〇分極化による効果は、人騒がせな隣人の例を見事に説明している。こうした問題はありふれているにもかかわらず、形而上学的分野とまさに直接つながっている。問題は、ある人々がほかの人々の穏やかな暮らしを妨げている点にある。それにしても、なぜだろうか。どうしていつでもどこでも「良き人々」をそっとしておいてくれない「悪しき人々」が存在するのだろうか。
人々を二つの陣営に分けるとしたら、どうなるだろうか。ところが、「あなたはどちらの陣営に属しますか」というアンケート調査をしたら、「悪しき陣営」に属すると認める人は非常に少ないことだろう。あなたの隣人たちも、たいていは、あなた同様、普通の人々なのである。
あなたにとって生憎の方向へと吹き付ける平衡力の風によって傾向が出来上がる。風の吹く方向は、「卑劣さ」の法則…あなたにとって気に入らないことばかりが起こる…によって定められている。「悪魔にでも食われるがいい、何が平衡力だ、隣の奴らには良心というものがないだけのことさ。つまらない屁理屈をこねるんじゃない」と誰かが反論するかもしれない。しかし、平衡力による作用が屁理屈でないことを証明して見せよう。
隣人たちがあなたを苛立たせるとしよう。ところで、あなたの方は彼らを苛立たせたりはしていないだろうか。きっとそんなことはないだろう。だが、それはなぜか。「なぜって、あいつらはあんなふうにひどいが、わわれはそうじゃないからな」とあなたは答えるだろう。けれども、純然たる善人や悪人などありえない。どんな評価も、それが比較や対置によって生まれたものである以上は、相対的なものなのである。
それにしても、なぜあなたは隣人たちを苛立たせてはいないのだろうか。私の答えはあなたにとって意外なものであろう。あなたが隣人たちを苛立たせないのは、彼らにとってあなたなど眼中にないからである。「それそれ、それだよ。だからあいつらは良心をすっかりなくしてしまった悪人だ」とあなたは言うだろう。
まさしくそうした関係によって、あなたは分極化を引き起こしている。それはまるで電磁石のように、隣人たちからのあらゆる新たな攻撃を自分の方へと引き寄せることになる。一方、隣人たちにしてみれば、あなたは彼らの趣味の対象では無いのだから、攻撃する気などさらさら無いのである。彼らにとって、あなたを比較評価する、すなわち、あなたと依存関係に入ることなど思いもよらない。その意味で、彼らにとってあなたなど眼中にない…彼らはあなたに異議を与えておらず、自分たちの世界の層に入れてもいない。だから、彼らは苦しむこともない。
隣人たちが自分の心配事で忙しく、あなたに特別な注意を払わないでいる間は、あなたとの関係で分極化を引き起こしてはいない。しかし、彼らがあなたとの隣人関係に異議を与え、比較を始めるや否や、あなたが自分達とは違うことが直ちに明らかになる。そして、もしそのことを彼らが見過ごすことができず、憤慨すると、あなた自身が彼らを苛立たせることになる。あなたは良き隣人から悪しき隣人へと変わる。
その後、もっと信じられないような事が起こる。他人に迷惑をかけている自覚があなたには全く欠けているという事で、隣人たちは苛立ち始めるのである。あなたは、自分自身で何も認識しないままに、隣人たちを苛立たせていることになる。現在、隣人たちにとって、自分たちがあなたを苛立たせていることなどお思いもよらないとの全く同じことなのである。
その後、もっと信じられないような事が起こる。他人に迷惑をかけている自覚があなたには全く欠けているという事で、隣人たちは苛立ち始めるのである。あなたは、自分自身で何でも認識しないままに、隣人たちを苛立たせているとになる。現在、隣人たちにとって、自分たちがあなたを苛立たせていることなど思いもよらないのと全く同じことである。
近所づきあいでは、例えば、騒音は一番の問題である。あなたが気にすればするほど、騒音は一層しつこく付きまとってくる。けれでも、静寂や平穏は、あなたにとってだけで無く、あなたの隣人にとっても、最適な生活条件だ。それが確保それていれば、消費エネルギーは少なくて済む。静寂や平穏を乱すというのは常に異常なことであり、それはエネルギーの何もないところでは起こり得ない。いったいどこからそんなエネルギーを持ってくるのか。
隣人たちからの騒音でバランスを崩したあなたは、彼らを静かに憎む。あなたの腹立たしさこそが、エネルギーの源泉なのである。依存関係が生じ、分極化を引き起こす。「あんなに騒々しいやつらなんか大嫌いだ」という激しい感情が強力な磁石を作り出し、それがあらゆる新たないら立ちの基をあなたの方へと引き寄せる。
すぐ近所に新たな住人が引っ越して来て、騒々しい暮らしぶりを披露してくれる。また、古からの住人までもが、まるであなたをいらだたせようと狙い撃ちするかのように、音響機器を買い込んでくる始末である。
さらに、隣人の隣人たちも一定の貢献をしてくれるものと覚悟しておくべきである。そして、静寂や平穏を乱す者たちへのあなたの感情全体が一つにまとまると、騒音はますますひどくなっていく。
当然のことながら、「友好的な隣人関係」は騒音くらいで損なわれはしない。すべてはあなたが強い不快感を覚える傾向を持っているという事にある。隣人たちはあなたの周囲にゴミをまき散らし、異臭で空気を汚し、厳寒の壁に落書きをするかもしれない。だが、人類全体への憎悪であるかのような隣人たちへの憎悪は、より顕著な結果…漏水、または火災・・を引き寄せてしまうかもしれない。
ほかのあらゆるケースでも、ある種の不運続きの法則が同じように作用している。特別な意義を与えられた対象や特徴は、正反対の質を持つ対象や特徴を自分の方へと引き寄せるのである。
ご承知のように、異議は比較や対置されることで強まる。一つの極が存在するのであれば、別の極もあるはず、という事である。分極化は不快なことを引き寄せる磁石を繰り出す。憎悪を引き起こすあらゆる事が引き寄せられる。すべての苛立たしいことがしつこく付きまとう。もっとも望ましくない事が起こる。そして、そこには何の謎もない。それが法則性によるものだからである。
分極化はエネルギー分布を歪め、平衡力の嵐を巻き起こし、その結果、リアリティは歪曲した鏡面を前にしたように、正しくは映し出されなくなる。人は、そうした異常がバランスの崩れた結果でああることを理解せず、分極化を除去する代わりに、取り巻く世界と戦おうとする。
自分にも他社にもあるがままでいる事を認めてあげる、という事象選択の基本的な決まりを守るだけでよいのである。世界を解放して自由の身にし、どこへなりと好きな所へ行かせてあげればよいのだ。自分で固く握りしめているものを緩めよう。
