〇例外を作らず、すべてに対して普遍的な許しと優しさをもって接するように訓練すること。自分自身も、また自分の思考を含めて人間はすべてに対して、慈愛を持たなければならない。
 そして欲望にすがることをやめて、この一瞬一瞬に個人的な意思を手放すこと。各々の思考、フィーリング、切望や行為が神にゆだねられる時、心はより静寂さを増していく。まず、心や思考、概念といった、自分に語り掛けている対話をすべて放棄すること。思考そのものから解放されると、その思考はもはや自分の奥深くまで到達することはなく、半分は思考の形とならずに断片化し始める。最終的には、思考となる前に思考そのものの背後にあるエネルギーを手放すことが出来るようになる。瞑想状態から、ほんの一瞬も気をそらさずに、厳しいフォーカスをし続けることを絶えず行うこと。これを日常の普通の行為の中で続けること。
 最初は非常に難しく思えるが、時間が経つにつれて、それは習慣となり、努力なしにできるようになると楽になる。そのプロセスは、地球を飛び立つロケットに似ている。最初は莫大なパワーを必要とするが、重力のフィールドをどんどん去っていくと、それ自身の勢いによって空間を移動できるようになる。
 予期せずに突然意識にシフトが起きるとすべてを包むその「存在」が間違いなくそこにあることに気付く。一瞬自分は死んだのではないかという気持ちが起こり、そして次には絶対的なその「存在」に対する畏敬の念が現れる。そのブレイクスルーは、とにかく素晴らしいものであり、普段の経験と比較できるものではない。それに伴った奥深いショックは、その「存在」から感じた愛によって緩和される、その愛というサポートと加護がなければ人間は滅びてしまう。
 それが無に変わり果ててしまうというかもしれないという自我に執着すると恐れの瞬間がそれに続く。しかし、その代わりに「自我」が死んでいくにつれて、宇宙と一体になっている「偉大な自己」ともいうべきものと入れ替わる。その「偉大なる自己」の本質は「完全なもの」として表現される。
 そして、原因も結果も混然一体となっている「非局所性」を認識する意識が人間に生まれる。そのような人間はすべてのアイデンティティや性別、人間性そのものを超越して、トータル的に完璧である。だから二度と苦しみや死を恐れる必要はなくなるのである。
 この時点から見ると、体に起こることは重要ではなく、問題外なのである。精神の特定のレベルの認識化においては、忍耐の病は回復してしまうか、あるいは自発的に消えてしまう。しかし、敢然たる意識下では、そのような問題も関係ない。体はそれぞれの運命をめぐり、そしてそれがやってきた源へと変える。影響を受けなくなると、そんなことは重要ではなくなるということである。
 体は「私」というよりもむしろ部屋の中の家具のように単なる「物」にさえ見えてくる。人々が体を自分のものであるかのように表す事が滑稽に見えてくるかもしれないが、しかし、それに気づかない人にこの状態を説明する方法は全くない。ただ、普通に仕事をして、社会的な適応性につにいては、神の計らいに任せるのが一番である。
 しかし、人間は、至福に到達するにつれて、強烈な恍惚感の状態を隠すことは非常に難しくなる。この時点で他の人たちと、この状態を共有し、すべてのためにそれを使いたいという共通の願望が生まれる。それと同時に人々は圧倒されながらも一緒に至福のオーラの下に入ろうとする。精神性を探求するなど、スピリチュアルに強い好奇心を抱く人たちは、非常に病んでいる人であっても、奇跡を探求することに恐らく惹かれるはずである。中には、喜びの源へ磁石のように引き寄せられる人たちもいるかもしれない。この状態に伴う恍惚は、必ずしも安定してはいない。また、瞬間的にかなりの苦しみを伴うということを覚えておいていただきたい。この状態が変わったり、突然理由もなく、消えたりしたときに、激しい絶望感が訪れ、その「存在」に見放されたような恐怖に襲われることがある。このような「落下」は私たちの全身を阻むので、この状態を逆転させて乗り越えるには、かなりの強い意志を必要とする。最終的には、このレベルを超えなければならないのか、あるいは絶えず耐え難い「恍惚からの落下」を受けなければならないのかもしれないことは明らかである。だからこそ、恍惚の栄光は放棄されなければならないのである。