〇オーラを見たり、相手からの印象を感受しようとするためには、自分の心の中のどこかに落ち着きがなければならない。自分の心が起こす雑音をできるだけ少なくして、得られる印象などに耳を傾けなければならないのである。
 そして誰もが同じ自然なのだから、だれでもオーラをを見たり、感じたりということはできるはずである。感受性には本来差はないが、ではどうして人に差が出てくるのか。
 感受力が鈍るのは、心、感覚器官というところから発せられる雑音が多くなってきたからである。そこで心を鎮めて、感受性を高めていけば、相手の中にあるものや、この自然界のまだわからない事柄も、心の中の雑音のないクリアーな印象としてやってくるようになる。
 子供のほうが敏感だといわれるが、必ずしもそうだとは思わない。大人の方が身体的にも敏感になれる特性を持っている。子供の時には心の雑音が少ないので物事の印象に対して、敏感かもしれないが、それを論理的に活用していく力には欠ける。大人になると論理的な面でも発達してくるので、本来は大人の方が正しい敏感さでは理想的でもある。だからオーラも大人になってからも見えているはずである。

 


〇オーラを見るための身体調整法=オーラを見るためには見る側の生命力が充実していなければならないので、いかにしたら力を充実させることができるかである。
 最近は、仕事上の疲れなどから満足に力が充実していないのではないかと自分で思い込んでいる人が増えている。力を充実させるにはどのようにしたら良いか。それは、ゆっくりとした動作をすることである。1分でもいいから、ゆっくりとした体操などをすることである。それはじれったくもあるが、しかし、ゆとりのあるように感じられるものである。
①背筋を伸ばしてまっすぐに立ち、胸を開いて両足はしっかりと閉じる。
②つま先立ちになり、つま先だけでゆっくりと上下運をする。この時にかかとが床につかないようになることが大切。また気持ちはへその下の腹の中、丹田と呼ばれる辺りに持ってくる。そして下に来たときは踵でなくて丹田に力が加わるように思うこと。これを心地よいだけしばらく行なう。両手はだらっとしたままで行うこと。
③足を少し開いて立ち、両手をゆっくりと外側から上に持ってきて、頭上で手を伸ばしたまま軽く合唱する形にする。それからゆっくりと手を合わせたまま下ろしてくる。
④みぞおちのあたりで両手をしばらく止めてからゆっくりと下ろしてくる。下ろした手のひらは前方を向いている。そしてしばらく深呼吸。これだけでも自分の一番内側のオーラが白く濃くなる。つまり力が充実し始めた証拠である。これ以外にもオーラを見るために力を蓄える方法は、いろいろある。瞑想もその一つであるがこれは15分くらいした方がよい。それに明るく建設的な瞑想である必要があるのでなかなか難しいものである。
〇「気分転換リラックス法」=オーラを見る前の準備運動としてリラックスの練習をする。もちろん自分の中にある生命力に接近するためのものである。したがって、単なるリラックスではない。リラックスするときも、自分の内部のパワーに目が行くようになることと、自分の内部にそのパワーがうまく循環して、健康を取り戻す働きもある。
①椅子にゆったりと腰かけて、全身の余分な力を抜く。鼻からゆっくりと息を吸い、口を開けて、口からゆっくりと息を吐き出す。口は下あごをだらりと開けて、息が吐き出されるときには、下の奥歯・前歯にも息がかかるような気持ちで行う。そして、全身の細胞に生命力がゆったりと豊かに、いきわたるように思うこと。ちょうど風呂に腰まで入ってしばらく待っていると、じわっと温かさが全身にいきわたるような、そんな感じが最高である。
②立ち上がって、両手を上にあげ、1分間その状態のままにしておく。上には向かないようにすること。手の先から足の先までの間は経路を流れるパワーがうまく調整されていると思うようにする。そして実際経路の循環が良くなってくる。
③腰かけて背骨の両側の筋肉をリラックスさせてみる。蛇が動くように、背骨をくにゃくにゃと動かす。そうしてしばらく待つ。背骨の両側の筋肉から白く柔らかいパワーが放たれていることを思う。
④背骨の周囲に思い描いた白いパワーが全身に広がっていくことを思う。そして、指先から抜けていくようにする。
⑤暗いところを背景にして指先の周囲を見る。白い産毛のようなオーラが見える。
⑥首の後ろの中辺りに明るい光を思う。ついでに腰のあたりの背骨が仙骨にかけても白い光を思い描いてしまう。
⑦頭の後ろの中辺りから頭頂を通って額の方へと白金の色の光を動かしていく。
⑧目の前の自分の腕の長さほどの距離に、自分の内部にある光を投影する気持ちを起こす。(ただし、それぞれはほんの数秒づつ行うこと、長い時間やらないように)
 いろいろと述べたが実はこの⑧こそがオーラを見る元になっている。というのは、オーラの中には、相手の波動を受け取り、それをこちらの頭の中の増幅器が増幅して、目の前にいる相手の周囲に投影して見るというものがあるからである。それは、第2層目の色のついたオーラである。その中に相手の家族の顔が見えたりする事があるが、それは明らかに透視と同じ現象である。透視もこのような原理で見えるので、オーラの見方の中には「オーラ透視」と呼べるものがあるのである。そのため、いくら目を凝らしてもオーラの色が見えてこないことがよくある。なぜならこのメカニズムを知らないからである。空間に現れるのではなくて、こちらの頭が映写機、目がレンズ、空間がスクリーンとなる。それをその投影レンズとなって目が見ているのである。この場合のスクリーンの位置は、相手の身体の周囲になる。
⑨しばらく目を閉じる。それからゆっくりと開けて先ほどのように指先のオーラを見る。随分と見えるようになっている。
⑩両手を鶴の頭のような形にする。ゆっくりと息を吸いながらその手を肩のところに持ってくる。息を止めて三つ数えてからゆっくり手を開きながら戻す。そして、指先のオーラを見る。
 これまでの要領で、指先だけではなくて人の身体の周囲、植物の周囲も見るようにする。