あなたが自分の願望や要求に固執しようとすればするほど、あらゆる正反対のものを引き付ける磁石はますます強力になる。そして、文字通り、こんなことが起こる。あなたは世界の胸ぐらを取るが、世界法は解放されようとして抵抗するのである。
願望や要求を抑え込んだり固執したりするのも無益なことで、状況はより一層深刻化する。その代りに行わなければならないことは、事象選択の決まりに従い、状況に対する自分の接し方を意識して変えることである。
例えば、ある程度の時間でよいから、隣人たちのことを頭から追い出し、彼らを非難するするのをやめ、彼らが単に存在しないというふりをしみよう。「あいつらなど、知ったことか」と自分に向かっていってみよう。彼らを自分の世界の層から放り出すだけのことである。
隣人たちに吸い付いていた自分の人間関係の吸盤をはがすことができれば、すぐに分極化は消え去り、隣人たちがあなたを苛立たせることは徐々に減っていくだろう。それだけでは無い。もしあなたが依存関係をすっかり断ち切ることができたなら、説明のつかないことが起こるかもしれないのである。それは、忌々しかったはずの人々があなたの最高の友人になるという事である。

〇リアリティの操縦を会得するには、少なくともリアリティが形成される仕組みを理解しておく必要がある。だれもが一番直接的な方法によって自分の世界の層を築いている。しかしながら、多くの場合、それがどのようにして起こるのかを本人は知らないでいる。
人は「自分の欲するとおりに」なるよう努力する。そして、「顔を向けた方へ行く」「押せばたわむ」という簡単な原則を世界に当てはめようとする。しかし、なぜか世界はそれに従おうとはしない。それどころか、人が顔を向けた方向とは全く別の方向へと運ばれてしまうのである。
少し考えてみる必要がある。もしリアリティの振る舞いが期待にそぐわないのであれば、別のアプローチをとらなくてはならないだろうという事である。もしかしたら、リアリティは全く別の法則に従っているという事だろうか。だが、人は立ち止まって周りを見回そうとはしたくないもので、頑固に自分の考えを貫こうとし続ける。
そんな頑固な「創作活動」の結果、「自分の欲するとおりに」とは全く違う世界の層が出来上がっていく、というよりは、多くのことがまさしく、「自分の望まなかった通りに」なってくる。なんと不可解で、気まぐれで、強情なリアリティであろうか。
世界はまるで嫌がらせをしているかのように振る舞ってくれるものだと感じることが良くある。説明のつかない力によって不快なことが引き寄せられてくるような気がするのである。懸念は現実のものとなり、悪い予感は的中する。憎悪を感じたり避けたいと思うことが、執拗に私たちの後を付きまとう。なぜこんなことになるのだろうか。
事象選択シリーズの初めの部分で、「欲しないものを受け取る」ことになってしまう理由にについて、すでに述べた。そうあってほしくないという気持ちが激しい場合は特にそうである。心底から憎んだり不安がったりすると、魂の意図がそうしたものを惜しみなくもたらしてくれる。
魂と理性の一致した状態で生まれる思考エネルギーは、潜在的な可能性を実現する。言い換えるならば、もし魂の感覚が理性の思考と一致すると、思考エネルギーの放射パラメーターに合致する、亜空間にあるセクターが物質化される。
しかし、それは悪い予感が現実化される唯一の原因ではない。一般的には、問題の無い人生というのが常態なのである。バランスを乱すことなく、事象の流れに従って進むのであれば、全ては首尾よく円滑に運ぶ。自然はエネルギーを浪費したり、陰謀をたくらんだりすることを好まないのである。
ありがたくない状況や事象は、過剰ポテンシャルが周囲のエネルギー分布にゆがみをもたらした結果として起こるのだが、依存関係はそうした度合いをさらに強める。
過剰ポテンシャルは、何らかの質に過度に大きな意義が与えられると発生する。また、依存関係は、人々が互いに比較しあったり、対置したり、「もしお前がそうなら、俺はこうだ」というたぐいの条件を設定したりすると、人々の間で出来上がる。
歪曲された評価そのものがほかと関係なく存在しているときの過剰ポテンシャル自体は、それほど恐ろしくない。だが、ある対象についての評価がほかの対象と比較されて人為的に高められた途端に、分極化が生じ、それが平衡力の風を呼び起こすことになる。
平衡力は発生した分極化を除去しようとするが、多くの場合、その作用は、分極化を生じさせたものに抗うようにして向けられる。
ほかと関係ない過剰ポテンシャルの例を挙げてみよう。「私は君を愛する「私は自分を愛する」「私は君を憎む」「私は優れている」「君は劣っている」このような評価は、比較や対置に基づいていない限りは、自己完結している。
次に、依存関係によって生まれた過剰ポテンシャルの例を挙げてみよう。「君が私を愛するのなら、私は君を愛する」「私は君たちのだれよりも優れているから、自分を愛する」「君は劣っている。なぜなら、私の方がより優れているからだ」「私は優れている。なぜなら、君は劣っているからだ」「私は自分が気に入らない。なぜなら、私は誰よりも劣っているからだ」「私は君が嫌いだ。なぜなら、君は私のようではないからだ」
一つ目のグループと二つ目のグループの違いはとても大きい。比較に基づく評価は分極化を生み出す。平衡力は、分極化によって生み出される異質性を、正反対のものを衝突させるやり方によって除去する。磁石の両極が互いに引き合う事と全く同じである。
まさしくこの理由で、不快事はしつこく当てこすりのように人生に入り込んでくる。例えば、夫婦の中には、まるで互いに罰しあっているかのように相性の悪い二人がいるものである。様々な人間集団の中には、あなたを何かでいらだたせる人が必ず一人くらい入るものである。マーフィーの法則、あるいは事象選択流に呼ぶならば、「卑劣さの法則」というのは、同じ本質を持っている。一般に、近所づきあいでの問題は、人騒がせな隣人というのが必ずついて回ることである。

〇無為に過ごすとは、コントロールが効いていないことである。したがって、退屈はそれ自体としては存在せず、リアリティを制御したいという癒しがたい渇望が常にあるだけとなる。どんな形でもいいから、リアリティを自分の意思に従属させたいのである。その意味で、ゲームはコントロールされるリアリティを自分の意思に従属させたいのである。その意味で、ゲームはコントロールされるリアリティのシュミレーションとなる。
