〇発生した争いのエネルギーを増大させるためなら、コマは自分の法則に従って、何でもやってのける。争いは絶え間なく続き、コマはそこからエネルギーを増大させるためなら、コマは自分の法則に従って、何でもやってのける。争いは絶え間なく続き、コマはそこからエネルギーをくみ取る。ところで、通常、こうした争いは、二つ以上の対抗勢力の間で起こる。戦争、革命、競争、対立など、例を挙げればきりがない。
 しかしながら、敵対勢力への攻撃と並んで、いずれのコマにもみられるはっきりした特徴と言えるのが、コマそのものの存在基盤となる構造を維持・強化しようとする強い傾向である。
 エネルギー情報体は、動植物界のいずれかの生き物によって築かれる整然とした構造の出現とともに形成され発達する。コマの存在は、ひとえに形成された構造の安定性次第である。だから、コマは、自分の構造の安定性を維持・強化するためなら、何でもするのである。このことは、コマの二番目の法則である。
 その証拠にもっとも単純な例である稚魚の群れを考察してみよう。稚魚の群れは一つの生き物であるかのように振る舞う。群れの一角を脅してみると、すべての稚魚たちがいっさいに向きを変えて泳ぎ去る。このシンクロした動きは、いったいどこからくるのだろうか。
 もしそれぞれの稚魚が隣にいる稚魚の動きに反応しているとすれば、興奮が順繰りに伝わっていくことになる。しかし、どんな速度でシグナルが伝わろうとも、どうしても伝達に遅れが生じるはずである。ところが、伝達に遅れが生じない天にこそ謎がある。魚群は非常に大きな規模に達する場合もあるが、群全体の動き方には変化がなく、小さな向けの場合と同様にシンクロした動きがみられる。
 鳥の群れも同じような振る舞いをする。速いスピードで飛ぶ小型の鳥の大群を目にすることがあったら、一糸乱れずあちらこちらへと方向を変え飛び回る様子に気が付くことと思う。
 ひょっとすると、そこには別のメカニズム、例えば、テレパシーのようなものが作用しているのだろうか。しかし、その可能性はどうやらありそうも無い。もしも魚が群れずに散らばって泳いでいる水中で、ある魚を脅しても、その魚から一メートルほど離れたところにいる別の魚は平然としていることだろう、つまり、テレパシーによる交信は存在しないという事になる。シグナルが伝わっているらしいのは、群れという本質的に最も単純な構造をしているときに限られる。あるいは、シグナルというものは全く伝わっていないのかもしれない。
 もっと高いレベルの構造であるアリ塚を例にとってみよう。コロニーがどのようにして運営されているかについて、化学は納得のいく答えを出していない。何しろ、驚いたことに、アリ塚には明確な義務分担があるにもかかわらず、階層組織は存在していないのである。いったいなぜあらゆる昆虫たちは、集中制御された組織に見られるように、生前と行動するのだろうか。
 アリたちは、強い匂いを発するフェロモンを分泌することによって、相互に更新している道に匂いが残っているため、巣や餌への行き方が分かる。しかし、情報はどのようにしてコロニーの全員に同時に伝わるのだろうか? アリたちが相互に情報交換できる行動に発達した手段などあろうはずがない。もし高度な情報伝達手段があるのなら、においなどという原始的なデータの組み合わせを用いるわけはないからである。
 では、アリ一匹一匹を組織化されたコロニーにまとめ上げているのは、いったい何なんのか。それがコマなのである。構造が組織化され発達するとともに、エネルギー情報体が形成され、この構造運営と安定化の役割を担う。この行動の構成員は直接結びついていて、フィードバックも起こる。コマは自分の構成員からのエネルギーによって生存し、構成員全体の活動を同期化しつつ、組織化された集団にまとめ上げる。
 はたから見ると、行動は何らかの方法によって自己組織化しているように思われるが、そうではない。自己組織化というのは、無生物界に限った話であり、そこでの制御要素となるのは物理法則なのである。例えば、液体の分子が結晶化の過程で格子状に並ぶが、その構造は分子の形態や相互作用の力よって定まるという具合である。
 生物体を構造にまとめるには、それぞれの個体を結集させる外部要因が必要となる。この要因となるのがコマである。コマがどのようにしてそれを行うかは、今のところ不明である。おそらくエネルギー情報体と生物体との間に一定のエネルギー情報のやり取りがあるのだろう。
 生物体を取りまとめているどのような構造にも、管理する上部構造としてのコマが存在する。しかしながら、コマは意識された意図というものを持たない以上、構造を合理的に運営しているというという事はできない。エネルギー情報体の意識とは、アルゴリズムに似たようなものである。コマは、理性的存在のように考えたことを実行するのではなく、プログラムが自動装置の仕事を管理するようにして、構造を指揮する。
 構造の構成員がどれほど「自動的に」行動するかは、各構成員の意識レベル次第である。生物体が原始的であればあるほど、動機や行動に関する理解も矮小化する。もし生物体が孤立して生息しているのなら、その行動は内部プログラム・・・・本能の組み合わせ・・・・・によって決まる。しかし、生物体が集団で生息している場合は、外部プログラム・・・・コマ・・・・とつながり、コマは共同体の行動を管理し始める。

〇みんなは舞台がリアリティだと思う。しかし、本当は、隊列に加わるべきと思うのは幻想にすぎない。真のリアリティとは、隊列から離れて自分の道を行く事が可能だという点にある。けれども、それを認識するのはそれほど容易なことではない。人は自分の幻想と暮らすことに慣れているのであり、どこがリアリティでどこが幻想かを本人が自覚するためには、身体を強くゆさぶってもらうか、またはカルロス・カスタネダのように、「集合点を移動させる」ことが必要となる。 
 例えば、障害者は、選択肢を持たない状況に置かれている。彼らは、一生涯自分の障害に苦しみ悩むか、あるいはコマの決まりを無視するしかない。もし自分にはもう何も失うものがないと思えば、パターンを追いも詰めることを断念し、自分で満足のいく生活を送り始める。