 


 

〇転生先の体が特別な方法で特別な姿勢を養い、また特別な教訓を学ぶなどして、魂の進化に貢献する。母親、戦士、娘、あるいは牧師としての人生。愛、攻撃されやすさ、恐れ、喪失、そしてやさしさの体験。怒り、反抗、虚しさ、および嫉妬などとの苦闘。これらのすべてが、魂の進化を助長する。

 転生先の肉体の持つ特徴のすべてが、魂の目的と完ぺきに合致している。たとえそれが強い腕力であれ、弱い腕力であれ、高い知性であれ、低い知性であれ、明るい気質であれ、暗い気質であれ、黄色い皮膚であれ、黒い皮膚であれ…とにかく、どんな特徴であってもである。

〇魂の観点からすると、それぞれが体験する人生はすべてが同時に存在する。言い換えるなら魂が創造するいくつもの人生のすべてが、一度に存在するのである。よって一つの人生の中でネガティブな特徴が排除されたとしたら、その好影響は、その人生のみならず、魂が体験している、ほかのあらゆる人生にも及ぶことになる。魂は時間による制限を受けないため、それぞれの人生が恐れや疑いの流れを放出すると、その好影響は輪廻転生の体の未来のみならず、過去にまでも及ぶことになる。

〇意識とその肉体は、魂の疑似的な現れである。意識と肉体は機能を果たし続け、やがてその生涯を終えることになる。それはいうなれば、魂が体験している一つの人生の終わりであり、その時魂は、その人生を生きてきた意識と肉体を放棄する。その時点で終わりを迎えるのである。しかし、魂は終わらない。一つの人生が終わると、魂は本質である不滅で時間のない状態に戻っていく。そうやって、思いやりと明晰さ、それして際限のないアイデア触れた自然な状態へと戻るのである。

 

