〇人間が二元性を超越するという過酷な仕事を始めると、自分に対するすべての妨害を乗り越え、さらには、それらと葛藤がやむまでやり続けなければならないのである。しかし、鉄のようなエゴの束縛を喜んで諦めることに比べれば、金の鎖のような恍惚たる喜びを捨てることは全く別のことである。自分が神から見放されたように取れるのである。
 今まで、襲われたことのないような新たなレベルの恐怖が訪れる。これは「完全なる孤立」に対する最終的な恐怖である。自分が存在しなくなるのではないかという恐怖に襲われ、何度もそれから退き、そうすることで苦痛の種や苦悩の意味が明らかなる。
 それからの激しい苦痛を乗り越えるには、並々ならぬ努力が必要である。天国と地獄の間の不安定さに耐えがたくなるとき、生きたいというその欲そのものを放棄しなければならない。たった一度だけこれがなされると、人はようやくすべて、あるいは無を超越して、実在も存在しないことも超えてしまう。
 この内面のワークの頂点は、最も難しい段階であり、また、「存在の幻想」を超えることで、後戻りできないことに明確に気づく究極の分岐点となる。このステップを踏むと後戻りすることはない。この取り消すことのできない恐怖が、このプロセスの最後のバリアとなって、最も手ごわい選択肢として現れるのである。しかし、実際には、自己のこの最終的な黙示録が、残された二元性を唯一溶かせるものである。
 存在しているしていないという考え方そのものが、宇宙の神聖さに溶け込んでいく。しかし、それはいかなる個人意識でも選ぶことはできない。そして、最終的に現れるステップとは、神自らが踏むのである。
 この素晴らしい旅を追って行くと、自分の意識をフォースではなくパワーのレベルにいかに簡単に持ち上げられるかということに気付くだろう。するとあなたはこの世界で覚醒している一人となる。あなたの人生は以前とは明らかに違ったものになる。

 


 

〇自己嫌悪は神の側にある感情で、神からの贈り物です。「それをやめた方がいい」ということを教えてくれているのです。自分で自分を好きになる生き方をすること、自己嫌悪が生じない選択をし続けることです。

〇自分の価値観、考え方と会わない人を、自分の許容範囲内に連れてこようとするのですが、なかなか連れてくることはできません。そういう時に、苛立ったりストレスが溜まったり、怒ったりする。エリア内に入ってくれないから怒ってしまう、そうではなくて自分が広がってしまえばいい。一般的に多くの人が許せないようなことも私は許せる、という状態になれたら、これは、自分だけの努力ではなくて、そういう人が自分の目の前に現れれてくれたおかげだとおもうようになる。

〇落ち込む人、同時に有頂天になっている人というのは、すべて「自分の力がなかなかのものである」と思っているところからきている。その心はおごり、高ぶり、うぬぼれ、傲慢というものに近い。本当に謙虚になると、落ち込むことも有頂天になることもなくなる。

 