 車いすに乗ってバスケットボールに講じる障害者達は、マイケル・ジョーダン選手をまねする未成年の健常者たちよりも遥かに素敵に見える。未成年の健常者たちの振る舞いは、障害者達よりも不自然なのである。なぜなら、彼らは隊列に加わって行進しているようなものだからである。そして、隊列を離れなくては、という事に思い至らないうちは、だれ一人として新たなマイケル・ジョーダンにはなれないのである。
 コマの決まりを破る者は、リーダーになるか、あるいは離反者になる。抜け出した人々のうちで、あるものはスターになり、またあるものは脱落者になる。前者と後者との違いは、前者がコマの決まりを破る揺るがない権利を持つことを確信しているのに対し、後者はその権利を持つことを疑っているところにある。
 スターたちはひとりでに産声をあげるが、それらを光り輝かせるのはコマなのである。隊列を離れた者は成功の新たなパターンを築き上げる。コマにとっては個性というものが耐えられないため、スターが産声をあげたのを見ると、その者を自分の寵児に祭り上げるしかなくなってしまう。すると新たな決まりが設けられ、舞台は方向転換し、新しいスターに向かって歩み始める。何が起こっているか、わかっただろうか。
 しかし、隊列を離れるにはどうすればよいかを知っておく必要がある。もしあなたが黒服の集団と戦うのであれば、敗北を喫することだろう。コマと戦ってもあなたは打ち負かされるだけである。
 戦うことなく隊列を離れるようにする場良い。穏やかなエ笑みを浮かべ、ただ隊列を離れ、黒服集団に「さようなら」と手を振る事が可能である。その後は自分の道を進むことになる。彼はらあなたを隊列に押し戻そうとして必死になるだろうが、もしあなたが彼らと戦う事を放棄しているのなら、どうすることもできない。
 それにしても、こんな単純な心理を理解するために、自分の世界観を根元から見直さなくてはならないとは、私たちの世界では多くのことがさかさまにひっくり返っている。事象選択はその意味で、すべてのことをもと遭った状態に置き直し、コマの決まりを縁を切る手助けをしてくれる。
 正直なところ、多くの人々にとっては、自分たちがマトリックスに押し込められているという考えたかすら気に食わないのである。目を覚まさなくて良いと思う人に、事象選択は不要である。私たちはみな、選択したものを受け取る。幻想というのも選択である。もしそのような選択が何より気に入っているのなら、それを受け取る権利がある。
 私は誰にも何も押し付けてはいないし、自分の考えを信じ込ませようともしていない。すべてはあなた自身が実践して確かめることができる。私はあなたのそばを通り過ぎながら、ただこう言う。あなた自身が実践して確かめることができる。私はあなたのそばを通り過ぎながら、ただこう言う。
「ねぇ。君、現実的事象選択というのを知っているかい?」
「うん、それがどうかしたの」
「ああ、ぼくはそこへ行くところさ。君は好きにしたらいい」
というわけである。

〇ところで、なぜコマには決まりがあるのだろうか。フラッシュゴマのケースでは、コマが反響のエネルギーを摂取するのであるから、全てが理解できる。だから、行動を同期させなければならないのである。では、信奉者たちが一体となって行動することを必要としない、ほかの種類の長く持続するコマは、何によって維持されているのだろうか。
 何よりもまずコマの決まりは、行動と思考の規範、すなわち「正常性」のスタンダードを定める。成功の代用品、代わりのもの、が自分に提示されていることを、人は理解しない。他人の成功は模倣するための例や手本にはなり得ない。あえて決まりを破り、自分の道を行くものだけが本物の成功を手にするのである。
 他人に追随する人は沈みゆく太陽を永遠に追いかけることになる。成功の基準とは蜃気楼のことである。しかし、コマの決まりが、幻想の蜘蛛の巣で自分をがんじがらめにすることだという事を、人は知らないか、または知りたくないのである。しばしば幻想とは、まだ見ぬリアリティよりも甘美で、心地よく、わかりやすいものである。
 定められた基準に自分が相当しないと言う事実に直面すると、人は魂の不快を味わう。敗北の恐怖が心に重くのしかかり、自分の至らなさを感じ、敵意に満ちたこの世界で自分は一人ぼっちだと思う。
 そんな人に何ができるだろうか。事象の中の一つに拒否反応がある。手の届かないパターンに対して、人は自分を拒絶の壁で囲む。あるいは、パターンを追いかけ続けかもしれない。コマの決まりに従う事で自分を変えようとすると、自分の魂の制約の箱に追い込むことになる。こうしても不満以外には何ももたらされない。その結果、再び自分を変えようとせざるを得なくなる。
 そこで、人がパターンを追いかけ始めると、不満足と失望のエネルギーを放射することになる。そうならないわけがない。ロバが目の前にぶら下げられたニンジンを追いかけて同じ場所を回るのと同じことである。他人の成功パターンを提示する破壊的コマは、まさにこの時放射されるエネルギーを摂取する。
 拒絶の壁はどうかというと、最低限のエネルギー消費で済むわけではない。自分には手の届かない決まりをいたるところで耳に吹き込まれるため、自分の周りに保護フィールドを築いて維持し続けることも容易ではないからである。
 しかし、それでもこの迷路から脱出する道はある。それは、コマの決まりと縁を切り、自分の道を進むことである。それを行ってみたものは、驚くべきことを見出し、文字通り息をのむような思いをする。それは、内なる自由という事である。そんな人々が実際に存在する。ここで女性読者からのメールを紹介しよう。彼女は内なる自由のすぐそばまで来ている。