〇オーラは生命力の放射である、生命力を見るような気持にならないと見えてこない。通常、私たちが見るように見えてくるのだろうと思わない方がいい。じっとそのにある物体を見ていてもオーラは見えてこない、その周囲の空間を見なければならない。これは小さいころから慣れてきた見方とは違う、はじめは目が嫌がるかもしれないが、思い出すたびに物体の周囲も見るようにする、私たちは「生命力」すなわち「神」を見ようとしているのである。
 人間の生命力であるオーラはどのようにしたら見ることができるのか。オーラには三つの種類があり。一番見やすいのは身体近くあるものであり。その次がもっとも外側のものである。そこでまず、一番内側のものから見ていくことにする。
 オーラを見るには二つの方法がある。一つは機械的に見えるようになる方法、もう一つは心の目で見る方法である。二つの方法のどちらを選ぶにしても最低限これだけは心得ておく必要がある。それは、
①「相手の生命力を見ようとする」まず、相手の生命力を見ようとしているのだということを忘れないようにする、とすると初めのうちはオーラが見えてこないので、焦ってしまう。ここでぐっとこらえて相手の生命力の放射を見ようとする。つまり、相手の生命力に結果の世界から同調させていただこうとしているのだということを自分の心に強く言い聞かせる。決して見世物を見物するように集中して見ないこと、オーラの波動を色で見るときは、心で感じることが大切な要素になってくる。その心に色を知らせてくれるのが相手の生命波動を感受した自分の生命力なのである。要するに、生命力の海のさざ波を、私たちの心が感じ取ると考えていい。
②「コツコツと繰り返し行う練習でないと上達しない」一日五分でも行えばいい、それだけやればしめたもの。
③「必ず見えるようになる」オーラは練習をすればほとんどだれもが見えるようになる。ただその期間は個人差があるから、なんだか見えるのだか見えないのかという状態になったのだが、それ以上見えてこないのであきらめてしまうよりも、細く長く着実にできていった方がいい。
④「オーラを見ることによって自分に自信が出てくる」オーラが見え始めると私たちは他の人の持っている良い面、悪い面を敏感にキャッチできるようになり始める。これはオーラを見ること自体が相手の波動をキャッチすることであるために仕方のないことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〇人間性は弱者に対する態度に出る。


〇見返り根性を捨てると幸運の歯車が回る。


〇我慢のならない人こそあなたの教師。


〇あなたの環境は自分を映す鏡。


〇弱い人を助けて権力の誘惑には溺れるな。
 

〇「憑依される」というのは、その人の意識がネガティブなアトラクターフィールドによって支配されている事を意味している。この定義からすると、社会の大部分が徹底的に「憑依される」状態であることがわかる。また、人々は自分の動機に対して無意識なのである。
 一般的な知恵として人は天を崇拝するか、地獄を崇拝するかによって、やがてはどちらかに奉仕するものとなる。地獄とは神によって課された状態ではなく、むしろ自分自身が選択したことの必然的な結果である。
 絶えずネガティブを選択する最終的な結果であり、したがって、愛から自分自身を遠ざけることなのである。悟りを開いた人たちは、一般の人々のことを「夢にとらわれている」と常に表現してきた。大方の人間は、目に見えない「フォース」によって駆り立てられ、そして大方の人間がこの事実にかかわる事で人生に失望させられる。
 私たちは、自分の罪の重荷を取り除くために神に祈り、そして懺悔をして開放を探し求めるのである。後悔は、人生という布に織り込まれているように思われる。
 そのような破壊的な影響によって知らず知らずのうちに罠にはめられた人々が救済される可能性はあるのか?
 単に科学的な観点から見ても救済は本当に可能である。実際にネガティブなエネルギーより、愛のある思いのエネルギーの方が途方もなくパワフルであり、それによる救済は保証されている。したがって愛と祈りの伝統的な解決には、しっかりとした科学的な基盤がある。人間は自分の本質の中に自分自身を救済するパワーを持っているのである

 

〇完璧なままでいたら魂が震えるような経験はできないから、人とはみんなが愚かで悲しいものなのですね。だからこそ、魂を震わせる経験に出会うのかもしれません。どんなに偉い人よりも、とても悲しんでいる人に、苦しんでいる人に、ただ神様を見ます。


