になる必要性から子供たちを解放し、子供たちを「正常」にしようとする必要性からあなた自身をも解放してあげましょう。そうすれば、すぐにではなくても、ある時間が経過すれば、あなたは成果を実感することになるでしょう。
私のアドバイスを受け入れるか、受け入れないかは、あなた自身が決めてください。精神医学の専門家ではない私からのアドバイスであることをご理解願います。そもそも、私にこのようなアドバイスをする資格があるのかどうかも疑問ではあります。
あなたの魂は、あなたに関する事なら、どんな質問にも答えることができます。私を含む他人の意見よりも、自分の心の声をもっと信じてください。
私に一つだけ強みがあるとしたら、それはあなたの子供たちを私は客観的に見ることができるという点です。その意味で、私は彼らに対して過剰ポテンシャルを抱きませんから、答えを与える私の意図は純粋なものになります。
それにしても、あなたは子供たちが心配なのに、なぜ日本の運命についてまで心を砕かれるのか、私にはわかりません。活動の範囲がそれだけ広いのでしょうか。みんなを幸せにするという考え方を私は好きになれません。
人それぞれが形成しているのは、自分の世界の層だけなのです。そのため、一人の人間が日本全てを幸せにすることはできないのです。すべての人々が一緒になってとりかかる場合に限り、それが可能です。ところが、共通の思想でまとまった人々は、最終的にコマを作り上げてしまいます。そののコマは、早晩、破壊的な活動に取り掛かります。信望者である人々を本来の道から連れ去り、自分の競争相手であるコマたちとの戦いを始めることになります。
人々を幸福にしようとするあらゆる思想がどのような結末を迎えたか、あなたはよくご存じと思います。神への愛に基づく最も崇高なものも含め、どのような思想もコマを生み出します。神の名によって、幸福のためと称して、地上では多くの民が死に絶えたのです。
コマはすべての人々を幸せにする事ができません。いずれにせよ、その過程で多くの人々が苦しみ、不幸になります。幸福を全員が共有することはあり得ないのです。それは純粋に人的な概念です。もし社会全体が普遍的な幸福を築くために総動員されたら、この上ない荒廃が起こります。荒廃は「便所の中にあるのではなくて、頭の中にある」ことになります。
他者について心配することを心の広さだと見せかけることが、コマにとっては好都合なのです。コマは非常にもっともらしい固定観念を巧みに作り上げます。しかし、そうしたものすべては美しく見えるデマにすぎません。もし誰もが自分の扉を通って自分の目的に向かって進むのなら、みんなが幸せになれるのです。その意味では、事象選択は個人主義者のためのコマなのです。しかし、それは、幻の幸せではなく、本当の幸せへと続く唯一の現実的な道です。
コマから顔を背け、自分の魂を固定観念の箱から解き放ち、自分の幸せに専念するべきです。自分の目的へと続く道であなたは非常に多くの本当に善良で有益なことを行うでしょう。そして、もちろん、たくさんのかわいそうで不幸な人々を助けてあげる事でしょう。なぜなら、あなたは大きな可能性を手に入れるからです。

〇質問 「私も同じ間違いを抱えています。愛する妻が私のもとを去りました。
分かれることになった主な原因は、私の稼ぎが安定しないことにあります。おしなべて私は押しが弱く、臆病であり、必要に用心深いころがあります。私の妻は、私の知識と経験を生かして、自分の会社を作るべきだと考えていました。私のような押しの弱い性格では、出世の階段を人を掻きわけてよじ登ることは至難の業です。それに立身出世はクリエイティブな仕事に向いている私の性分に合いません。
多くの点で私は妻と同じ意見です。私は大抵のことについて詳しすぎるほど調べようとしますし、もっと経験を積もうとします。私の経歴もそんなふうで、同じ職場に二、三年以上いた試しがありません、私の性格で大きな長所は思いやりのあることですが、それが出世の妨げになっていますから、思いやりは私の短所でもあります。
妻は安定と確実性を望み、子供を欲しがっています。私も内心では同じ思いを抱いています。けれども、出世の道を考えるのではなく、利益をもたらしてくれる根本的なビジネス・モデルを開発したいという思いがあります。そのためには、知識と経験が必要で、創始したものの習得こそが私には最優先されるのです。