例えば、ある種類の鳥は松かさで磯ぶことを好む。この松かさこそが、独立して存在する制御不能のリアリティの一部なのである。だが、鳥が松かさを自分のゲームの属性にした途端、ある意味、リアリティそのものと言ってよいこの松かさが制御可能となる。
そり遊びも、ある種のコントロールである。リアリティがあなたを運んでくれるのだが、それもあなたの欲するままに、という事である。他のどんなゲームも「自分の欲するままに」というルールに多少なりとも従っている。ゲームのシナリオはあらかじめある程度決まっているので、状況が予見できる。もちろん、主導権を握ることがとても難しいゲームもあるにはある。とはいえ、すべてのゲームは、どのみち、出来事を自分の意思に従属させるという一点に行きつく。
エンターテインメントも、見る側にとっては、リアリティを制御するためのシュミレーション・ゲームである。音楽、書物、映画、ショーなどは、魂と理性のためのブランコである。緊張による消耗を余儀なくされる思考のマラソンはしばしば終わりにし、洗練されたメロディーや魅力的な筋書きの翼に乗って飛翔する。注目の的のヒーローたちに何が起ころうとも、全体が飼いならされ手なずけられたリアリティーであり、見ている者は心配せずに状況満喫できる。
リアリティーのゲームは眠っているときも終わらない。魂と理性は、微かなそよぎにもリアリティが表現豊かな付き従ってくれる夢見空間において喜びを見出す。
最後に想像力のゲームに触れて置こう。これはもう一つの受け入れ可能な方法である。人はただコントロールしたいものだから、ありもしないリアリティを考え出す。空想小説は尋常で無いことを扱う。それが非現実である間は、尋常でないことが許される。空想小説の世界は遠くにあるのである。ところが、現実のリアリティは近くにあるためにありふれてはいながら手の届かないところにある。なぜなら、リアリティに影響を与えるのは難しいからである。
一般に、こうしたすべてのゲームは、退屈しのぎのために考案されたわけではない。日々の現実は制御不能であるがゆえに退屈なのではなく、ありふれているのである。日々の現実を「自分の欲するままに」というルールに従わせるのは容易ではない。そのため人は、そんなリアリティから、全てがたやすく予見できるゲームに逃れようともする。
それでも、避けようのない現実からはやはり逃れ続けことができない。人間の人生は、状況や本人が置かれている社会的状態によって制約を受ける。リアリティの大部分は、本人の意思とは別に展開していく。「何々したい」という願望一つ一つに、「だめだ」という答えが返ってくる。「頂戴」には、「あげない」との返事が来る。こんな条件下でどんな手が打てるというのか。
通常、人は明快にふるまう。望むものを達成しようとして、「頂戴」の原則に従い、取り巻く世界に対して単刀直入に作用しようとする。直に接触することによる直接的作用は、コントロールの一つの在り方である。しかし、それは決して唯一のものではなく、最も効率的なやり方でもない。
私たちはほかのやり方で挑もう。手を後ろに組んで、世界の方から私たちの望みに応じてくれるようにしよう。次回からの文章には、その方法が述べてある。事象選択は直接的に作用することなしにリアリティを制御する技法なのである。ただし、ゲームのように遊び半分ではなく、まじめに行わなくてはならない。

〇人と周囲の世界との関係は、何らかの目新しいことがいやおう無しに平凡な日常性の中に流れ込んでくるようにして創られて行く。リアリティは、空に浮かんでいる雲のように、常に姿を変える。しかし、亜空間における物質的現実化の進展を感じ取れるほどには変化の速度は大きくない。一定の時間間隔を置いてインターバル撮影した雲の画像を再生すると、雲の動きや変化が明らかになるのと全く同じこととである。
束の間の閃光となって人生を活気づけてくれるみずみずしい変化でさえ、あっという間に色褪せてしまう。珍しいものはありふれたものとなり、祝祭の喜びは日常生活の中に溶けて消える。退屈だ…。
ところで、退屈が一体どうしたと言うのだ。納得いく答えを出すのは難しい。退屈といかにして戦うかを説明する方が簡単である。魂と理性は日常生活の単調さから逃れようとして、いつもと違う印象を与えてくれるありとあらゆるおもちゃを発明する。玩具は退屈を紛らわす良い薬なのである。それがゲームならもっと素晴らしい。それ遊びと並んで人気のあるのは、かくれんぼや鬼ごっこなどの陽気な遊びである。人間は大人になると、スポーツの試合からバーチャル・リアリティに至るまで、もっとずっと手の込んだ楽しみを考え出す。様々な種類の職業の中には、本質的にゲームと呼ぶしかないようなものさえたくさんある。
それにしても、なぜそうした職業がたくさんあるのだろうか? ゲームとみなすしかない仕事あげてみたら良い。もし人が何かを行っているのなら、いずれにせよその人はプレイしているのだという事に注目願いたい。子供たちが行っていることを、大人たちは好意的に「ごっこ」と呼ぶ。では大人達はというと、重要性を持ち込んで自分の仕事だと称しているものをプレイしているのである。
子供たちも大人たちも自分が行っていることに責任感を持って打ち込んでいる。子供に何をしているのかと尋ねると、その子は真顔で、ほとんど心配そうな表情を浮かべ、「〇〇ごっこだよ」と答える。大人を仕事から引き離そうとすると、憤慨しながら、「大事なことをやっている最中だから、手が離せない」という事だろう。
このように、ごっこやゲームとは真剣なものなのである。子供がごっこをしていないときには、何をやっているだろうか。普通は、いたずらをしてふざけているのである。では、大人たちはどうか。ぶらぶらする、無為に時を過ごす、という表現が用いられる。しかし、ぶらぶらしていると、すぐに退屈してうんざりする。そこで大人たちはまた何かゲームをやりたくなってくる。
ではなぜゲームは必要なのか。退屈からぬ出すためだけに必要なのか。あるいは、こう問い直した良いだろうか。何が退屈の原因なのかも、感動が足りないからだろうか、と。
この問いはありふれたものに思われるかもしれないが、実のところ、そんなにありふれた物ではない。ゲームへの熱情の根底には、この世界と同じくらい古くからの欲求が横たわっている。生き物にとって何が最も必要なものなのであろうか。生き残ること、自衛本能だろうか。固定観念によればそうなっているが、正しい答えではない。たぶん繁殖への欲求だろうか、それも違う。それでは正解は何だろうか。