 「私は30歳の女性です。これまで男性と縁がありませんでした。性病理学者に言わせると、これは見過ごせない異常だそうです。でも、なぜそうなのか、私にはわかりません。25歳前に急いてだれかと一夜ともにしなくてはならないとか、処女性は道徳的苦悩の原因であるという事は、どこにも書かれていないはずです。私には異性を引き付ける魅力があるようで、静的関係を結ぼうと思えばそうなる機会はたくさんありました。しかし、そうしたいと思いませんでした。生理的に嫌だというわけではありません。その方面は異常ありません。ただ私は、肉体関係を持ちたいと思える男性を見つけるまでは、そうしたくないだけなのです。でも、最近は、そんな考え方が負担になっている自分にふと気づく事が多くなりました。なぜなら、誰もが忍耐的な愛に屈しているのに、私は違うからです。皆がそれを受け入れているのですが、私はその決まりに従っていません・・・・私は社会一般に受け入れられている固定観念の奴隷になったことは決してありません。しかし、まさしく社会のそうした部分に私は苛立ち始めているようです。ときどき、私は自分のことを単なる道徳的出来損ないにすぎないと感じることがあります。孤独であると言う事実そのものが自分に対する見方を歪めることはないにせよ、特に好きでもない相手と性的交渉を持つことは避けたいと意識的に思っています。それでもやはり私のケースは逸脱や規格外のようなものなのでしょうか?」
 私は「すぐそば」と書いたが、その理由は、「みんなと同じではない」ことへの恐怖が依然としてのこって居るからである。それでも内なる力や自主性は持ち合わせており、それだけでも大したものだ、言うまでも無く、ここには何の逸脱もない。ただし、「自分はみんなと違う」ことを恐れてはならす、反対にそれを喜ぶべきである。かといって、もちろん極端に走ってはならない求めるもののハードルを下げて、もっと気さくにふるまうよう心掛けてはどうだろうか。
 決して誰もが「積極的な生き方」をしているわけではなく、どうしてもパートナーのできないたくさんの人々がいる。しかし、孤独への恐れやみんなと同じでないことへの恐怖心が幻想を信じ込ませてしまう。
 自由と打ち明けた雰囲気を持つとし、パリを例に取ろう。パリは「独身者たちの町」としての定評がある。毎日、早朝から人々は通りへ出て、数多くのカフェへと散っていく。コーヒーなら家でも飲めるだろうに、なぜ人々はカフェへ出かけるのだろうか。なぜなら独り身の寂しさから、人々は外出するのである。
 コマは意図的に人間社会を自分の決まりによって奴隷化しようとしているように思われるかもしれない。実際に、隷属させようとしているのだが、決まりを定めるのはコマではない。コマは決まりがあるおかげで、存在している。決まりがコマを生み出す。その後で、コマは忌まわしいことをし始める。コマの持つ破壊性とは、コマが人を真の幸せが待ち受ける道から遠ざける点にある。
 たくさんの人々が行きかう通りを想像していただこう。一人一人は自分の用事があって歩いている。突如、黒服の集団が現れ、通りにいる全員を整列させたうえで、行進させる。列から抜け出ようとする者は、「とまれ、どこへ行くんだ、列に戻れ」と怒鳴られ、乱暴に列に戻される。「マトリックス」のような映画は、偶然に出来上がったわけではない。空想小説は、時とともに現実のものとなる傾向を持つ、そして、この傾向は加速している。注意してみると、空想小説と現実の間の溝はどんどん狭まってきていることがわかるだろう。もちろん、人々は、身体に吸盤をつけて、フラスコ状容器の中にいるわけではないが、このアナロジーはどこか身につまされる部分がある。

〇もし決まりや基準などというものを頭から追い払うのであれば、実際、全てはとても簡単なことになる。真ん中がゼロになっている目盛をイメージ願いたい。左側へ行くと愛であり、右側は攻撃である。
 多くの人々は、自らの中で「悪魔的」本能が目覚めることを躊躇したり恐れたりする。彼らはそれが不自然だと考える。だが、本当はこうである。二人のまっとうな人間が出会い、最初はきわめて普通に振る舞うが、その後、二人の芽は人欲のきらめきを帯びてきて、ついには、ことを始めるわけである。どうしても枠に収まりきらないことを・・・・いったいどなに枠があるというのか。
 まさにここでコマの決まりが影響している。一方では、必ず守らなければならないわけではないが、世間一般に受け入れられている礼節という枠が存在する。他方では、その枠内にとどまったままで、満足感を得ることはできないという事情がある。でも、どちらも両立させたいものである。
 そこで人々は、基準に合わせようとして、自分の役割を演じ始める。彼らは、動物としての本能が目覚めるのを恐れつつ、自分たちにとって不可欠と思われる一定の儀式という余計なものを付け加える。それは、ある意味、多少の土俗を引き起こす。手綱を緩めればよいのに、コマの決まりがそうはさせない。反対に、もし目盛の針が攻撃の方向に大きく揺れると、今度は、「それはそうと、君、僕のこと、愛しているよね?」という確認作業が必要になってくる。
 そんなわけで、舞台上には常に二人のプレイする観客がいることになる。まるで操り人形のような二人は、操り糸で吊り下げられている。自分で自分を操り糸に結びつけたのである。彼らは何を行っているのだろうか。全力で目盛の針を右へ左へと動かそうとしているのである。そうするのではなく、コマの決まりなど意に介さず、目盛の針から手を放し、理性の思考ではなく、魂の感覚との相関で針が自由に動くようにしてあげるだけでよいのである。
 そんなことをしたらすぐに獣にまでなり下がってしまうと反論する人があるかもしれない。ここでもまたコマの決まりが影響を及ぼしているのである。人間性と獣性の境目をだれが決めるのか。それに、問題は境目の話にあるのではなく、あなた自身が自分のための決まりを定めるべきであって、他人の決まりに従うべきではないという点にある。あなたは人間であるのだから、人間性や礼節についての自己の規範を設ける権利を持っている。
 私がここで述べていることは、何らかの問題を抱えている人々、とりわけ、お互いに愛し合っている人々のためであることを理解されていると思う。問題を取り除くには、コマの決まりを守っているかどうか意識して自分をコントロールしていた敵と同じように、意識して目盛の針を手放すことが必要なのである。