三か月前、私は妻と別れました。とても穏やかな別れでした、現在、妻は別のアパートを借りて住んでいます。妻はそうするだけの給料をもらっています。自分探しの最中だそうです。しかし、私たちの関係は冷え切るばかりです。妻はもう私と付き合おうとは思っていないようです。どうすれば愛する人を取り戻せるでしょうか?」
答え あなた方二人の問題の具体的な解決方法を提示することは、私には出来ません。それができるのは、状況が十分明確に説明されている場合に限られます。しかし、その場合でも、私の意見は主観的なものであり、そのため間違っているかもしれません。
もしどう答えてよいかわからない場合、私は自分の直感に訴えます。それでも、もし直感が私に何も語りかけてくれないのなら、事象選択の法則の一つを利用するようアドバイスできます。なぜなら、そうしても害になることは何もないからです。
あなたのケースでは、私の直感による答えは事象選択の法則と合致しています。それによると、あなたは自分の心の声にぜひとも従うべだという事になります。成功とは、出世、安定、高給であると世間の人々は言います。しかし、これらのことを目的にしてはなりません。人の進むべき道が出世の階段を駆け上がるという事に本当にあるのでしょうか。そうではありません。
出世、安定、高給とは、実際には、目的ではなくて、付随する属性なのです。あなた目的とは、人生をお祭りに変えてくれるものです。目的と属性とを履き違えると、あなたは何も達成することができません。属性とは、目的達成の結果として、自ずと付き従ってくるもののことです。例えば、あなたが独創的な第一級の専門家になれば、あらゆる欲求は満たされるのです。
ですから、目的を目指すべきであって、目的がもたらす利益に向かおうとしてはなりません。いま述べた事実は明らかなように思われます。だれもがそれを理解してくれるでしょう。しかし、逆説ともいうべきことに、この事実は人々の意識上にほんの一瞬浮かび上がるだけで終わり、その後は属性の輝きに圧倒されて目立たなくなってしまうのです。
人々は、蛾がランプの炎に集まるように、属性に引き付けられます。しかし、そうしても何も得ることはできません。もし、目的ではなく、その属性に向かおうとしたら、どうやって成功を掴むことができるのでしょうか。目的ではなく、属性に目を奪われがちになることから、高い生活水準は選ばれた人々だけのものという伝説が生まれるのです。
世の中の意見はあなたに固定観念を押し付けます。しかし、そうした意見は目に見える最終的な結果に基づくものなのです。
成功は、目的へと進むプロセスにおいて訪れるものです。最終的な結果はいつも目に見えますが、目的へと進むプロセスは陰に隠れています。結局、出世してお金をつかみ取ろう、言い換えると、「ランプに向かって飛んでいこう」という固定観念がが出来上がるわけです。
人々はすでに高く上った星々の輝きだけを見ています。けれども、彼らが成功の頂点にたどり着くまでに歩んできた道に注意を払う人は少ないのです。どのスターたちも失敗という名の鬱蒼とした森を通ってきたのです。幸運の女神は、自分の道を進んでいると確信しているものだけに向かって、そのうち微笑んでくれるのです。自分の目的に向かって休まず進み、何が起きようとも事象の流れは必要な方向へ向かっているという事を覚えておきさえすればよいのです。目的がいつどのような方法によって達成されるかは、誰にも知ることができないのです。
もしあなたが一般的な固定観念に従うとしても、一定の成功を収める事はできるでしょう。しかし、その場合の成功とは中くらいのものであって、しかも大変な苦労の末にもたらされる事になります。真に壮大な成功を手にするためには、自分の目的を定め、誰のいう事も聞かず、目的に向かって休むことなく進む必要があります。他の人々によるアドバイスは参考にすることもあるでしょうが、最終決定は自分自身の心に従うのです。唯一そうすることが、ランプにぶつかる蛾のような真似を避けられるやり方なのです。