〇自分が苦しんだ分、悲しんだ分だけ、誰かの心にそっと寄り添いたいと思うのです。だから誰かが苦しんでいると、人は自分の愛を分け与えたいと思うのです。その気持ちが、私たちの思う「人のために役立ちたい」という無償の愛なのかもしれません。それは理屈ではなく、あなたという神様の愛を分け与えているのだと思います。あの世に還ったときに誇れるのは、魂の経験だけなのです。

〇どんな相手でも自分が気付けることや学べることを必ず持っています。これが良いことも、もちろん反面教師に思うこともあるでしょう。その中で、魂が喜びで共振する人、そして一緒にいて安心できる人、心地よい人と出会ったなら、それでよいと思います。本当にご縁があれば、気が付けば自然とあなたのそばにいるのです。

〇きっと、だれもが最初のころは不安を抱えながら、一生懸命、仕事を覚えて職場に馴染もうとするはずです。しかし、一通り仕事を覚えてしまうと、情熱ややる気がどうしても薄れてしまう人がいるものです。どういうことかというと、実は「もうそこで学ぶことはないですよ」という魂の合図でもあるのです。

〇次の仕事が見つからなかったらと不安になります。特に、家族を養っている人の責任感と不安はとても大きなものでしょう。だから、だましだまし仕事を続けようとするのですが、本当はもうそこでの収穫は終わっていたりするのです。「あえていろんな学びをしてほしい」という魂からの願いです。

 

 

〇「怒り」は恨みや復讐心を表すので、爆発しやすく、危険でもある。怒りが習慣となっている場合には、わずかなことにも過敏になる。「不公平なこと」を探し集めたり、喧嘩早かったり、もめごとや訴訟好きな人となる。怒りは欲求不満から生じるので「怒り」以下のエネルギーフィールドに基づいてしまう。フラストレーションは、欲望の重要性を誇張する結果である。腹を立ている人は、まるで子供のような欲求不満状態から、激怒に移ることもある。怒りは、簡単に憎しみへと通じて憎しみは人生のすべての領域に破壊的な影響を及ぼしてしまう。

 


〇意識を容易に上方へと移動させる最も重要な要素は、意欲的な態度である。新しい仮説が可能であるかどうか、新しい評価を下すための手段として心は開く。変化のための動機は、人間の在り方の限りない側面と同じくらいいくつもあるのであるが、心が謎や矛盾に挑戦するとき、たいていは自発的に生じるものであると理解されている。実際に禅などの特定の訓練では、意識の飛躍を巧妙に行うために、故意にそう言った行き詰まりを創る。私たちの意識のスケールにおいては、大きな前進と考えられる二つの臨界点がある。
 一番目は「許認」であり、パワーが最初に現れる最初のレベルである。ここでは非難をやめる意欲があり、自分自身の行動への責任と信頼が生まれる。原因と責任を自分以外のものに投影している限り、犠牲者意識は抜けず、パワーのないところに留まる。
 二番目は「愛」のレベルで、愛と無条件の許しをライフスタイルとして受け入れて例外なしに、全ての人々や物事、出来事に対して無条件の優しさを心掛ける。
 いったん人がこのようなコミットメントをすると知覚は進化し、今までとは異なるもっと恵み深い世界を経験し始める。

 


 

〇もし、今、その人が笑顔に囲まれているのであれば、過去に多くの笑顔を投げかけてきたからでしょう。自分が過去に投げかけてきたもののの集積として、その人は現在、それに囲まれているのです。ですから、明るい笑顔を投げかけてきた人は、その数十年の結果として現在、明るい笑顔に囲まれています。過去数十年、不機嫌を投げかけてきた人は、その集積として今、不機嫌に囲まれているのです。今のその人を見ていればその人の過去の集積がわかります。過去、どのような生き方を続けてきたのかが読み取れるというわけです。