 何の困難も感じない人々は存在する。もし、物事を本来の名前で呼び、概念を混同したりせず、受け取りたい物が何かを意識的に理解し、そして、これは一番大事なことだが、パートナーにそのことを正直に打ち明けるのであれば、実際に多くの問題が取り除かれるのである。隠し立てしなければ、視線性はすぐに楽なものとなる。おそらくあなたのパートナーにも秘めている願望がたくさんあると思って間違いない。それにもかかわらず、片方が受け入れられないことをもう片方が欲するという状況が起こり得る。そんな場合、どうすればよいだろうか。
 第一に、フレイリングの第一法則をいつも心に留めておかなくてはならない。受け取る意図を断念し、その代わりに与える意図を持つと、あなたは受け取りを断念したはずのものを受け取ることになる、という事である。この偉大な法則は、間違いなく作用するのだが、あなたはこの法則が一体どのようにして作用するのか、必ずしも理解されるとは限らない。
 第二に、何とかしてコマの決まりとは完全に縁を切り、それを事象選択の決まりに置き換えるべきである。この場合の事象選択の決まりとは、自分にも他者にもありのままでいることを認める、ということである。
 このように、満足感を得るには、自分が自由で開放されていると感じる必要がある。劣等感などコンプレックスという形で過剰ポテンシャルを抱えていると、自分が自由であるとは感じられない。本人がリラックスしようとどれほど努力しても、平衡力がそうさせてはくれないのである。
 しかし、緊張感の大半は、過剰ポテンシャルによる結果というよりは、むしろ依存関係の結果として生じる。人々の内的意図は、与える方よりも受け取る方に向けられる事が追い、そりに加えて、通常、パートナーには役割上の期待に応じた投影がなされる。他者がありのままでいることをどうしても認めたくないことになる。
 ご存じのように、依存関係は分極化を生み出し、分極化が平衡力の風を巻き起こし、平衡力の風は、結局、全てを台無しにする。事象選択の決まりは、依存関係によって発生した分極化を一瞬にして除去する。だから、もしコンプレックスから逃れられなくても、事象選択の決まりに従うだけで十分なのである。そうすれば、緊張から収まることをすぐに実感するだろう。
 自分がありのままでいることを認めるという事は、自分の不完全な部分をすべてをひっくるめるため自分を受け入れることを意味する。他者がありのままでいることを認めるという事は、自分の期待を他者に投影するのをやめることを意味する。その結果、片方が受け入れられないとをもう片方が欲するという状況は、さっぱりわからない形でひとりでに解放されてしまう。
 繰り返しておこう。必要なのは、コマの決まりと縁を切り、それを事象選択の決まりに置き換え、フレイリングの第一法則に従って、自分の意図を送る、という事である。もしあなた方二人がそのようにしたら、もうどんな問題も起こりはしない。そうすることがなぜ効果を持つのかについての詳細な考察は、心理学者に任せよう。とにかく効くのである。それがすべてである。

〇現在の情報娯楽産業は、一つの単純な原則の上に築かれている。その原則とは、成功した人々のやり方を眺め、彼らの後を追いかけ、手本にせよ、ということである。あなたに示そうとすることはすべて成功パターンである。あなた自身もすべてをしっかり理解してるのであるが、そんなプロパガンダの持つ影響力がどれほど強力かについては、深く考えたことがないのである。プロパガンダの影響力は、ときに露骨であるが、大抵は知らず知らずのうちに少しずつ作用する。
 このことは、とりわけ性的関係に関することで言える。そこでは、いかにあるべきか、という固定観念が非常に頑固に根を下ろしている。その種のテーマの出版物や映像作品はすべて、しっかり心得ておくべき、基準を満たす関係というものを示している。
 私が何かの陰謀や意図的なプロパガンダを述べているとは思わないでもらいたい。本当に誰も何らかのパターンを浸透させようとはしていない。すべては自然にそうなってしまうのである。実は、人間の思考上には、自分の行動が正しいかどうかという疑いの気持ちが常に存在している。成功とは相対的なものだから、いつも比較する必要に迫られるのである。だから、人が他人の成功を目にすると、それをパターンとして受け入れる傾向があるのは当然のことと言える。
 親密な関係、主に狭く閉鎖的な人間集団の中で行われるものなので、「我々はすべて順調に行っている」という事を確かめたい欲求が高まる。ところで、もし人がパートナーを持っていないとしたらそれどころか、過去に経験したことすらないとしたら、その人は必死になってパターンを探そうとするだろう。そしてももちろん、マスメディアがありとあらゆるパターンについての幅広い選択肢を提示しながら、人々のそうした欲求にこたえるのである。
 こうして、いかにそれを行うべきか、どんなイメージを持つべきか、などについて一般に通用する固定観念が形成される。例えば、彼氏は大胆不敵な「マッチョ」で、彼女は燃えるように「セクシー」、という具合にである。彼らを御覧、あんなふうにやってみよう。でも、もしあなたがそのような基準に馴染めないというのであれば、それはつまり、あなた自身にどこか具合の悪いところがあることになる。
 こんな決まりの持つ真の破壊力を想像することは難しい。コマの決まりは人類が生み出したあらゆる物の中で最も恐ろしくて有害だと私が述べると、たぶんあなたは私が問題の重要性を不当に高めていると思うだろう。だが、断じてそうなことはない。これでも私はかなり抑えて話しているつもりなのである。
 うまくいかなくなったカップルの数は膨大である。幸せだった家庭が崩壊した数をおそらくもっと多いことだろう。いざこざの主な原因は、結局のところ、金銭問題である。残るすべての原因は、この不満感から派生した結果か、あるいは互いの本当の理由を認めたくない人々の逃げ口上なのである。
 二人がコマの決まりに従おうとしたため、不満感が生じたのである。彼らは、基準に従ってされをそのように行わなければならないと考えている。コマの決まりは、「私のようにやってごらん」と進めている。それは即ち、自分を変え、いつもの自分と違ったことをしよう、という意味である。そして、人は定められた基準に自分を合わせようとするが、その結果、魂の不快と不満感を受け取る。