正しい決定は、魂と理性が一致する際に生まれます。決定が正しくないときの単純明快な基準となるのは、魂の不快です。もしあなたが決定を下し、その際、義務感のような感覚に似た重苦しい気持ちが少しであったのであれば、つまりそれは魂があなたに「いいえ」と言っていることになります。もし、決定を下す際に、魂の不快というものを感じなかったのであれば、それは魂が、「はい」と言っているか、または「わからない」と言っているのです。その場合の最終決定は、あなたの理性にゆだねられます。もし決定が確かなものであれば、魂はウキウキし、理性は満足そうに揉み手をします。
ところで、もしあなたがどうしても自分の目的を決めることができないのであれば、自分を質問攻めにして苦しめるのは止めにしましょう。目的なしに生きることも不可能なわけではないのですから、もしあなたが、何を志向することも無く、ただ生きていたいだけならば、そうして悪いわけはありません。その場合に、一つだけアドバイスする事が出来ます。泳ぐのではなく、流れに沿って進むべきなのです。言い換えると、調整の法則を守る事が必要という事です。そうすると生活が穏やかで快適な軌道に乗るのです。あなたが躍起になって目的を探し出そうとすることをやれたら、きっと目的の方から自分の存在をあなたに教えてくれるでしょう。
さて、どのようにして奥さんを取り戻すべきか、という質問に対しては、ここで私に助言できることは何もありません。「自分探しの最中だそうです。しかし、私たちの関係は冷え切るばかりです。妻はもう私と付き合おうとは思っていないようです」というキーフレーズからは、問題点が不安定な収入にあるのではなさそうだと思われます。もし彼女が愛していないのなら、取り戻すことは不可能ではないでしょうか。

〇質問 「どうか私の質問にお答えください。どうすれば愛しい人取り戻すことができますか?」
答え もし彼が自分の方から立ち去ってしまったのなら、本当にとり戻す事が出来るでしょうか。より正確に言うと、魂の意図の力によって、つまり彼を「取り戻す」ことに向けられた何らかの行動に出たとしても、取り戻すことはできないと思います。そうした行動に相当するのは、直接お相手に影響を与えようとするあらゆる試みのことです。たとえもし何かがうまくいくったとして、彼はもう昔のままではないでしょう。
彼を取り戻すには、魂の意図による場合に限り、可能かもしれません。意思の意図によると、あなたは自分の目的を達成しようとして、直接世界に影響を与えようとします。魂の意図は、世界の方からあなたを迎えるように働きます。魂の意図が働くメカニズムを手短に説明すると次のようにななります。
パートナーたちの関係は、意思の意図に立脚しています。これは、すなわち、お互いに何かを求めあうという事です。もしどちらか一方が、求めているものを受け取っていないとすると、その人は関係を断ち切ります。
人と人との関係の中でだれもが自分なりの満足感を得ようとします。それは、愛、尊敬、長所の認識、相互理解、交流、孤独からの逃避、楽しみなどを求めてという事が考えられます。
こうした様々な個人的要求をひとくくりにした何か共通のものがあるでしょうか。過去にも現在にも、それは個人的な存在意義を守り確かめたいというもいです。人が行動するにあたって、の何に指針を置くにせよ、本人のあらゆる動機は自己の存在意義と関係しています。人はそのようにできているのです。
人々の関係に置いて魂の意図はいつも何らかの形で自己の存在意義の保護と確認に向けられます。あなたの愛する人の意思の意図は何に向けられているのでしょうか。それは自己の存在意義を満足させてくれるようなパートナーを探すことに向けられているのです。
では、あなたの意思の意図は何に向けられているのでしょうか。それは愛する人を取り戻すことに向けられています。それによって、まず第一に、自分の存在意義を回復し、第二に、何らかの満足感を得ていた関係を再開しようというのです。ここでちょっと考えてみてください。もしあなたが自分の意思の意図だけに従うとしたら、パートナーの意向を満足させてあげられるでしょうか。
あなたの愛する人を取り戻すためには、彼の意思の意図が向けられているものを与えてあげる必要があります。もし彼が何らかの形で自分の存在意義を満足させようとしても、相手を責めるべきではありません。あなただって相手から何かを得たいわけなのですから。