〇例外を作らず、すべてに対して普遍的な許しと優しさをもって接するように訓練すること。自分自身も、また自分の思考を含めて人間はすべてに対して、慈愛を持たなければならない。
 そして欲望にすがることをやめて、この一瞬一瞬に個人的な意思を手放すこと。各々の思考、フィーリング、切望や行為が神にゆだねられる時、心はより静寂さを増していく。まず、心や思考、概念といった、自分に語り掛けている対話をすべて放棄すること。思考そのものから解放されると、その思考はもはや自分の奥深くまで到達することはなく、半分は思考の形とならずに断片化し始める。最終的には、思考となる前に思考そのものの背後にあるエネルギーを手放すことが出来るようになる。瞑想状態から、ほんの一瞬も気をそらさずに、厳しいフォーカスをし続けることを絶えず行うこと。これを日常の普通の行為の中で続けること。
 最初は非常に難しく思えるが、時間が経つにつれて、それは習慣となり、努力なしにできるようになると楽になる。そのプロセスは、地球を飛び立つロケットに似ている。最初は莫大なパワーを必要とするが、重力のフィールドをどんどん去っていくと、それ自身の勢いによって空間を移動できるようになる。
 予期せずに突然意識にシフトが起きるとすべてを包むその「存在」が間違いなくそこにあることに気付く。一瞬自分は死んだのではないかという気持ちが起こり、そして次には絶対的なその「存在」に対する畏敬の念が現れる。そのブレイクスルーは、とにかく素晴らしいものであり、普段の経験と比較できるものではない。それに伴った奥深いショックは、その「存在」から感じた愛によって緩和される、その愛というサポートと加護がなければ人間は滅びてしまう。
 それが無に変わり果ててしまうというかもしれないという自我に執着すると恐れの瞬間がそれに続く。しかし、その代わりに「自我」が死んでいくにつれて、宇宙と一体になっている「偉大な自己」ともいうべきものと入れ替わる。その「偉大なる自己」の本質は「完全なもの」として表現される。
 そして、原因も結果も混然一体となっている「非局所性」を認識する意識が人間に生まれる。そのような人間はすべてのアイデンティティや性別、人間性そのものを超越して、トータル的に完璧である。だから二度と苦しみや死を恐れる必要はなくなるのである。
 この時点から見ると、体に起こることは重要ではなく、問題外なのである。精神の特定のレベルの認識化においては、忍耐の病は回復してしまうか、あるいは自発的に消えてしまう。しかし、敢然たる意識下では、そのような問題も関係ない。体はそれぞれの運命をめぐり、そしてそれがやってきた源へと変える。影響を受けなくなると、そんなことは重要ではなくなるということである。
 体は「私」というよりもむしろ部屋の中の家具のように単なる「物」にさえ見えてくる。人々が体を自分のものであるかのように表す事が滑稽に見えてくるかもしれないが、しかし、それに気づかない人にこの状態を説明する方法は全くない。ただ、普通に仕事をして、社会的な適応性につにいては、神の計らいに任せるのが一番である。
 しかし、人間は、至福に到達するにつれて、強烈な恍惚感の状態を隠すことは非常に難しくなる。この時点で他の人たちと、この状態を共有し、すべてのためにそれを使いたいという共通の願望が生まれる。それと同時に人々は圧倒されながらも一緒に至福のオーラの下に入ろうとする。精神性を探求するなど、スピリチュアルに強い好奇心を抱く人たちは、非常に病んでいる人であっても、奇跡を探求することに恐らく惹かれるはずである。中には、喜びの源へ磁石のように引き寄せられる人たちもいるかもしれない。この状態に伴う恍惚は、必ずしも安定してはいない。また、瞬間的にかなりの苦しみを伴うということを覚えておいていただきたい。この状態が変わったり、突然理由もなく、消えたりしたときに、激しい絶望感が訪れ、その「存在」に見放されたような恐怖に襲われることがある。このような「落下」は私たちの全身を阻むので、この状態を逆転させて乗り越えるには、かなりの強い意志を必要とする。最終的には、このレベルを超えなければならないのか、あるいは絶えず耐え難い「恍惚からの落下」を受けなければならないのかもしれないことは明らかである。だからこそ、恍惚の栄光は放棄されなければならないのである。

 


 

〇今、目の前にいる人を大事にして、周りの人すべてに感謝をしていく事で、自分が感謝をした分だけ感謝されるのです。今まで社員を感謝ではなく、力で動かそうとしていたから、そのつけとして、力関係が逆転した時には、力で攻撃されるわけです。それがつらいのであれば、今、この瞬間から、目の前の社員一人一人に感謝をする方向に切り替えることです。

〇時計の振り子を9時の方向に振りたいと思ったら、反対側の3時の方向に一旦、引っ張らなければならない、6時の位置にある振り子を5時のところまで引っ張れば7時のところまでしか行かない。神様はこんなやり方をします。これが人間の苦労とか大変さとかと呼んでいるものです。

〇「あら捜し」をしている人の周りには「嫌な人」しか存在しない。周りの人の問題ではなく、「自分の見方」が「地獄」の原因。

〇自分が正しくて相手が間違っていると思ったときに人間は腹を立てるが、実は、腹を立てている自分が一番損をする。

〇結婚するシナリオの人はするし、しない人はしない。しない人は、家庭という名の砥石がいらないということで、そのほかの部分、例えば職場や友人との人間関係において人格を磨くことになる。

 

〇私たちの心の明晰さがどの段階のものであれ、心をありのままに徹底的にかつ十分に経験すること、そうしているうちに、気づきが心の状態からエネルギーを抜き取ってしまい、諸々の心的状態が起こっても、もはや私たちを突き動かすだけの力を持たなくなることがわかってくる。心の状態の命ずるままに自動的に行動してしまうことはもはやなくなる。
 そうなると強烈な怒りとか、恐怖といった厄介な感情が生じても、さほど苦しまなくなる。そういった心の状態とも親しくなっているため、その関係も変わってくるのである。
 諸々の感情は意識の貯蔵庫から、私たちのハートから直接やってくる。私たちが学んでいるのは、それらと同一化してしまったり、抵抗したり、あるいは拒否したりせず、友好的に観察することである。私たちの心はいつも感情と対決したり、あるいは感情の中で迷ったりしている、重要なのは、戦場のようになっている私たちの心を平和共存の場へと変えることである。




