〇とある学生寮での話、確率論の試験を目前に控えていたときのことでした。担当教師は、控えめに言っても、恐ろしい人物でした。試験前夜の学生寮内は不穏な空気が漂っていました。私たちは状況をどうにかして打開しようと頭を悩ませていました。
「確率が何であって、それをどうすりゃ計算できるかなんて、知るもんか」
「それは、ちんぷんかんぷんの謎だね」
「それなのに俺達未熟者は、ただ丸暗記ばかりしている」
「そんなことじゃ、だめだ、俺たちは男だろ、違うか」
その時、私たちの話を盗み聞きしていた別の未熟者の一味である女子学生がドアから頭を出して言いました。
「青二才のろくでなしどもだわ」
「女は引っ込んでろ。俺たちゃ、紳士だ」
「サイテー」
「若き学者様だぜ」
「ただの間抜けよ」
そんな時に誰かが一晩中寝ないでトランプゲームをやろうと言い出しました。しかし、私は「いや、諸君、いくらなんでもそれはあんまりだから、僕寝るよ」と答えておきました。ところが、「紳士たち」は服を着替え、ネクタイを占め、そのうえ、口には安たばこ加え、怪しげな液体の入ったボトルをテーブルに置き、トランプ遊びを始めたではありませんか。
翌朝、私が目を覚ますと、彼らはまだやっていました。
「バカ者どもめ、どうしようもないやつらだ」と私は吐き捨てるように言いました。
しかし、彼らは立ち上がり、大きく伸びすると、敢然と死地に赴いたのでした。
結局、「紳士たち」は本当にろくな事にならなかったのです。彼らの評価は5段階評価の「3」でした。では私はと言うと…まったく問題外でした、なんと私は不合格の「2」を取ってしまったのです。ところが、実は、それが後で幸運に化けるのですが、そんなことなど知る由もありません。いつものように悪友たちはすべてをひっくり返してくれます。彼らが私のことをどれほどうらやましがった事か。皆が私にまとわりつき、顔を覗き込むと、身震いしながら、どうやってそんな素晴らしい結果になったのかとしつこいくらいの効いてきました。
私はというと、誇らしげに後ろに反り返って歩いて見せました。
「ほら、御覧、僕は言っただろ、わかってくれたまえ、紳士諸君。そして、君たちの哀れな評価点「3」がどこかへ葬り去られるよう祈っているよ」
その日、彼らは私の「勝利」を盛大に祝ってくれ、陽気に過ごしました。そして、翌日、私は追試を受けたのですが、なんと「5」の評価をもらって合格してしまいました。この話は以上です。疑ってはなりません。作り話ではないのですから、もしリアリティの反転が質的にうまく出来たら、結果は人を待たせたりしないものです。
ところで、もし最悪の気分で、とてもじゃ無いがリアリティの反転などやって居られない。という場合はどうでしょうか。そんなときには、気分をもっと悪化させ、グロテスクとかナンセンスな所にまで持っていくのです。例えば、スライドのコントラスト調整を最大のところまで持っていくと、ある瞬間、そのスライドがネガに変わるようにですたわしたちは大体そんな風にやっていたのでした。
すっかり気落ちしてしまった女子学生がいました。状況をもっと深刻化しようとした彼女は黒ずくめの服を身にまとうと、自分自身の喪に服すと宣言したではありませんか。みんなが彼女のところへやって来ては、哀悼の意を伝えたうえで、どのような方法で自殺を図るのか、それをいつ執行するのか、などと彼女を質問攻めにしました。やがて、彼女の周りに集まった数人の親しい友人たちが、もの悲しげにゆっくりと哀歌を歌いだし、泣きわめき、吠えたけり、両腕をまげて後ろへ回し、いうなれば、礼儀正しい先住民たちが行う一通りの儀式を執り行ったのでした。先住民たちによる哀歌は次第に、長く伸びた号泣きになり、次に、犬の咆哮そっくりに変わり、ついには、もうそれ以上こらえきれなくなって、喪服に身を包んだ件の淑女を含む全員が、気でもふれたかのように、からからと笑い始めたではありませんか。
もちろん、こんなゆかいな仲間たちがいてさえすればですが、全てはあっけ無く片付きます。しかし、仲間が居なければ、一人何とかその状況を乗り越えなくてはなりません。そのやり方には人それぞれ好みがあるでしょう。脱線はこのくらいにしておきます。とにかく本当に自分の状況をグロテスクやナンセンスにまで持っていくことが必要なのです。意識状態を変えてくれる手段をただ単に用いてみるというだけでは意味がありません。さもないと、本当に悪化する恐れがありますから。
しかし、一般的に言うと、コントラストの方法を一人で行うのは感心しませんからあなたには勧めはしません。単に情報として提供するにとどめます。重苦しくやり切れない状況というのは、意図のエネルギーが極めて低いレベルにあるとの証拠です。自分の生体エネルギーを適当なレベルに維持しておきましょう。そうすれば、決してうつ状態には陥らないでしょう。
御覧の通り、リアリティの反転というのは、意図の調整の法則に大変似ています。違いは、リアリティの反転の方がずっとラジカルでユーモアにあふれているという事だけなのです。
最後に、理性の足場をもう少し踏み固めておきたい。なんともはや、事象選択では非常に多くの信じられないようなことが起こり、全てが本当に現実のことなので、常に理性への説明が求められるのである。