もってとも重要な欲求とは、この自分の人生をある程度は自分の意のままにしたい、という事なのである。これこそがあらゆる生き物の行動の根底に横たわっている欠くことの出来ない原理である。自己保存や繁殖といった本能を含む残り全ては、この原理の結果として存在している。言い換えると、いかなる生き物であっても、その人生の目的と意味は、リアリティの操縦にある。という事になる。
だが、もし周囲の世界が自分と関係なく存在し、全く好き勝手に振る舞い、時には敵対的でさえあるならば、リアリティの操縦など不可能である。食べ物の一部を横取りしよう、居心地の良い場所から追い出そう、あるいは、あなた自信を取って食おうする輩は、いつ現れてもおかしくない。人生を楽しむ気にはなれず、人生は偶然に起きるものであって、それをどうしようもないと言うのでは、何とも虚しく、また恐ろしくさえある。そこで、取り巻く世界を自分でコントロールすることが切実な願いとなったり、また時には無意識の欲求となったりするのである。
今述べた論旨の展開は、多くの読者にとって意外なことに思われるかもしれない。「なぜそうなるの? だって私達にとって自営本能が一番大切であるのはいつだって明らかなはずなのに、ところが、もっと基礎的な何かの結果に過ぎないだなんて、…」
一見しただけでは、奇異に思われるだろう。生き物がたとえ何に従事ししていようと、そも取れを解明してみるならば、全ては取り巻く現実を自分のコントロール下に置こうとする試みに行きつくのである。これこそが、あらゆる生き物の活動の根本にあるすべての意図の基本的動機であり、原点なのである。

〇読者のあなたへ・・・・・日々の現実の中で人間は状況に支配されていて、出来事のプロセスにそれとわかる何らかの影響を与えることができません。人生は「偶然に起こる」ものであり、それは無意識に見る夢の中の出来事にも似ています。出来事の方は、あなたが「欲する」「欲しない」にはお構いなく、これまで通りに進んで行きます。こうした宿命的ともいえる不可避性はどうすることもできないように思われます。ところが、実は、そんな状態から抜け出すことのできる全く意外な方法があるのです。何しろ人は自分が鏡の幻想にとらわれているなどとは思ってもみないわけですから。
リアリティは二つの形態を持っています。手で触ることのできる物的形態と、近くの領域外にあるけれども、劣らぬ客観性を持っている形而上学的形態です。ある意味、世界は果てしのない二元凶と言えます。一方には物質的宇宙があり、他方うには形而上学的な亜空間・・・ありとあらゆる全事象のシナリオが保管されている情報構造・・・・が広がっているわけです。事象の数は、座標補平面状に置くことのできる点の位置が無限であるように、無限に存在します。そこには、過去、現在、未来の全てが記録されており、夢、千里眼、直感による知、閃きなどもそこから私たちのところにやってくるのです。
鏡による魔法にかかった人は、鏡に映し出されれる光景が本当のリアリティだと思い込みます。外の世界が独立した物として存在し、それを操ることなどもってのほかだと思う幻想は、この鏡の効果から生じます。その結果、人生は、あなたがルールを決めるのではないゲームのようなってしまいます。もちろん、そこで起きていることに影響を与えようとしてあなたが何かを試みるのは許されています。しかし、あなたは大事なことを認識していません。サイコロゲームなどで得点計算用に小玉を使うことがありますが、あなたはその小玉の役を演じていて、サイコロを振る役に変わる可能性を奪われているという事です。ところが、幻影を振り払い、周囲を見渡しさえすれば、たちどころに信じられないことが起こり始めるのです。
あなたはまるで出来事の流れから逃れ、巨大な万華鏡の中心部に出てきたかのように思う事でしょう。万華鏡は、リアリティの様々な面をキラキラと反射させながら、あなたの周囲をゆっくり回っています。あなたはこのリアリティの一部であり、同時に、別個に独立した存在なのです。ところで、夢の中で目を覚ましたあなたが、夢は自分に依存しているのであって、自分が夢に依存しているのでは無いことに気が付いたときも、これと全く同じように自分の「独自性」を認識します。本ブログでは、いかにして鏡による範囲の幻想から脱却し、どうやって覚醒状態のまま見ている自分の鏡の夢の中で目を覚ますか、について述べていきます。
人間の思考エネルギーは、一定の条件下で、亜空間にある任意のセクターを現実化させる能力を持ちます。そのような上にあることを、事象選択では、魂と理性の一致と呼んでおり、謎めいた力・・・魂の意図・・・が生まれます。事象選択を実際に試してみた人々は、彼らの思考が説明のつかない方法で現実のものとなり、リアリティが文字通り見る間に姿を変えていったと、ひどく驚いた面持ちで語ってくれます。
例えば、周囲の人々が、どういうわけかずっと親しげにあなたと接してくれるようになったり、これまでまるで開く見込みのなかった扉が開いたりするのです。その際、あなたは非常に興味深い現象を目にするかもしれません。それは「舞台装置のニュアンス」と「リアリティにおける周囲の人々」の変化であり、ちょうど水面の波紋に似ています。あなたの世界の層は失われてしまったみずみずしさを回復します。アイスクリームは子供時代のあの味を取り戻し、希望は青春時代の歓喜を再び帯びてきます。しかし、大事なのは、内なる自由・・・自分の信条に従って生きる・・・・をはっきりと感じ取ることなのです。
それがどんなに不思議に思われても、そこに神秘などというものはなく、全てが現実に起きていることなのです。ですから、読んだことを実践して確かめることで、とてつもない驚きや喜びから空へと落下してしまう事の無いよう、地面にしっかり捕まっていてください。次回よりいよいよ本題に入ります。

〇本章を締めくくるにあたり、古代の神官たちの意図にコンタクトしてみようと思う。古代の神官たちとは、最後の文明が崩壊するまでの間、私達のこの現実の世界に実在していた秘められた地の守護者たちの事を意味する。そうした知識の遺物には、部分的に抜け落ちてはいるにせよ、密教の奥義やその実践という形で私たちの時代にまで達している。
古代の神官たちの何人かは、別の現実へと立ち去ったが、現在、私たち人類に自分たちの知識を陣地の及ばない方法によって伝えようとしている。という未確認情報が実在する。