〇あなたが自分にふさわしい分だけ持って生まれたものを、生きてゆく過程で、いかに自分で磨き、育てていくかが大切です。

〇「私の人生はツイてないなぁ」とか「運がないなぁ」など、そんな風には思わないでくださいね。この世において、「ついていない」と感じるのは、その後の必ず何かツイている出来事が起こる合図でもあります。

〇信じれば信じるほど、不思議フィールドからのお助けが増えてきます。きっと、自分が意図しないことで「なんてうまい采配をしてくれるのだろう」と感じることが多くなっていきます。不思議フィールドの皆さんの力の源は、あなたの信じる心なのかもしれませんね。あちらの方々を感じる些細なことや日々の小さな喜びを見つけて、喜んでくださいね。

〇あの世で自分のカップを覗いた時に、「結婚しないんだ」「子供は持たないんだ」「自分は、ここが不自由なんだ」と全部を納得して生まれたけれど、すべて忘れています。ですから、この世で自分が心から納得するために、必要な過程があるのだと思うのです。いま望みがかなわないとしても、必ず未来にはあなたが納得をして気付くことが待っています。

〇最初に願ったことが叶わなくても、魂は「最善」を知っているのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〇あなたは自分の履いている靴の紐を引っ張って自分の体を持ち上げることはできない、フォースはそれをすることができない。しかし、パワーはそうできるというよりも常にそうしている。人間は、自分の目に見える「フォース」によって生かされていると思いこんでいるが、実際には目に見えない根源的な「パワー」によって治められている。そのうえ、人間はそのパワーを全くコントロールする事はできない。パワーは努力を必要としないからこそ、その姿は見えなくて、その存在も疑われることはない。フォースは感覚を通して体感する。しかし、パワーは内なる気づきを通してのみ、認識できる。人間の意識は途方もなくパワフルなアトラクターのエネルギーパターンによって、今のように固定された状況になっている。
 それは、自分で無意識のうちに、そう言ったエネルギーを引き寄せているからである。人間は一瞬一瞬の進化の階段に止められては、フォースのエネルギーによって抑えられ、また、パワーのエネルギーによって、駆り立てられてきたのである。
 個人とは、意識の海に浮いている一つのコルクによく似たものである。どこにいるかわからないし、どこから来たのかも、どこへ行くのかもわからず、そして、その理由は何なのか知らずにいるのである。人間は限りない質問だらけの中でうろちょろしていて、世紀から世紀にかけて同じ疑問を繰り返しているのである。よほどの意識の飛躍がない限り、私たちはそれを繰り返し続ける。
 突然に理解力や意味合いが拡大する前兆として、内なる喜びや解放感、そして、畏敬の念などを体験することがある。そのような体験をした人たち全員が、宇宙は彼らに貴重な贈り物を与えてくれた、とその後感じるようである。事実は努力によって形になるが、真実は何の努力もなしに現れる。

 


 

〇親は子供によって、いかに自分が人格者になるかを要求されているわけで、子供にとっては、これ以上の親孝行はないでしょう。親も、それを自分でプログラムしてきたのです。

〇酒、たばこ、暴飲暴食に加えて、「不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言い続けて神様から借りた肉体という貸衣装をボロボロにしてしまった」と思う人は、これから死ぬまでの間に、肯定的な言葉や「ありがとう」という言葉をたくさん言ってみること。「ありがとう」を言うことで、この衣装は修復されるらしい、という法則を知った瞬間から、ひたすら実践してみることをオス勧めします。

〇認知症になる人の共通項とは、「死ぬことを怖がっている人」のようです。死を恐れている人には、神様が限りないやさしさを持つて、死を認識できないようにしてくださるようです。本人の希望通りになっている。ですから、死ぬことが怖くないと思えた人は、年をとっても認知症になることはありません。

〇なるべく「喜ばれるように」お金を使う。すると、3年後くらいから、不思議なお金の入り方が始まります。「喜ばれるように」使う実例としては、あまり流行っていないお店でお金を使うこと。行列のできるラーメン屋さんはあなたが払う代金は千分の一、ほとんど人が入っていないラーメン屋さんは十分の一、そういう店における支払いは、ものすごく喜ばれます。