ご承知のように、フレイリングの最初の法則とは次のようなものでした。受け取る意図を断念し、与える意図に置き換えよう。すると、あなたは断念したものを受け取るだろう。
自分の意思の意図がどこに向けられて居ようとも、それを断念してみましょう。次に、あなたのパートナーの意図がどこに向けられているか、突き止めてみましょう。そして、相手の意図を満足させてあげる方向へと自分の注意を向けましょう。あなたの行動が、パートナーの要求を満足させる方向に転換されるや否や、あなたの意思の意図は魂の意図へと変換されるのです。
その結果。あなたはパートナーを居合わせにすることができるだけで無く、彼自身からもあなたが欲しかったものをもらう事になるのです。それも、たっぷりと。もし受け取る意図を断念し、それを与える意図に置き換えることがて来たなら、あなたは必ずや断念したものを受け取るでしょう。
この法則は大変効果的に作用しますので、まるで魔法の力でも働いているかのような感じがしてきます。しかし、こんな風に、まさしく本物の魔法というものが存在するのです。それも呪文や惚れ薬などは全く要りません。
しかし、一般的には、失った人を取り戻すというのは、二回も同じ川に入るのと同じく、非常に大変なことです。関係がおかしくなる前に、フレイリングの法則を行っておく方が賢明です。
いずれにせよ、私があなたの立場であるなら、何らかの対策を講じる前に、自分の気持ちが、相手を本当に取り戻したいという事なのか、それとも、自分が亡くした存在意義を回復したいという抑えがたい願望なのか、十分に考えてみると思います。
もしあなたが軽蔑されたと感じるのなら、それは関係修復が非常に難しいと思います。お気持ちは察するにあまりあります。しかし、もし私が全ての事情に通じているとしても、具体的な助言をすることは全く出来ないでしょう。私にできることは、工具を差し出すことくらいであり、それをどう使うかは、あなた自身が決めなくてはなりません。
あなたの世界の層はあなたの鏡であという事を忘れないでください。もし苦しむ方を選ぶのならば、あなたにとっての鏡もそうなるわけです。もし今、意図の調整の法則を活用し、ここに至った状況を願ってもない好機だと評価するのであれば、つまり、まさしくそうなるのです。
愛する人と別れたことによって、あなたの身に起こるはずだった問題に合わないで済んでいるのかもしれません。ですが、あなた取っては、すべてが悪い方へ進んでいると思われるわけです。判事うまくいきます。なぜなら、喜ぶか苦しむかを決定するのは、あなた自身だからです。私があなたの立場なら、喜んで、飛び上がり、拍手する事でしょう。鏡があなたに喜びをもたらしてくれるよう、思い切ってやってみたらいかがですか。

〇魂と理性の一致を邪魔する唯一のものは、内的重要性と外的重要性です。重要性というものは想像の芽を一般的な固定観念の箱の中に閉じ込めてしまいます。あなたは読者たちの問題について、次のように書いています。「彼女たちの苦労を聞き流していては、いい仕事ができません」
これは全く門切り型のフレーズでは無いでしょうか。こうも付け加えられます。人々の問題を聞き流していたら、何か助けてあげることもできない、と。そして、これも正しいように聞こえます。しかし、本当は、コマによって作り上げられた偽りの固定観念なのです。
人々の問題を聞き流すおかげてと言うよりは、人々の問題を聞き流すにもかかわらずあなたは人々の問題の解決に関与していることになります。これと反対に、他人の問題に没頭してしまうと、あなたは問題を客観的に解決することができなくなるのです。
人々が自分のゲームにどっぷりと入り込んでしまった結果として、問題が生じるのです。そのような人々の人生は「偶然に起こる」物であり、彼らは無意識に見る夢の中にいるように、状況に支配されています。しかし、観客席に降りていきゲームを脇から眺めるだけで、たちどころに全てが明らかになるのです。
あなたがほかの人々の問題に没頭している間は、あなたは彼らと同じ状態にあり続けます。彼らの問題を理解し解決するためには、少し距離を置いて行動することが必要です。