私自身も最近までこうした説には、控えめに言っても、懐疑的な姿勢を取っていた。しかし、この数十年間で地球上の互いに交流の無い様々な土地で暮らす人々が、同じ秘められた地の似通った解釈を明らかにするというケースが頻繁に起こるようになってきた。そして、ついに私の身の上にもそうした知識と否応なく向き合わざるを得ない事態が起こった。そのことについてはすでに述べたが、その知識はいかなる方法であっても私の頭の中からは生まれるはずのないものだった。
この章の最初の方で監視員の老人との出会いについて述べたが、あの老人が少なくとも私たちの住むこの現実の世界に実在すると自信をもって断言することは、私にはできない。しかし、それでも彼が存在すると考える根拠は私には十分すぎるほどある。
私は夢の中で多くの様々な人物たちにであったが、そのような人々は私のきわめて保守的な世界観にいささかの影響も与えなかった。だが監視員の老人との出会いは世界についての私の間イメージだけでなくも私の人生全体をひっくり返してくれた。
最初の出会い以降、監視員の老人はそれっきり現れなかった。しかし、目には見えなくても老人の存在を感じることが時々あった。とにかく私は事象選択という考え方が自分で考え出した知識であると思ったことは一度もなく今でもそう思っている。
私は、亜空間にあるきまったエリアに度登庁している中継局のようなものにすぎない。事象選択の知識を形にして一つの体系にまとめる作業は、大変な苦労を伴うものであったことは間違いない。知ることと、それについて語る事とは、全く別物だからである。しかし、それでも私は事象選択をまとめたことを自分の手柄とは感じていない。
事象選択は夢を現実に変えるための十分に具体的な方法を提示している。しかし、それだけでは物足りないと思う人もいることだろう。もしネクタイの結び方のように簡単なやり方を探そうというのであれば、そのために無駄に一生を費やすことになりかねないなぜなら運命を操ることは「ワン、ツー、スリー」というような簡単な決まりには収まりきらないからである。事象選択を何らかのやり方を執り行う単なる技法にしてしまってはならない。ポイントは、技法にあるのではなく、内なる自由の認識と自分が自分の世界の層のある度であるという感覚にある。そのような認識と感覚が到来したら、技法など使わなくとも、全ては自ずと転がり始めるだろう。
しかし、そのような認識と感覚を得るには、事象選択を自分自身の生き方にしなければならない。他の道はない。そして、それは少しも厄介なものではなく、むしろ鏡の前でふざけるような面白おかしいものなのである。
世界は、世界に対するあなたの接し方を映し出す鏡である。本物の鏡との違いは、反射が少し遅れてやって来るという事だけである。自分の接し方を、その後に続く鏡からの反射と比べながら、単純だが認識しがたい一つの心理・・・自分の意図によって自分の世界の層を形成する、というものにあなたは自分の理性を馴染ませていく。
もう一つ単純だから聞きなれない心理に慣れておく必要がある。それは、目的達成への道と手段について心配すべきではない、というものである。この心理の根底には、意図の方向は事象の流れのベクトルを決める、という基本法則が横たわっている。
この方向を目指しつつ、事象の流れの邪魔をしない、という事だけが求められている。目的達成への道と手段はおのずと見つかるので、目的がどのようにして現実化されるかについて、あなたは知ることが出来ず、また、知ろうとするべきでもない。頭になかに目的とするスライドを維持し、調整の法則を守っていれば、たとえ何が起ころうとも、事象の流れがあなたを目的へと運んで行ってくれるだろう。法則とはそういうものである。
このブログを一読後、直ちに事象選択の法則を認識するようにはならないだろう。隅々まで知り尽くした知識は、実戦の結果として、初めて認識へと変わる。手っ取り早く成果を期待してはいけない。もしあなたが意図するならば、遅かれ早かれ、全てはうまくいく。 古代の神官たちの意図を執行し、事象選択の知識をあなたに完全に伝えるという意味において、このブログは十分に成功したとは言えないのかもしれない。しかし、伝える仕事を私は今後も続けるつもりであり、次の章も書くつもりである。
次の章では、驚くほど素晴らしい鏡の世界の、きらめく境界が開かれれる。それによって私たちの驚くほど素晴らしい鏡の世界はひときわ輝きを増すことであろう。
さて、事象選択の世界への魔法のような探訪ツアーも終わりに近ずいた。もしあなたが自分の好奇心を満足させただけならば、事象選択はあなたにとって探訪ツアー以上のものとはならず、そこへ立ち戻る価値のないものとなる。しかし、もしこのブログの何かがあなたの琴線に触れたのであれば、魔法の旅は始まったばかりという事である。
あなたがすべてを信じようと信じまいと、私にとってはどちらでも構わない。夢の中で監視員の老人と出会った後でさえ、私自身も信じてはいなかったのだから、私は、コマのように、自分の周りを信望者からなる親衛隊で固めて、皆さんに何かを信じ込ませようとするつもりはない。
事象選択の法則を実践してみることで、あなたは法則が働いていることを自分で納得するだけでなく、だれにも思いもよらないような新たな驚くべきことをたくさん発見することだろう。そうなったら、私宛に書き送っていただければ、喜びと驚きを共に分かち合いたいと思う。
私達は皆、無限に広がる亜空間を旅する一人ぼっちの修行者であるといってよい。事象選択は、偽りの制約や固定観念の暗闇をさ迷い歩いて疲れ果てた修行者のために、希望の灯を点してくれ。選択の自由という自己の権利を行使すれば、あなたは心のさざめきを耳にし、リンゴが空へと落下するのを目にするだろう。幸いあれ、一人ぼっちの修行者諸君。

〇UFOの動き方…瞬時の加速、静止、角度九十度での突然の方向転換などは、科学者たちを当惑させている。慣性を考慮に入れると、このような運動は不可能であり、それに加えて、UFOは私たちの飛行機やロケットのようには飛行していないからである。どうやら私たちは物体そのものの運動を見ているのではなく、亜空間における物体の現実化を見ていることになりそうである。
魂と理性に関する問題には非常に多くの不明点が存在する。唯物論的化学は世界を力学的システムとして描き出す。還元すると、物質が第一義であり、意識を決めるのである。科学の最近の業績に照らせば、今述べた力学モデルの足場は揺らぐ一方である。そうはいっても、人間は自然の基礎的法則のそもそもの本質に到達可能なのだななどという誤った考えを持っているのであれば、モデルの取り換えはこの先も幾度となく繰り返されることだろう。本質に到達するという事は、鶏が養鶏場の起源、構造、発展に関する自分なりのコンセプトを作り上げてしまうようなものである。知的発達を遂げた人類は一段高いところに立っているが、果てしの無い世界の複雑さによって、それより先へは進むことができないでいる。人類には全てを知って理解することが許されてはいないのである。