 何らかの問題を抱える人のまちがいは、本人が演技している点にある。すべてはとても簡単なことである。人はたくさんあるパターンの中から、自分にピッタリあったものを一つ選べば、自分のパートナーにも別のパターンを選ぶ。その後、その人は自分が選んだ役割を演じ始め、パートナーにも別のパターンを選ぶ、その後、その人は自分が選んだ役割を演じ始め、パートナーに対しては、自分が抱いている期待を投影する。しかも驚いたことに、その人は事象選択の法則に沿って、すなわちプレする観客として距離を置いて、自分の役割を演じる。なぜなら、全てが正しく行われているかどうか、常に自分やパートナーをパターンと引き比べるからである。結局、得られるものは何もない。

〇人々が同じ方向へのエネルギーを放射するようにさせるには、どうすればよいだろうか。行動と思考のパターンを決める、つまり、決まりを設ければよいのである。もちろん、決まりを設けるのは、コマではなく、人間自身である。コマは意識された意図を現実化させる能力を持っていない。コマはひとりでに生まれる。しかし、コマを生み出すのは設定された決まりである。コマの決まりは人類が考え出した全てのものの中で最も恐ろしくて有害である。その趣旨は「私のようにやってごらん」。
 一般的な形式の行動や思考のどんなパターンでも、コマの決まりになってしまう。観察してみると、そんな決まりが四六時中作用していることに気付くことだろう。もちろん、決まりが常に害をもたらすとは限らない。例えば、スタジアムに集まったファン達による波は、その場限りのフラッシュゴマを生み出す。そんなコマは共鳴エネルギーを摂取するが、そのことで誰も迷惑をこうむったりしない。
 コンサートホールでは、コマは聴衆のエネルギーを猛烈に吸収する。けれども、そのことから被害を受ける人はいない。ところで、アーティストたちがどう振る舞うか、よく見てみよう。彼らはコマの決まりによつて全力で聴衆を揺り動かそうとする。「腕を挙げて、もっと高く、もっと高く、さあ、今度はみんな一緒に」聴衆は従順に拍手し、そのエネルギーは一人一人としては取るに足りないものだが、共鳴し合うため、ホールに覆い被ってくるような透明なモンスターを作り上げる。
 もし、コマがこうしたエネルギーを吸収してくれないと、アーテイストたちは文字通り空中へ舞い上がってしまうだろう。だが、アーテイストたちはエネルギーのごくわずかな分け前を受け取るだけであって、残るすべてはコマが奪い取る。モンスターは、人々が「私のようにやってごらん」という決まりを実行している間は、存在し続ける。
 ほう、だから何だっていうのか?。何しろ何も怖いことは起こらないかったのだから、実際、フラッシュゴマは無害なのである。人々は太古の昔から、「芝居の舞台」上でひそかな舞い遊ぶものの存在について、うすうす気づいていたか、知っていた。
 事象選択モデルの枠内では、フラッシュゴマと呼ばれるこうした存在は、様々な民族間で、通常は、感情的に彩られたイメージと結びついている。例えば、いわゆる「悪魔の御愉しみ」がある。オカルトを実践する一部の者たちは、放心状態の最中に神秘世界の様々な代理人たちを引き寄せるエネルギーが放射されることに断固たる確信を抱いている。神秘世界の代理人たちは四方八方から飛来し、悪魔の饗宴なるものを催すのだという。
 何を放そうとも、フラッシュゴマがあなたに害を及ぼさない限りは、あなたは全く心配いらないはずである。フラッシュゴマは、あなたがいずれにしろ使い果たすことになるエネルギーをただ吸収するだけのことなのである。だが、問題の核心はそこにあるのではない。放心状態とコマを結び付けることが問題なのである。そして、結び付けようとするのが「私のようにやってごらん」というコマの決まりである。
 マスメディアの技術的発展に伴い、コマの決まりら完全支配の道へと歩み出した。至る所で人間の精神心理は、行動と思考のパターンを浸透させるための、目立たないが非常に効果的な影響にさらされている。私はここで「ゾンビ化」という言葉を慎重に用いるべきだが、本質的にはすべてがこれに向かって進んでいる。

〇覚醒状態で見ている夢から目を覚ますには、前記のように眠気がきれいさっぱり吹き飛んだ状態にならなくてはいけない。「この瞬間の私は眠っておらず、何を、なぜ、どうしてそのようにしてるか、はっきり認識している。」もしあなたがこのように自覚してるのなら、全ては順調に行っている。もしそうでないのなら、つまりあなたは、たとえちょっとした争いであっても、そんな争いの状況に支配されている操り人形なのである。
 あなたが何かに腹を立てると、事態はさらに深刻化する。そのような場合、道化役がいら立たせてくれるおかげで、ついに神経の高ぶりを押さえられなくなってしまう。通常、これは、コマがあなたの注意を乗っ取りの罠にはめたことを意味する。コマから解放されるには、無関心状態になる必要がある。しかし、そうなることは難しい。
 例えば隣家から響いてくる音楽がとても気に食わず、しゃくにさわって仕方がないとしよう。あなたがなすべきなのは、どんな方法でもよいからコマとの「結びつきを断ち切る」ことである。だが、自分が刺激に反応しないようにすることは実際上、不可能である。感情を押し殺すことは無駄である。その代りに、何かほかのことに注意をそらすべきである。
 自分の好きな音楽をかけよ。だが、ボリュームはそんなに上げず、隣家からの音楽が掻き消える程度に、注意をそらすために、ほかの方法をも考えてみよう。もしあなたがほかのことに注意をそらすことが出来たら、隣家からの音は少しずつ静かになるだろう。
 そのほかのケースも同うようである。もし「道化役がのさばる」ならば、それは、コマがあなたの注意を乗っ取りの罠にはめたという事である。あなたはコマのゲームに引きずり込まれたのである。このゲームの目的は、争いのエネルギーを増大させるという点にある。乗っ取りの罠から抜け出すには、注意を向ける先を切り替えればよいのである。