薄情でも無関心にでもなく、少し距離を置いて行動するのです。重要性のない状態と冷淡な状態との間違いは、ここにあるのです。
問題は自分のものであれ、他人のものであれ、もしプレイする観客と言う役割を自分で引き受ける場合に限り、解決することができるでしょう。あなたが自分や他人の問題を「生きがい」にしているうちは、無力なままなのです。
多くの間読者の皆さんは、少し距離を置いて眺めることと冷淡に接する事との違いをとらえることが出来ないかもしれません。もう一度繰り返します。重要性のない状態が、少し距離を置くことであって、無関心ではありません。自分の役割を、子供たちのように、「遊び半分」に演じてみてください。そうすると、あなたは人形遣い、つまり状況の支配者になれるでしょう。けれども、ゲームにのぼせ上がった状態から抜け出せないならばあなたはいつまでたっても操り人形のままです。
確かに、なんでも思い詰めてはいけません。もしそのことを理解すれば、あらゆる事が思ったほど重要ではなくなります。あなたからの助けを必要としている人を、助けなくてはなりません。しかし、感情に振り回されたり、気苦労でミスから悩んだりせず、少し距離を置いた状態でほかの人を助けてあげるのです。あなたの感情は有害なだけのこともあります。そして、助けてあげるのは、それを求めている人だけにするべきです。
「感受性の強い人や毎日施し物をするひとに、どうしろというのでしょう?」というあなたからの質問に対しては、大変具体的ではあっても、あなたには思いがけないような答えがあります。それは、罪悪感と縁を切るというものです。
もしあなたが定期的に寄付を行っているのでしたら、それはあなたが義務と感じているからです。義務感というのは罪悪感から生じます。あなたは、彼らに憐れみを感じているというよりは、むしろ困っている人を助けなくてはという義務感を感じているのだと思います。そしれは哀れみではなくて、重要性の現れなのです。
もしあなたに、病身で貧しい一人暮らしの老婆に対する同情心が突如起こったならば、それは憐れみです。しかし、もしあなたが、心に苦痛を感じることなく物乞いのそばを平然と通り過ぎることができないのなら、それは決して哀れみなどではなく、義務感なのです。
では、どうすればよいのでしようか。
ただ自分の自由を現実化させるのです。あなたは誰にも義務を追ってはいません。知への権利を手にすればよいのです。あなたは自分自身で答えを考え出すことが出来るのです。もし重要性から自由になれないのであれば、あなたは疑念の気持ちに苦しめられる事になります。もし重要性から自由であれば、それであなたは正しいのです。あなたが重要性から自由であれば、同情することもともに悩むことも自分に容認できるのです。

〇質問「私はこの種の様々な文献に目を通してきました。驚くべきことに、すべての文献の言わんとしていることは基本的に同じなのですが、それでも多くの点で食い違うところがあります。
膨大な情報量のために、それらが正しいか正しくないかは別として、混乱をきたしています。ほぼすべての人があらゆる情報を過度に重要視してはいけないと語っています。ければも、感受性の強い人や毎日施し物をする人に、どうしろ言いうのでしょう。他人の悲しみを受け入れることも理解することもしないのであれば、この世は冷酷非情なのとなってしまいます。
将来、私はジャーナリストになりたくて、ある出版社ですでに働いています。そこでは主に女性問題を取り上げ、女性達から取材した話にもとづいてルポを書いています。彼女たちの苦労を聞き流していては、いい仕事ができません。様々な内容の情報に日々接するジャーナリストは,どうした良いのでしょうか。私は一生を通じてコマを回すか、一人で苦しむしかないのですか。それとも、ひょっとしたら私に理解不足のところがあるのでしょうか。
また、事象選択を含め、似たような考え方はすべて理想論すぎる絵空事のように思われることもあります。事象選択もコマであって、それはあなたによって考え出されたものであり、あなたがほかの人々の思考を回している。という事がそのうちに改名されるかもしれません。なぜトランサーフィンの法則を持っとわかりやすいものにしないのでしょうか?」