心理の最終期間を自任する科学のコマや宗教のコマは、心理の正しい会社によってというよりは、むしろあらゆる異端者を迫害する事によって支配権を獲得してきた。休むことなく続く反目は、決して科学のコマと宗教のコマの間だけで無く、これらコマ内部の学派や宗派間でも存在する。戦いは終わらない。しかし、こうした戦いは真理を求めてではなく、信奉者たちを求めて続けられる。
脳には全ての情報を保管しておく能力がないことの理由付けを行っていたときに、人間はコンピューターのビットという形での情報再現モデルを引き合いに出した。しかし、このモデルは脳のニューロンには全く適用できないのかもしれない。実際のところ、情報がどのように保管されるのかは、だれも分からないのである。テレビやラジオの存在しない時代の学者がテレビをどのように研究するか、想像していただきたい。彼はボタンを押したり、いろいろな部品類を引っ張り出したりして、画面上にどのような変化が現れるかを観察することだろう。テレビの持つ昨日な原理を知らないまま、「科学的な」監察結果に基づいて、その学者はさまざまな結論にたどり着くのではないだろうか。そうした結論の中で主なものは一つ、それは疑いようのない事実に思われるはずである。すなわち、テレビ自体がすべての番組を合成しているというものである。番組はテレビのトランジスターやマイクロ回路で生まれるというのである。
唯物論的化学の信奉者たちはおよそこんな具合に人間の脳を研究する。実際、脳の一部分を損傷した場合、知覚や精神心理への影響が予測できる。人間の知性の働きの原理は、依然として謎に包まれたままである。それにもかかわらず、唯物論的科学の信奉者たちは、物質が意識を決定するのであって、ほかの説はあり得ない、という結論を下している。唯物論的化学の保守的な信望者たちは、自らを示して誇らしげに学者であと名乗り、自分たちは、素人の勝手な思い付きなどではなく、事実データに立脚した本物の科学に携わっているのだと存在に宣言する。彼らの理論の枠組みにおさまらないものはすべて非科学的と宣告され、ただ排除されるだけではなく、迫害まで被る。だが、幸いなことに、このような学者は確実にな減ってきている。
あなたは唯物論的化学に基づく力学モデルに反論も同意もできる。ただし、それはモデルにすぎないことを忘れてはならない。すべてのことが、本当はどのようにして起こっているのかについては、だれも知らないのである。理性は理論的な説明の枠組みに収まらないものを認めようとしないようにできている。理性は、知見の合理性に納得しないうちは、それを自分の世界の世界観のパターンに取り入れようとしない。言うまでもなく、事象選択は機能するのだが、それを利用するには、何らかの説明が理性のために必要となってくる。
事象モデルは地に足がついた感触を私たちに与えてくれるかもしれない。だが、それ以上のものではない。事象モデルは概略図にすぎない。事象モデルをもっと洗練されたほかのモデルに変身させることは可能だろう。例えば本ブログシリーズの冒頭で理解を容易にしてくれた。所謂人生ラインが存在するという家庭は投げ捨ててもよいだろう。そうなると、亜空間は離接した不連続なものから連続な物へと変わる。森の中の小道はもう存在せず、森だけが存在することになる。しかしながら、そうすることで事象選択の本質が変化するような事はない。モデルがどのようなものであっても、それはリアリティをある程度まで適切に反映する。リアリティを認識する方法はリアリティの出現形態と同様に、無限にあるのである。
事象選択の法則には、ほかの似たような教義の原理と相通ずるものがある事に、おそそらくあなたは気が付かれた事だろう。驚くことは何もない。あらゆる教義は自分の世界の中で相対的に閉じており、自己完結したモデルとなっている。けれども、私たちが皆、質的に大体同じ世界観を持った人間である以上、モデルも似通った部分を帯びるのかもしれない。その中でどのモデルが最も適切に世界を表ししているのかと問うのは無益なことなのである。任意のモデルからいかなる実践的な成果を引き出すことができるかという一点だけに意味がある。
数学を例に挙げよう。数学の様々に分野は、物質的現実化を表す個々のモデルである。同じ物理問題を、様々な数学的手法を用いることで、いくつかのやり方で解決可能である。解析幾何学と微分学とで、どちらがより優れているかという議論には意味がない。より気に入った方を選ぶだけのことである。あなたも自分で選択していただきたい。

〇事象モデルにおいても矛盾を見つけることは可能であるが、そうはいってもこのモデルは多くのことを説明してくれる。事象モデルは、時間と空間について知られているいくつかのパラドックスを取り除くとまではいかなくても、少なくとも「和らげ」てはくれる。これまで、私達は、時間の同期化を伴う別の人生ラインへの移動を考察してきた。人生ライン同士は常に時間実に対して平行な関係にあった。言い換えると、いつも乗り換えは時間のある一点から全く同じ時間の一点へと行われてきた。
ここで、時間軸に対して平行では無い二本の人生ラインをイメージしてみよう。これらの人生ライン上の同一点を時間軸に投影すると、異なった場所に位置することになる。これらの人生ライン間の乗り換えは、傾きの方向次第で、過去又は未来への移動を意味することになる。傾きの総体的な勾配が移動に要する時間を決める。
同様に、もし二本の人生ラインが、空間の選ばれた軸に対して平行では無い場合は、人生ライン間の乗り換えは空間における瞬間的な移動を意味する。人生ラインの傾きの勾配と方向は、移動の距離と方向を決める。いま述べたことはかなり乱暴な説明であるが、私たちには十分に受け入れ可能なものである。
細部にこだわる読者はこんな反論をされるかもしれない。「ところで、時間旅行の際の因果律のねじれというパラドックスはどうすればよいのか」仮に私が自分の生まれる以前の過去へ移動して、そこで・・・血も涙もなく自分の両親を殺害したとしよう。その場合、私はどうやってこの世に誕生したことになるのだろうか。事象モデルの枠内におけるこうしたパラドックスは、単にそう見えるに過ぎない。私が移動した後の人生ラインでは、私は本当に誕生することが不可能となる。だが、それがどうしたというのか。なぜなら私は他の人生ライン上で誕生したのだから。