 一般的に言うと、全てがそんなにひどいわけではない。覚醒状態で眠ったりしていなければ、「面当て」もないだろう。いま述べた事は、全てとんでもないたわごとだと思われるかもしれない。確かに、エネルギー情報体とか言う者に操られているらしいという考え方を受け入れることだって簡単ではないのである。そのような知識を受け入れるかどうかは、各人の選択の問題である。信じようとする必要はない。観察したうえで、自分自身で結論を出してほしい。
 非常にたくさんの人々が同じ種類の悩みによる何らかのコンプレックスを抱いている。ここで大きな役割を演じているのがコマである。コマはありとあらゆる方法によって、あなたが不完全で、問題を抱えている事を吹き込もうとする。その結果、あなたは自分に問題がある本当に信じ込んでしまう。想像できないかもしれないが、そう思い込んであるのはあなただけではない。
 あなたの私生活はすべてがうまく言っているわけではなく、その一方で、他の人々の私生活は順風満帆だと思っているあなたは、すっかり道に迷ってしまっている。そんな考えは、コマがマスメディアを利用してわざと作り上げた幻想である。
 そこで、スタジアムが満員になるくらいに人々を集めたうえで、「何かがうまく行っていない」人々に退出してもらう事にすると、あとに残るのは、両手をの指の数より多くはないはずである。人々でいっぱいにあふれた巨大なスタジアムの真ん中にいる自分をイメージしてみよう。そこから人々が突然いなくなり、残っている「正常な」人々を探そうとして、あなたは当りをキョロキョロ見回すのである。実態はそんなものである。
 たとえ友人たちが自慢する武勇伝に誇張はないとしても、彼らには彼らなりの問題があると断じてよい。それを彼らは周囲の人々からだけでなく、自分自身からさえも、巧みに隠している。
 ここでフロイトを引き合いに出すのは辞めておこう。現代社会における「色情狂」の規模がどれほどのものか、フロイトは想像できただろうか。ここではただ次のような問題を提起するだけにしておく、自然から与えられたこんな単純な機能をかけて完璧な域に達するなどという事から、なぜこれほどまでに多くの問題が発生するのか。
 この問題への答えは極めて意外なところにある。それにいくらか関係しているのが、フラッシュモブのような現象である。この現象をご存じないといけないので、以下で説明しよう。
 晴れた日のにぎやかな通りや広場をイメージ願おう。すべてがいつもと変わらずに進行している。その時、数十人、あるいは数百人が、これと言った理由もなしに、突如として雨傘を取り出して広げると、まるで雨が降ってきたかのように振る舞うのである。「まともな」通行人たちは、ぽかんと口を開けてたたずみ、「雨中の人々」は心から浮かれ騒ぐ。
 こんな壮大な冗談がいとも簡単に催される。お互いに顔さえ知らない人々の集団は、決まった時刻に指定された場所で合図に従って何かばかばかしい行動をしようと、インターネット上で取り決めるのである。
 こうした行動をとっているときに、何が起こっているのだろうか。ご存じのように、人々の集団は一定の方向で思考し始め、コマを創り出している。フラッシュモブの実行グループは「御覧我々のやっていることを、傘をさしているんだよ」と思う。他の通行人たちは、ぽかんと口を開け「なんだこいつらは」と当惑する。人間集団の度投手の思考エネルギーの放射が共鳴をもたらし、共鳴のエネルギーをコマが吸収する。
 フラッシュゴマは最も短命で、瞬間的に表れては消える。だから誰にも悪さをしない。こんなたわいない例から、寿命の長い破壊的コマがどのように生まれていかに影響を及ぼすかをうかがうことができる。

〇コマどうしの果てしない戦いとは、それが家庭内のいざこざにせよ。武力紛争にせよ、全てがさまさしくこの法則に従って行われる。もし対立が起こると、小康状態やうわべだけの和睦が訪れようとも、その後は、争いが激化する方向へと展開する。
 コマの法則が働いているところでは、良識は無力である。まさにその理由から、個人の行動も、国家の動きも、常識の枠に収まらないことが大変頻繁に起こる。争っている状況下では、人間の動機付けはコマに支配されている。
 そんなところから、自分が行った過去の行動について、「私の理性はどこへ行ったのか。なぜ突如あんなことをしようと思ったのか?」悪夢でも見ていたかのように感じるという理解しがたい効果が現れる。それはなぜかというと、人が自覚のないままに行動したからである。意識が外部からの影響を受けなくなった後で、ようやく起こったことの全てを正確に把握することになる。
 愛し合っていたパートナーたちが喧嘩すると、性格の合わないことがハッキリしたからという理由で分かれてしまう。だが、全てが素晴らしくうまくいっていた幸せな瞬間もあったではないか。ところが、人はこれという理由もなしに心変わりし、敵意に満ちた態度を取り始める。これはついさっきまだの本人のありようとはどうしても相いれないものなのである。あなたにも覚えがあるだろう。
 実際に両社の度地価が変わってしまったという事ではない。相手がとても受け入れがたいようなやり方で振る舞うのは、本人がそうするよう駒が仕向けているからである。
 コマは、互いに対立しあう人々の潜在意識の動機付けを操っている。そして、争いのエネルギーが増大するする方向に向けて操ろうとする。人は自分が対決に向かって進むように強いられているとは認識していない。人は極めて非論理的、かつ不適切に振る舞うことがある。
 そうした効果が特にはっきりとみられるのは、説明のつかないほど残酷な犯罪においてである。後日、被告席に座らされた犯人は、自分が行った行動について、当惑した表情で、「意識が朦朧としていたようだ」と言いながら振り返る。犯人は嘘をついているのではなく、本当にそうなのである。犯人自信にしても自分のとった行動は全く予想外であり、自分の犯罪を恐ろしい悪夢のようにとらえている。
 もし注意が乗っ取りの罠にはまる・・・・何かに気を奪われて、それ以外は考えられなくなる・・・・と、とりわけ眠りが深くなる。例えば、軍隊、グルーブ、セクトなど特殊な集団では、行動や思考に一定の型を伴う環境が築かれる。これは「麻痺させる」効果を持ち、潜在意識は、コマ側からのゾンビ化作用を前にして、完全に無防備状態となる。すると、部外者から見ると全く理解しがたいことが起こってしまう。