〇呼吸も感受も心の状態も、やってきては去って行くもの、すべてを見つめていると、これらのことを「している自己」という概念が想像上のものである事も理解されてきている。生涯にわたって持つであろうその概念がすべて崩れ去ると、あるいは少なくとも、弱まってくると、私たちは重荷を下ろすことができる。自分で自分を知ることに喜びを覚えるようになる。それは常にやらなくては叱責されるような厳しい宿題ではなく、自らの人生を軽やかにしてくれる、役に立つ修行なのである。
 私たちは修行の核心に存在するある種の喜びにつながれていく。こうした心の状態を繰り返し観察していく内に、心の状態はその影響力を失って行く。怒りや渇望や不安に見舞われても、必ずしも問題になるわけではない、「恐れていても大丈夫」というのはそうあるべきだという観念ではなく、実際の事実である。あなたは恐れているのだけれども、それで大丈夫なのである。一つ一つの呼吸の自然の流れに従うのが容易になってくるにつれてこれらの心の状態に向かい合って直接的に経験するのも容易になってくる。そうしているうちに、これらの心の状態は、やせ細って崩れ去っていく。瞑想が目指しているのはすべての物がやってきた場所へと戻っていくことである。一切は、静けさの中からやってきて静けさの中へと帰っていく、心が落ち着き、静寂になるにつれて、心理的な時間の感覚が消え去り、広大な広がりへと開かれていく、それは興奮の背後で常にそこにあったのである。

 

 

〇自分が「正しく」生きてきたかどうかではなく、問題は、「楽しく」生きてきたかどうかなのです。ですから、「自分は正しい生き方をし、ほかの人は正しくない生き方をしてきたにもかかわらず、正しい私の方が病気になって、正しくない人の方がのうのうと生きている」と考えること自体が、すでに自分の体にがん細胞を作っているということになります。

〇人間は、何かを社会に対してなした時に、二つの報酬を選択して受け取ることができる。そのうちの一つは金銭であり、もう一つはパワーです。当然のことながら、金銭は一度で終わり。パワーはその人の身につくものですから、そこから死ぬまで永久です。どちらがより得か?

〇今の状況が自分にとって嫌なものだと思うなら、今この瞬間から、過去にやってきたこととは違う積み重ねを始めた方がいい。すると何年か経った時には、穏やかな関係を築くことができる、しかし、今までの積み重ねの集積として、目の前に刃として突き付けられているとしたら、それは自分が怒鳴ったり威張ったりしたことの結果です。

 

〇無視したり、抑圧することで恐怖が育つことを阻むと、恐怖は私たちに付きまとって引きずり倒してしまう。なぜなら恐怖を避けるためにあまりにも多くのエネルギーを費やしてしまうからである。感情が自らの花を咲かせるが、干渉しなければ、それはそれ自身の命に従って去っていく。そうするとかつては逃れたり戦ったりするために使ったエネルギーがすべて手元に残ることになる。さらに恐怖自体のエネルギーも手に入る。
 物事を起こるに任せることが出来たとき、多くのエネルギーを獲得することができるのである。恐れを持たない心の土台は恐怖である。恐れなくなるには、自分で恐怖の真っただ中に立たなくてはならない。恐れを持たない心といっても、そうした土台のないものを信じるべきではない。自分の恐怖を見つめてそれを認めること。自分は恐れているという事実を確認することが出発点となる。そうすれば恐れを持たない心を学ぶための大きな勇気と謙虚さを得ることができる。
 しかし、長いプロセスとなる場合がある。常に暖かく充実した経験でなければならないという考えにはまり込んでしまうのは、人生においてだけではなく修行においてもしばしば起こる。いつも「喜悦や幸福を経験していて顔は穏やかに輝きスピリチュアルで充実しているように見えるべきだ」そうなりたいと思うのは自然なことであるが、それもまた罠となる。
 人々は自分が実際に経験している感受を否認しながら外面を取り繕って歩き回っているのである。もしも、あなたが絶望的なまでに不幸であるなら、内側を麻痺させて幸せそうに顔を輝かせているよりも、その不幸としっかり、ともにある事の方が大切である。その方がより真実に近い修行にもなる。
 気付きがあなたをいつも幸せにして入れるなどということはない。だれも望まない事とは言え、あなたがひどい恐怖を経験しているとき、そこには本当にそれとともにあることのハッキリとした充実感がある。それは、正確に言うと達成感ではない。それは、たった今あなたが自分の人生をありのままに生きているということである。これが、心のプロセスを鎮めるということの意味である。
 感受が現れ、恐怖のような強烈なものであっても、意識的な呼吸を使いながらそれとともに存在する。それとともにとどまる。あるがままにする。
 意識的な呼吸と気づきがその感受から力を抜き取ってしまうから、心がヒステリックになってしまうことはない。感受は私たちをそのような無思慮な状態に追い込んでいく可能性を失う。最終的に仏陀が感受に関して言ったのはそのことである。
 「悟ったのは感受の生起と消滅をありのままに見て、それを味わうこと、それが生み出す危険、それらからの解放をありのままに見ることによってすべての執着から解放されて自由になっている」