人生ライン、すなわち事象は無限に存在することを思い出していただきたい。その中には、私が存在するものもあれば、存在しないものもあ。もっとも残忍なパラドックスの愛好家は、自分の子供時代に移動し、そこで自分を待ち受けて、その無垢の生き物を抹殺する事すらやりかねない。しかし、この場合、彼は自分で自分に出会うのではなく、自分の別の事象の現実化と出会うのである。このような事象はありとあらゆる別の事象と一緒に存在している。
自際に過去を変えることはできない。それはすでに起こってしまったのである。しかし、過去が起こったのは、人生ライン上の通過した部分の現実化が行われたからだけでなく、通過した出来事の事象が既に存在していたからである。その意味では未来について、未来はすでに起こった、という事ができる。だから、ある人生ラインから別の人生ラインへ乗り換えても、因果律は破られない。
映画フィルムを手にとって、一コマを削除することはできるが、それによって後に続くコマが影響を受ける事はない。時間は停止している。ダイナミックに変化するのは、人生ライン上の事象の現実化だけなのである。真っ暗な森の中で懐中電灯の光で照らし出された点が移動することと全く同じである。
実際に不可能なのは何かといえば、それは同一の視線性ライン上で過去や未来へと移動することなのである。まさにこの場合にだけパラドックスが生じる。腺理学を持つ人々の予言が非常に近いところを言い当てるが、間違う事もよくあるのは、この理由によるものではないだろうか。千里眼を持つ人々は何らかの方法によって未来の段本をスキャンする能力を持っている。もし数客された団本がわかの人生ライン上にあるとすれば、預言の誤差は容易に説明がつく。事象モデルによれば、ある人生ランともう一つの人生ラインとの距離が揚場あくほど、シナリオ上の乖離も大きくなのである。

〇しかし、私がシンクロニシティと言う現象と冷静に接することに慣れているからというわけではない。反対に、自分の思索にすっかりのめりこんでいた私には、この出来事が全くの意味も与えなかったからである。私はほとんど無意識に甲虫を喚起用の小窓から外へ逃がしてやったので、甲虫は出口を探さなくて済んだ。
そして、しばらくしてから、「ああ、私は何という愚か者だったのだろう。と思い、全身に旋律が走ったのだった。
何度魂の意図が私にその到来を告げてくれたことか。そして、驚きのあまり、いったい何度私が目を見開いたことか。サインを示そうとして全力で私を揺さぶっているときに、私は覚醒状態で深い眠りを貪っていたのだから、私が迷信深い人間だったら、それを天からの兆しとして考えただろうに、こんな風にいつも人々は目を開けたまま眠っており、魂の意図がはっきりと表れていることには気づかないものなのである。
似たような例は枚挙にいとまがない。事象選択の観点からは、この場合の状況は十分理解可能である。それぞれの事例で視覚化が魂の意図の突風を引き起こすという事である。
だが、ユングは、いったい何が偶然の一致の原因となったのかについて、最終的な結論を急いで出そうとはしていない。思考そのものが出来事を形作るのか、それとも出来事を無意識に予感した結果として思考が生じるのか、どちらなのだろうか。
ユングは一方では「思考は一連の偶然の出来事の基を創り出した」と言い、他方では、「一連の定められた出来事が迫りくる予感が生じる、との印象から逃れることは時として難しい」とも言っている。
「強磁性・非因果的連関の原理」という題名の論文の中で、ユングはシンクロニシティを「何らかの心的状態と、その時点での主観的状況を伴う本質的ににパラレルな外部世界の一つあるいはいくつかの出来事の同時到来」と定義づけている。
ユングは長い間この論文の発表をする決心がつかなかった。なぜならシンクロニシティという現象は、従来の科学的思考の枠に収まるものではなかったからである。
ユングは不明瞭ではあるが、伝統的な科学の尺度からすれば大変に勇敢な結論を下した。「強磁性と言う現象は、互いに因果関係のない種類の違うプロセス同士が同時期に意味上の等価地を持っていれる可能性を証明している。言い換えると、観察者によって知覚された内容は同時に何らかの外部の出来事として認識されるが、因果関係は何もない、という事を証明している。このことから、プシケ(霊魂の意味)は空間の外にあるか、あるいは空間が生まれながらにプシケと結びついている、という事が導かれる」
ここでは因果律への抵触が何もない事は明らかである。原因は常に存在するものの、ただ思考と取り巻く世界との相互作用のメカニズムが不明瞭で、目下のところは理解できない形で表れているだけなのである。
同時期に起こった偶然の一致における原因とはいったい何だろうか。出来事は思考によって形作られるのか、あるいは、出来事への予感として思考が引き起こされるのか。
事象選択の観点からいえば、どちらも生じる。魂は情報フィールドにあるデータへアクセスし、その後、そのデータを理性が解釈することが可能となる。理性の方はというと、思考を形成し、魂と理性が一致した際に、その思考は物質的に現実化され得る。このような考え方は事象選択モデルの基本となってもいる。
しかし、もう一度強調しておく事にしよう。事象モデルは世界の正確な説明を主張するものではなく、法則を理解するための出発点か土台にすぎないのである。私たちはこの世界についてまだほんの少ししか知らない。しかし、だからと言って、そのことが事象選択の法則を利用する際の妨げにはならない。とにかく、事象選択の法則が働いていることについては、あなた自身で確かめることができるのである。
思考エネルギーが周囲の世界の影響に関係するすべての現象は、量子物理学分野の研究で有名なジョン・ベルの定理によって裏付けることができる。この定理は次のようなものである。
「孤立したシステムは存在しない。宇宙の各粒子はあらゆるそのほかの粒子と「瞬間的な」情報交換を行っている。全システムは、たとえもしその一部が途方もない距離で離れていても、一つのシステムとして機能する」
この定理は理論的に証明されており、すでに検証もなされている。実をいうと、「瞬間的な情報交換」は、エネルギーが光よりも早く伝わることはないと主張する特殊相対性理論と矛盾することになる。それにも関わらす、この定理は存在する意味を失わない=これは物理学では有名な話で、量子論は相対性理論と矛盾するとしてアインシュタインが疑問を投げかけたが、のちに量子論は正しいとされたもの、非常に遠くに離れたにこの電子が絡み合って現象しているモデルで、一方の電子が右回りと観察された途端にもう一方の電子は左になるが、それは瞬時に一方の電子からもう一方の電子に情報が伝達されたことになり、高速を超える伝達はあり得ないとする相対性理論と矛盾するとアインシュタインは考えた。しかし、後になってこのような現象は実際にあることが検証された。