答え、事象選択は考え出されたものではありません。ですから、その法則も作り直す事はできません。こうしたことを考え出すというのは、ほとんど不可能です。他の人々から教わる事も無理です。秘められた知というのは、考え出したり学び取ったりする物でもありません。それは誰もが手に届く場所にあります。私はその場所を亜空間と呼んでいます。他の人々は別の名前で呼んでいるかもしれませんが、本質は何も変わりません。
あなたはいくつかの問題で混乱しているとお手紙に書かれています。それによると、たくさんの教義は同じことを言っているのに、それでもやはり食い違うことがあるが、どのように理解すべきかとのご質問です。あるがままに信じてはいただけないようです。
心理学や密教に関する山のような文献を読み終えた後は、ある程度の時間立ち止まり、だれが何をどう書いていたかなどすべて忘れてしまってもよいと思います。もしあなたに何らかの分野の最低限必要な基礎部分が残っていたら、その後は亜空間からの情報を直接受け取ることができるでしょう、
そのためには、生じた疑問への答えを他の本の中から探すのをやめて、自分と向き合うという図々しさが必要です。世界の賢人たちに理性の関心が向かう間は、あなたの混乱は続き、永遠の学徒という状態から抜け出せません。目指す方向性を変えましょう。あなたの理性にはあなたの魂と向き合ってもらい、あなたの全ての疑問に対する答えを出してもらいましょう。
発明や発見をする人、文化・芸術の傑作を創る人、本を著す人と、そうした発明や発見に驚く人、傑作に歓喜する人、本を読む人とを隔てているのは何なのでしょうか。創作者と鑑定人も教師と生徒を分けるものは何なのでしょうか。
前者は、自分の理性の注意を他人の創作物から引き離しても、自分の魂に向ける図々しさを守っているのです。鑑定人と生徒が決して才能に恵まれていないわけではありません。ただ彼らの意図が別の方向、すなわち他者を評価し、他者に学ぶ、という事に向けられているだけなのです。
私がデマを飛ばしているか、だれでも知っているような心理を蒸し返そうとしているようにあなたには思われるかもしれません。理生の注意を自分の魂に向けるだって? 何か具体性に欠け、漠然としていて、霊性を強調しすぎるきらいがあるでしょうか。
しかし、本当に私は極めて具体的な事について述べているのです。あなたの魂はそのままでも全てわかっていると言うのはもあまり正確な言い方では無いかもしれません。過去と未来のデータが保管してあり、そればかりか、あらゆる傑作や発明・発見も存在しているという情報フィールドへのアクセス権を、理性と違って、魂は待っているのですが、そのことを知らないのです。
理性は魂の感覚を直感的な知やひらめきとして受け取り、その後、一般に通用する概念や記号という形態に解釈します。
理性は新しいことを何も思いつく事ができません。理性ができることは、古い積み木から旧バージョンの焼き直しのような家を建てることだけです。根本的に新しいことはすべて魂と理性が一致した時に創られます。しかし、この一致というものを達成するためには、単純で具体的なやり方を行う必要があります。
あなたはいかなる知にもアクセスすることが可能だという事実を受け入れてください。質問は自分に向けるのです、自分の道を進みましょう。自分の個性を発揮する権利を行使してください。自分に与えられている知へのアクセス権を活用するのです。
自分の意図を他のことから自分自信へと方向転換できるようになるや否や、知に手が届くようになります。あなたは個性豊かな人格を持ち、唯一無二の存在であり、すべてを知っているのだと、ただ自分に語りかけてください。自分に質問を発し、答えを持ちましょう。答えはひとりでにやってきます。すぐにやってくるともあればも複雑さの度合いによっては、数日後、あるいは数か月後にやってくることもあります。しかし、答えは必ずやってきます。
人によって背性と魂との接触の仕方は異なります。大事なのは、理性の意図を魂に向けるようになることです。実のところ、それを行ってみようと思い立つ人は少ないのです。しかし、試してみた人は、新たな発明や発見をしたり、傑作を創ったりし始めるわけです。
※次回に続く