 なぜ怒りにかられた人々は、自分と同じ人間を、別の神に帰依しているからと行って、殺してしまうのか。異なる神を信じることが、だれの邪魔になるのか。戦争下の困窮生活にあって、数万、数十万、数百万もの人々が命を失う。いったい自己保存の本能はどこへ行ったのか。富と領土を求めての戦争ならまだわからくもない。しかし、イデオロギーのための戦いは、どう説明できるのか。
 平和についての理念は誰にとっても大事なものである。しかし、戦争は無くならない。神という考え方は自明だ。善意、正義、平等という考え方はずっと長く引き継がれることだろう。だれもがわかっているにもかかわらず、良識が働かず、悪が勝利する。この悪というのは、いったいどこから来たのか。
 悪の普遍的な源泉がコマなのである。何かと何かが対立した場合、何がどうなろうと、全ては争いのエネルギーを増大させる方向へと進む。このことは、少し観察してみるだけで、すぐに明らかとなるだろう。争いの炎が弱まるときがあるにしても、長くは続かず、それは以前よりも激しく燃え上がる弾みをつけるためにすぎない。
 もちろんコマにはさまざまな種類があり、全てが、その程度に多少の差はあれ、破壊的なのである。とはいえ、コマの多くは十分におとなしいと言える。例えば、事象選択の駒は、実際に何にが起こっているかについて、できるだけ多くの人々が考えるようになるためには、不可欠な存在である。
 全ての駒から完全に自由になる方法について述べているのではない。そんなことは不可能なのである。大事なのは、操り人形になることなく、意識して行動し、コマという構造を自分のため利用する点にある。では、コマの影響から、どのようにして自由になれるだろうか。
 コマがどのようにしてあなたを操ろうとしているか、目を覚まして、認識するのである。何が起きているかを理解すれば、ことは半分達成されたも同然。コマからの影響の強さは、意識性の高さに反比例する。あなたが覚醒状態で眠っている間は、コマが穴を支配していることになる。
 とにかく、コマどうしの破壊的な戦いには、もしそれがあなた個人にとって必要でないのなら、参加しないことである。あなたが群集の中にいるのなら芝居の舞台から観客席に降り、周りを見渡して目を覚ますべきである。「私はここで何しているのだろう。私には自覚というものがあるだろうか。なぜそうすることが私に必要なのか。」

〇人が自宅に居たり、群衆の中に混じってるときには、意識制のレベルが特に低くなっている。自宅にいると高いレベルで自己統制する必要性が弱まり、そのため人は力を抜いた状態で振る舞い、ほとんどまどろんでいるに等しい。家の外に出ると、ごく内輪で交流する場合は、前期とは逆に、意識は最も活発になり、自己統制が働く、ところが大群衆のかなではどうかというと、人間の行動は自発的なものとなるが、群衆全体の感情の急激な高まりと強い相関関係を持つようにもなる。
 コマの働きを示すために、一番簡単な例を挙げてみよう。同じ道を前方の通行人をあなたが追い越すとしよう。左から追い越そうとすると、まるであなたのいく手を阻むかのように、通行人は自然に左側へ寄る。右側から追い越そうとすれば、通行人は無意識に右の方へ寄るのである。
 何が通行人の歩く方向を変えさせるのだろうか。何しろ通行人からはあなたが見えないし、あなたが追い越すことなど通行人にとってはどうでもよいことなのである。ひょっとしたら通行人は何らかの方法であなたが接近して来ることを背中で感じ「ライバル」に先を越されることを本能的に許すまいとするのだろうか。こんな憶測が浮かぶかもしれないが、そうでは無い。本能について述べるならば、自然界で競争心が必ず現れるのは、対立する両社が面と向かって対峙している状況においてである。通行人が自分を追い越そうとするものを邪魔するように振る舞わせているのは、実はコマなのである。
 人が直線状をきちんと歩くには、どう歩くべきかを考えることなくそうする。そのため、人は眠っているわけであり、進むラインは時々ひとりでにどちらかの方向にそれる。動機づけ、すなわち進む方向の選択は無意識化に置かれ、その瞬間は制御されていない、つまりコマは無防備な状態にある。
 そんな通行人にあなたが近づいて来て、追い越そうとしたのである。これは些細なこととはいえ、本質的には争いである。争いのエネルギーの増大を狙うコマは、追い越そうとするあなたのいく手を通行人が阻み、それによって状況が先鋭化するよう、通行人をあなたと同じ方向へ寄せるのである。
 しかし、コマは意識された意図を持っていないため、故意に振る舞っているわけではない。平衡力が無意識的に自分の役割を果たすのと同じである。もう一度強調しておこう。いま述べていることは、仕組みまだ明らかななっていない何らかのプロセスについてであって、エネルギー情報体の理知的な振る舞いについてではない。私たちはエネルギー情報世界の本質が持つ個々の現象と法則性に注目しているにすぎない。
 そんなわけなので、所与の状況においてコマは何のために働いているのか、コマはどこから生じたのか、コマはどのようにして出現できたのか、また、エネルギーレベルでは何が実際に起こっているのか、などについて論じることに意味は無い。いずれにせよ、私たちが何から何まですっかり解明することは不可能であろう。意味があるのは、一つの重要な結論だけである。それは、平衡力が対立するものを衝突させるのに対して、コマたちは、発生した争いのエネルギーを煽り立てるためなら、何でもやってのける。という事である。コマの法則とはそういうものなのである。

〇一般的に言って、「卑劣さの法則」が存在するという事実そのものが、かなり不思議な感じがしないだろうか。いかなる理由から、世界はそんなにいやらしくふるまうのか。あるいは、それは単に憶測や先入観によるものなのか。いいや、違う。そうした傾向はやはり存在し、どうしてもその事実から抜け出すことができないのである。しかし、幸いなことに、事象選択モデルはその法則性の原因を解き明かしてくれるだけでれなく、回避方法をも説明してくれる。