魂の意図は相対性理論には支配されない事になりそうである。そもそも量子物理学は証明不能な公理に立脚している。このことは、量子物理学も一定のモデルであることを意味する。しかも、そこには理解できない矛盾は一つではなく、数多くあるのである。このことは、モデルに大きな意味を与えてはならないことを再確認するものである。
また、ユングの考え方は、近代物理学の創始者であるウォルフガング・パウリやアルベルト・アインシュタインによって指示されたことを、ここで指摘しておなければならない。とはいえ、情報伝達プロセスはエネルギーと全く関係がないことは、おそらくその通りであろう。だからこそ瞬間的な情報伝達が可能となる。

〇どのようなモデルが事象選択の基礎になるにしても、事象選択の法則は有効である。言い換えると、事象選択の全ての法則はモデルに対して不変である。という事である。主な法則とは、私たちの思考放射が私たちを取り巻く現実の世界に対して、間接にだけでなく、直接的にも影響を及ぼすという事である。これまで科学界はこうした事実を公式に認めることを拒んできた。なぜなら実験で確かめようとしても、出てくる結果が一様ではないからである。しかし、私達にとっては自分たちの問題を今この時に解決する必要に迫られており、学者たちが重い口を開くまで待ってはいられないのである。
この世界が因果律に支配されていて、あらゆる結果にはその原因があるという事に、私たちは一人残らず慣れきっている。原因というのは何らかの行動のことと理解されている。しかし、人間の思考そのものを、その後に続く行動への指針として眺めているだけであって、取り巻く世界に影響を及ぼすことのできる物質的放射としてみなしてはいないというところに問題が潜んでいる。それでも、毅然たる事実は動かせない。
魂の意図の働きによる説明のつかない現象を、化学は完全には無視する事ができない。著名なスイスの心理学者・精神医学者であるカール・ユングは、思考と物質的現実との間の相互作用に関する現象を研究した。彼は、明らかな原因によって引き起こされたのではない、理解しがたい偶然の一致として現れた数百もの不思議な事例を分析した。ユングはそうした偶然の一致のことをシンクロニシティという用語で定義した。「共時性について」と題された講義の中で、彼は自分が体験したある典型的事例を披露した。
「1949年4月1日の朝、私はノートに半人半漁の形などを書き込みました。朝食には魚料理が出てきました。ある人との会話の中で、だれかを担いで「4月の魚」ではエイプリル・フールをこう呼ぶことがある。という習慣を思い出しました。昼間、私の患者であった女性が数か月ぶりに訪ねてきて、数点の印象的な魚の絵をもせてくれました。夕方、私は一反のゴブラン織りを見せてもらいました。そこには海にすむ怪物や魚が織り込まれていました。翌朝、私は以前治療したことのある女性を迎えに行きました。彼女の診察をするのは十年ぶりのことでした。その日の晩、彼女は魚の夢を見たそうです。数か月後、私はその事例を、執筆中の自分の論文の一つに書き加えることに決め、ちょうど記述を終えたところで、家を出て湖の方へ向かい、その日の朝に幾度か通った場所を目指しました。そこは防波堤ですが、私はそこで体長三十センチほどの魚が横たわっているのを見つけました。周りには誰もいなかったので、その魚がどうしてそこにあるのか見当もつきませんでした」
ユングの講義からの抜粋をもう一つ上げないわけにはいかない。その理由は後で理解していただけると思う。彼は次のように書いている。「ジョセフ・バンクス・ラインによって得られた反芻不可能な結果ほどは衝撃的で並外れたものではありませんが、非常にたくさんのそうした事実について、私は皆さんにお話しする事が出来ます。そして、ほとんど全ての事例について、それぞれの説明が必要であることを、皆さんはすぐに理解されることでしょう。しかし、自然科学の観点から唯一可能な原因の説明は、因果関係の絶対的条件である時間と空間に心的相対化が生じているため、破綻していることが判明したのでした。
この事例の主人公である若い女性は患者であり、お互いの努力にもかかわらず、心理学的に閉じていて、接近する事ができませんでした。問題は、彼女自身が自分のことをあらゆる問題に最も精通していると考えている事にありました。彼女の輝かしい教養は、そう考えるに足る理想手的な武装をしていることになります。それはつまり、現実を一分の気も無く「幾何学的に」思考する方法による鋭く磨き上げられたデカルト哲学の合理主義なのです。彼女の合理主義をより人間的な分別によって「希釈する」いくつかの試みを行った末に、予期せぬ非合理的な何らかの出来事、彼女が自らを封じ込めている知性の蒸留機ともいうべきものを粉々に破壊してくれるような何らかの出来事が起こってくれるよう期待せざるを得なくなりました。
そんなある日、私が窓を背にして彼女と向かい合って座り、彼女の口から吐き出される雄弁な言葉の流れに耳を傾けていた時のことでした。前夜、彼女は、だれかから効果の宝石細工の光厳のスカラベを手渡されると言う非常に印象的な夢を見たことを語っていました。彼女がその夢について話し終わる前に、私は窓をコツコツと叩くような小さな物音を耳にしました。振り返ってみると、それは大きな昆虫が外から暗い部屋の中に入ろうとして、ガラスにぶつかっている音でした。私はそのことがとても不思議に思われました。そこで窓を開け、部屋へ入ろうとする昆虫を捕まえました。それはスカラベのような形をした甲虫か、よく見かけるバラのコガネムシの類で、黄緑色をしており、彼女の夢に出てきたと言う黄金のスカラベの色を彷彿とさせました。私は「ほら、あなたが今話しているスカラベ」と言って、彼女による知的抵抗という障害が取り除かれました。これによって治療は満足すべき成果をもたらしました」
私がユングの甲虫についての思索に耽り、この例をブログに取り上げようかどうか考えて、半時が過ぎたころ、私の窓にも感銘深い姿をした放浪者が飛び込んできた。それは今ご紹介したばかりの抜粋に記されているような甲虫であった。信じるかどうかはあなたの自由である。そんな出来事は極めてまれにしか起こらないにもかかわらず、私は少しも驚かなかったとを付け加えておきたい。