 


 

〇あれこれ評価、評論せず、やるハメになったことをする、頼まれて時間があったら引き受ける、という淡々とした生き方をしていると、いつの間にか「悩み・苦しみがゼロ」になっている自分に、気が付くことでしょう。

〇子供をどうしたいとか、だれをどうしたいとか、自分のの思いどおりにならないことをどうしたらいいか、という話は、相談事ではありません。「自分の思い通りにしたい」だけなのです。

〇自分がどう生きるかではなくて、自分以外の人をいかに自分の思い通りにするかということが、自分の「悩み」だと思っている人が増えているようです。自分以外のものを自分の思どおりにするという考え方を全部やめる。自分がどう生きるかだけをまず考えること。

〇目の前の人が、自分の考え、生き方、価値観とは違うということを認めること。それを学びに生まれてきているのです。

〇悩み、苦しみ、苦悩、煩悩とは、何かを自分の思い通りにしようとした瞬間に生まれるのです。

〇がんであと三か月の命、と宣告されたら、それをどうやって半年、一年に伸ばそうかと思うのではなくて、その三か月の間に「どれだけ人に喜ばれたか」ということを、足跡として残していく方がいいと思います。「喜ばれること」は、自分が「喜びを感ずる」こととイコールです。

 

〇太古の昔から知られていることであるが、人間の強い思念や意思は奇跡を起こすことができる。すべての民族に呪術(他人のバイオフィールドや無意識領域に精神エネルギーにより作用を起こすこと)は存在していた。精神的緊張がみなぎる今日の社会において、意識的または無意識に他人を害する人々は少なくない。もしも、ネガティブな感情が集中すれば、他人のバイオフィールドを変形させたり穴を開けたりすることになる。つまり民間で邪視と呼ばれている行為を行うことになる。もしも送られた思念が感情レベルにおいて、強力であれば、バイオフィールドにより深刻な打撃を与える、つまり呪いをかけることになる。

 


〇勉強には大切な意味があるし、努力は自分を信じる力になる。「欲」「目標」に変換することで自分に嘘をつかずに、夢に近づくことができるようになる。「〇〇が欲しい」という欲望は「〇〇が足りない現実」を作ってしまう。一方「〇〇が近づいている」という自信・確信は「〇〇が近づく現実」を引き寄せることにつながる。夢は追い求めてはいけない、引き寄せるのである。

 


〇ポジティブなものに関心を寄せればポジティブなものをとらえるスキルが、ネガティブなものに関心を寄せれば、ネガティブなものに関心を寄せるスキルが上がっていく、簡単な話である。「幸せな人」は「良いと思うこと」に関心を寄せている。「不幸な人」は何が「良いこと」なのかに無関心でいるのである。または、人の失態をあざけ笑ったり、「自分が勝つこと」に喜びを感じたり、「あいつが悪い」「ここが悪い」「自分が悪い」と「悪いということ」に関心を寄せている。そうすれば「悪いということ」をとらえる能力が向上する。
 

〇自分が本来どのような行動・行為をとらなければならないか十分に判断できる立場の人が自己中心的に、邪な思いを満足させようとするとその時に生じるカルマは厳しいものになる。

〇霊性の高い人はそれだけ責任が大きいことを知らなければならない。同じ行為に対しても責任の関われかたが違ってくる。

〇夢というのは不思議なもので勝算があるからメッセージを送るのです。不可能なことを夢主に送ることはありません。

〇みんながやりたがらないことに神は宿る。

〇「金持ちになったら寄付する」ではなく「寄付をする理から金持ちになる」

〇人は自分を認めてくれる人の方に向かって動く。