 事象選択の決まりは、それを試す誰もが間違いなく効き、発生原因がハッキリしない非常に多くの問題から解放してくれる。握りしめているものを手放し、「世界の胸ぐらを取る」ことを止めたら、すぐに世界は愛想そう良く言う事を聞いてくれるようになる。
 握りしめているものを「手放さない」人は、まるで磁石のように、対立するあらゆるものを自分に引き寄せながら進むことになる。しかし、不運続きの法則は、それですべてではない。対立する者同士が遭遇した途端に、対立がさらに激化する方向へ進もうとするのである。
 有名な法則である対立物の統一と闘争は、その本質が名称そのものから明らかだが、すでに小・中学校で学ぶ知識となっている。ヴォルガ川はカスピ海に注ぎ、ミシシッピー川はメキシコ湾に注ぐ、といった知識と同じである。しかし、この法則の意味することはそう単純ではない。なぜこのような法則が生じるのか、考えてみよう。
 どこにでもある対立物の統一の原因についてはすでに明らかにした。対立物どうしを衝突させることで、平衡力はバランスを回復させているのである。では、なぜ対立する両極は終わりのない闘争状態にあるのだろうか。
 逆ではなかろうか。対立する両極が衝突し、互いに相手を弱め合い、静まるのである。ところが、対立する両極は「取っ組み合いになる」まで、互いに相手を「怒らせる」のだという。それなら「喧嘩っ早い人たち」を聞き放さないと、喧嘩状態がずっと続いてしまうことになる。
 喧嘩状態が続いてしまう類の例は身近なところにある。世界はしばしば腹立たしいことをやってくれるものだと、あなた自信にも思い当たる節があると思う。もちろん、人によつて程度と方法はさまざまである。だが、一般的に言うと、本質はこうなる。あなたが今にもバランスを崩しかねない、そんな瞬間に限って、なぜか面当てのようにして何かが起こる、という事である。
 次のようなことが起こる。もしあなたが何かについて心配、不安、抑圧を感じているのなら、たとえ部分的にでもあなたは緊張しているものになる。するとそこに、まるでそんなあなたを見透かしたかのように道化役が現れ、あなたの神経をもっと逆なでするように、飛び跳ねたり喚き散らしたりする。あなたは苛立ち、道化役の方はますます激しくのさばりはびこる。
 いらだちを強める手はたくさんある。例えば、あなたはどこかへ急いでいる途中で、遅刻しまいかと焦っているとしよう。そこで道化役は、ぽんと手をたたくと、揉み手をしながら、「さあ、行くぞ」と叫ぶ。
 この瞬間から、すべてのことがあなたに抗って進む。人々が道をふさぎ、かしこまって悠然と進み、あなたはどうしても迂回することができない。急いで扉を通り抜けなくはならないのに、そこにはのそのそと歩く怠け者たちの人垣ができている。自動車道も渋滞で似たようなありさまだ。まですべて側度と申し合わせたかのようなのである。
 もちろん、気がせいているときは、周りの世界全体がゆっくりしているように思われるのかもしれない。しかし、明らかな兆候もある。エレベータや車は故障し、バスは遅れ、通りは渋滞するのである。そこには何か悪意ある客観性がみられる。
 ほかの例あげることもできる。もしあなたが何かについて心配したり緊張したりしていると、周囲の人々は、あなたがそっとしておいてもらいたいと思っているまさにそんな瞬間に、あなたを苛立たせてくれるのである。
 さっきまでおとなしくしていた子供たちは、とんでもないいたずらをし始める。近くにいる誰かは、くちゃくちゃ食べたり、ごくごく飲んだりして、騒々しい。様々な人間があなたにしつこく付きまとい、自分たちの問題についてうるさく聞いてくる。いたるところで執拗に何らかの邪魔が入る。待ち人はなかなか現れない。反対に、招かざる客はふいに顔を出す。こんなことが次々に起こるのである。
 このように外部から加わる圧力は、いら立ちが増すにつれていっそ強まってくる。緊張が高まれば高まるほど、周りの人々はあなたをもっと激しくいら立たせてくれる。ところで、興味深いことだが、周囲の人々は決してわざとそのように振る舞っているわけではない。自分たちの行動が誰かの邪魔になっていることなど、彼らには思いもよらない。そうした振る舞いの原因はいったいどこにあるのだろうか。
 無意識の精神心理には、通常、多くの空白部分がある。どんなに不思議に思われようとも、ほとんどの場合、人々を動かしているのは無意識的な動機である。しかし、驚くべきはそんなことではなく、無意識的な動機を形成する原動力が、人間の精神心理の内部にあるのではなく、外部にある。という事の方なのである。
 この原動力とは、生物の思考エネルギーによって産み落とされる。目には見えないが実在するエネルギー情報…コマ…のことである。コマに関しては最初の方ですでに多くのことを述べてある。コマは、争いのエネルギーという餌のある所には、必ず現れる。そんなコマが何かを創作したり、意識された意図を実現したりする能力を持つものと思ってはならない。コマは分極化をエネルギー上における異質性として感じ取り、ヒルのように吸い付こうとする。だが、これはまだそれほど恐ろしいことではない。
 コマが争いのエネルギへを吸収するだけでなく、人々にもっと多量のエネルギーを放出させようとすることが恐ろしいのである。
 コマは、エネルギーが多量に放出されるためなら、何でもやってのける。コマは、目に見えない糸で人々を引っ張り、人々は操り人形のようにそれに従う。いったいどのようにしてコマが人々の動機付けに影響を及ぼすのかはまだわからないが、コマはそれを極めて効果的に行う。
 コマにとって人間の顕在意識は近寄りがたいので、あえてそれに近づこうとはしない。なぜなら潜在意識への接近で充分だからである。通常、どんな人も程度の差はあれ、覚醒状態で眠っている。人は多くの物事を力を抜いた状態で機械的にこなしている。その際「この瞬間、私は眠っておらず、何を、なぜ、どうしてそんな風に行っているか、明確に認識している」というように冷めた頭で自覚しているわけではない。